2008年09月10日
真田幸村役の城田優って?
大河ドラマ『天地人』の真田幸村のキャスト決まりましたね。
真田幸村役は城田優さん。
城田優って?だれ?
皆さん知ってる?
ボクはゴメンなさい。。。知りません。
というワケで、少々調べてみました。
城田 優

ワタナベエンターテインメント所属の役者集団D-BOYSの元メンバー
出生地 東京都御茶ノ水
国籍 スペイン
血液型 O型
出演作品
花ざかりの君たちへ〜イケメン♂パラダイス〜(2007年、フジテレビ) - 神楽坂真言 役
交渉人〜THE NEGOTIATOR〜(2008年1月 - 2月、テレビ朝日) - 真里谷恭介 役
ROOKIES(2008年4月 - 7月、TBS) - 新庄慶 役
ざっとこんなところだ。
驚いたのは国籍がスペインなんですよね!
すげぇ~~~
幸村も遂に国際化か?
にしても昔から幸村役はイケメンが多いですね。
『茶々 天涯の貴妃』のときの黄川田将也や、古くは真田太平記の草刈正雄。
今回の城田優。
どの人も皆カックイイ!!!
これはやはり真田幸村は皆がそういうイメージを持っているせいのなのだろうか。
とにかくこれでまた一つ楽しみが増えた。
城田優オフィシャルブログ
城田優インタビュー
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機略縦横!真田戦記
真田幸村と大坂の陣
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真田幸村役は城田優さん。
城田優って?だれ?
皆さん知ってる?
ボクはゴメンなさい。。。知りません。
というワケで、少々調べてみました。
城田 優

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出生地 東京都御茶ノ水
国籍 スペイン
血液型 O型
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交渉人〜THE NEGOTIATOR〜(2008年1月 - 2月、テレビ朝日) - 真里谷恭介 役
ROOKIES(2008年4月 - 7月、TBS) - 新庄慶 役
ざっとこんなところだ。
驚いたのは国籍がスペインなんですよね!
すげぇ~~~
幸村も遂に国際化か?
にしても昔から幸村役はイケメンが多いですね。
『茶々 天涯の貴妃』のときの黄川田将也や、古くは真田太平記の草刈正雄。
今回の城田優。
どの人も皆カックイイ!!!
これはやはり真田幸村は皆がそういうイメージを持っているせいのなのだろうか。
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タグ :真田幸村
2008年07月18日
真田幸村 薩摩落ちの謎
1615年(元和元年)大坂夏の陣に敗れた豊臣秀頼。
しかし、実際にその死骸が確認はされておらず、そのせいもあってか生存説が伝わっている。

その一番が薩摩落ち である。
大坂城落城を目の前にした真田幸村は秀頼、秀頼の子 国松などを連れて城の抜け穴から脱出し、海路薩摩まで逃げた。
薩摩では木の下川周辺に隠れ住み生活していた。
しかし、さすがに徳川時代、監視の目が厳しく、はばかった島津家は秀頼たちを大隈半島に移しさらに隠した。
その隠れ住んだ場所には豊臣の守り本尊だったお稲荷様があり、その近くには遊喜浦(ゆきうら)と言う地名があり、真田幸村が住んでいたと見られているそうだ。
実際にこの地には秀頼の墓と称される石塔があり、正月などに参詣する慣わしが在ったという。
また大分県の長流寺には国松の墓といわれる五輪等が建っている。
真田の意地得と御覧あれ!
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しかし、実際にその死骸が確認はされておらず、そのせいもあってか生存説が伝わっている。

その一番が薩摩落ち である。
大坂城落城を目の前にした真田幸村は秀頼、秀頼の子 国松などを連れて城の抜け穴から脱出し、海路薩摩まで逃げた。
薩摩では木の下川周辺に隠れ住み生活していた。
しかし、さすがに徳川時代、監視の目が厳しく、はばかった島津家は秀頼たちを大隈半島に移しさらに隠した。
その隠れ住んだ場所には豊臣の守り本尊だったお稲荷様があり、その近くには遊喜浦(ゆきうら)と言う地名があり、真田幸村が住んでいたと見られているそうだ。
実際にこの地には秀頼の墓と称される石塔があり、正月などに参詣する慣わしが在ったという。
また大分県の長流寺には国松の墓といわれる五輪等が建っている。
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タグ :真田幸村
2008年07月10日
真田幸村 初陣の日は?
日本一の強兵 と呼ばれる真田幸村。
では幸村の初陣はいつだったんだろうか?
みなさんもご存知の通り真田幸村は人質暮らしが長かった。
というよりも上杉家へ赴いたのが1585年(天正13年)である。
このときの史料には19歳でありながら、まだ弁丸となっているので元服さえしていないものと見られる。

早い者だと13歳くらいで元服している者もあるのに、後に天下に轟く武名を残す真田幸村は19歳にしてまだ弁丸ちゃんだった・・・・のだ。
1586年(天正14年)幸村は上杉家から豊臣家移る。
そして1590年(天正19年)幸村は秀吉の小田原征伐に従軍する。
戦に行くのに弁丸では無理なので、おそらくはこの天正14年から18年にかけて元服したものと見られる。
おそらく秀吉の小姓となったのちに、秀吉の執り成しで加冠元服の義を執り行ってもらったのではないかと予測できる。
こうして元服を済まし源次郎信繁となった真田幸村は小田原征伐に参加している。
もともとが戦いのきっかけが名胡桃城をめぐる真田と北条の確執なので真田家が参陣しないわけにもいかないし、何より地理的に地元民なので先鋒になる勤めが当たり前だったであろうから秀吉からも幸村に父兄と共に戦うことを勧められたのではないか。
『滋野世記』には「昌幸父子兄弟に彼の筋の案内者たるに依って」とあるし、幸村に関しても
「源次郎信繁、自身に働き、手を砕きて高名あり」としている。
そして真田家は道先案内として先鋒を勤め、松井田城、箕輪城攻略に参加している。
最後は甲斐姫の立て籠もる忍城攻めにも参加しているのではないだろうか。
甲斐姫は自ら鎧兜を身に付けて兵を率いて討って出、豊臣軍を翻弄したとされる。
そこへ真田昌幸・幸村父子が援軍に差し向けられて来た。
武勇に優れた真田勢の猛攻に城門の一つが突破されそうになると、甲斐姫自ら兵を率いて討って出て幾多の首を討ち取り、寄せ手の侵入を阻止したという。
このことが甲斐姫と真田幸村が槍を交えたというエピソードにも繋がっているのではないだろうか?
こうして真田幸村は稀代稀な才能を見せる第一歩を踏み出したことになる。
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では幸村の初陣はいつだったんだろうか?
みなさんもご存知の通り真田幸村は人質暮らしが長かった。
というよりも上杉家へ赴いたのが1585年(天正13年)である。
このときの史料には19歳でありながら、まだ弁丸となっているので元服さえしていないものと見られる。

早い者だと13歳くらいで元服している者もあるのに、後に天下に轟く武名を残す真田幸村は19歳にしてまだ弁丸ちゃんだった・・・・のだ。
1586年(天正14年)幸村は上杉家から豊臣家移る。
そして1590年(天正19年)幸村は秀吉の小田原征伐に従軍する。
戦に行くのに弁丸では無理なので、おそらくはこの天正14年から18年にかけて元服したものと見られる。
おそらく秀吉の小姓となったのちに、秀吉の執り成しで加冠元服の義を執り行ってもらったのではないかと予測できる。
こうして元服を済まし源次郎信繁となった真田幸村は小田原征伐に参加している。
もともとが戦いのきっかけが名胡桃城をめぐる真田と北条の確執なので真田家が参陣しないわけにもいかないし、何より地理的に地元民なので先鋒になる勤めが当たり前だったであろうから秀吉からも幸村に父兄と共に戦うことを勧められたのではないか。
『滋野世記』には「昌幸父子兄弟に彼の筋の案内者たるに依って」とあるし、幸村に関しても
「源次郎信繁、自身に働き、手を砕きて高名あり」としている。
そして真田家は道先案内として先鋒を勤め、松井田城、箕輪城攻略に参加している。
最後は甲斐姫の立て籠もる忍城攻めにも参加しているのではないだろうか。
甲斐姫は自ら鎧兜を身に付けて兵を率いて討って出、豊臣軍を翻弄したとされる。
そこへ真田昌幸・幸村父子が援軍に差し向けられて来た。
武勇に優れた真田勢の猛攻に城門の一つが突破されそうになると、甲斐姫自ら兵を率いて討って出て幾多の首を討ち取り、寄せ手の侵入を阻止したという。
このことが甲斐姫と真田幸村が槍を交えたというエピソードにも繋がっているのではないだろうか?
こうして真田幸村は稀代稀な才能を見せる第一歩を踏み出したことになる。
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2008年06月10日
真田幸村 記憶に残る評価
大坂の陣における真田幸村の奮戦はかなり強烈な印象だったようで、その中でも一番なのが夏の陣のときの家康本陣への突撃であることは云うまでもない。

大久保彦左衛門は『三河物語』に
「三方ヶ原にて一度御旗の崩れ申すよりほか、後先の陣にも御旗の崩れ申すことなし」と幸村の凄まじい突撃を語っている。
また家康の退却ぶりも『本多家記録』にはこう書かれている。
「幸村十文字の槍を以って、大御所を目掛け戦わんと心がけたり。大御所とても叶わずと思し召し植松の方へ引き給う」とあり。
『朝野旧聞哀稿』での家康は更に酷く。
「家康本陣総崩れとなり、家康は身代わりとして本多正純を将座に残し、自分は身をもって玉造方面を目指し落ち延び、その到底のがるべからずとして二度まで自害せんとす」とある。
真田幸村の突入にパニック状態になった徳川軍がおり、家康自身も二度まで自害しようとしているのだ。
時の支配者に対してここまで書ける史料はないはずだから、かなり脚色されたものであろうとは思うのだが、それにしても敵方にここまで言わせる幸村はやはり凄まじい活躍をしたのだろう。
豊家から受けた恩いま返すとき!
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戦国無双2 真田幸村 コスプレ衣装 Price23,800円
大刀 真田幸村 真田拵Price23,100円
純銀鍔ペンダント 真田幸村 六文銭【シルバー】Price8,900円

大久保彦左衛門は『三河物語』に
「三方ヶ原にて一度御旗の崩れ申すよりほか、後先の陣にも御旗の崩れ申すことなし」と幸村の凄まじい突撃を語っている。
また家康の退却ぶりも『本多家記録』にはこう書かれている。
「幸村十文字の槍を以って、大御所を目掛け戦わんと心がけたり。大御所とても叶わずと思し召し植松の方へ引き給う」とあり。
『朝野旧聞哀稿』での家康は更に酷く。
「家康本陣総崩れとなり、家康は身代わりとして本多正純を将座に残し、自分は身をもって玉造方面を目指し落ち延び、その到底のがるべからずとして二度まで自害せんとす」とある。
真田幸村の突入にパニック状態になった徳川軍がおり、家康自身も二度まで自害しようとしているのだ。
時の支配者に対してここまで書ける史料はないはずだから、かなり脚色されたものであろうとは思うのだが、それにしても敵方にここまで言わせる幸村はやはり凄まじい活躍をしたのだろう。
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2008年06月08日
真田幸村 九度山脱出
真田幸村が九度山を脱出したのはどのようにして脱出したのか?
豊臣・徳川が怪しい雰囲気になってきたとき、徳川家は各地の大名に自領の警戒を強めさせた。

幸村が配流されている紀州九度山の浅野長晟もこの命に従い警戒を強めている。
そればかりでなく、高野山のほうも監視役として警戒を強くしている。そんな中どのようにて脱出をしたのか。
幸村はこれまでと異なる浅野家や高野山の動きを敏感に感じ取っていた。
そこで一計を案ずる。
幸村は真田屋敷周辺の庄屋や村民に日頃昵懇にしているお礼にご馳走したいと触れ回り、真田屋敷に数百名を集めた。
そして分け隔てなく皆に酒を勧めたのである。
その結果全員が酔い潰れ、酩酊状態になり、そこを見計らって農民たちの乗ってきた馬に乗り九度山を脱出したとしている。
これは『真武内伝』、『真田家譜』などに書いてある。
一夜明けて浅野家の家臣が異変に気づいたときには真田家郎党はもぬけの殻だった。
この話は幸村が農民を奇計により騙す形だが、『翁物語』には幸村と農民が結託する話が書いてある。
それによれば幸村が近隣の農民を自宅に招いて酒宴をするまでは同じなのだが、その席で幸村は自ら豊富家から誘いが来ていることを話す。
長い蟄居生活の間に受けた恩に感謝しているが、自分が大坂に赴けば九度山の皆に迷惑がかかる。
なので大坂に行き難いと言うのである。
すると農民たちは、かまわずに大坂に行ってください、私達は夜中に酒を飲んで酔っていたことにすれば罪には問われないから気にせずに大坂に向かってくださいと言うのである。
あまり信憑性に欠ける話ではあるが一応『翁物語』には書いてある。
どちらにしても監視の厳しい中農民は騙せたかも知れないが浅野家や、各関所などはどのように通過したのかは分からない。
他の武将たちもそうだが実際の監視はそれ程厳しくはなかったのかもしれない。
ちなみに幸村にまんまと脱出された高野山の文殊院は、さっそく金地院崇伝に連絡し、崇伝は本多正純に連絡を入れている。
これに対して浅野家は連絡さえもしていない。
徳川時代に不満を抱いていたのか、幸村の境遇に同情していたのか不明だがかなりあっさり脱出をされているのだ。
豊家から受けた恩いま返すとき!
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豊臣・徳川が怪しい雰囲気になってきたとき、徳川家は各地の大名に自領の警戒を強めさせた。

幸村が配流されている紀州九度山の浅野長晟もこの命に従い警戒を強めている。
そればかりでなく、高野山のほうも監視役として警戒を強くしている。そんな中どのようにて脱出をしたのか。
幸村はこれまでと異なる浅野家や高野山の動きを敏感に感じ取っていた。
そこで一計を案ずる。
幸村は真田屋敷周辺の庄屋や村民に日頃昵懇にしているお礼にご馳走したいと触れ回り、真田屋敷に数百名を集めた。
そして分け隔てなく皆に酒を勧めたのである。
その結果全員が酔い潰れ、酩酊状態になり、そこを見計らって農民たちの乗ってきた馬に乗り九度山を脱出したとしている。
これは『真武内伝』、『真田家譜』などに書いてある。
一夜明けて浅野家の家臣が異変に気づいたときには真田家郎党はもぬけの殻だった。
この話は幸村が農民を奇計により騙す形だが、『翁物語』には幸村と農民が結託する話が書いてある。
それによれば幸村が近隣の農民を自宅に招いて酒宴をするまでは同じなのだが、その席で幸村は自ら豊富家から誘いが来ていることを話す。
長い蟄居生活の間に受けた恩に感謝しているが、自分が大坂に赴けば九度山の皆に迷惑がかかる。
なので大坂に行き難いと言うのである。
すると農民たちは、かまわずに大坂に行ってください、私達は夜中に酒を飲んで酔っていたことにすれば罪には問われないから気にせずに大坂に向かってくださいと言うのである。
あまり信憑性に欠ける話ではあるが一応『翁物語』には書いてある。
どちらにしても監視の厳しい中農民は騙せたかも知れないが浅野家や、各関所などはどのように通過したのかは分からない。
他の武将たちもそうだが実際の監視はそれ程厳しくはなかったのかもしれない。
ちなみに幸村にまんまと脱出された高野山の文殊院は、さっそく金地院崇伝に連絡し、崇伝は本多正純に連絡を入れている。
これに対して浅野家は連絡さえもしていない。
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2008年05月23日
真田丸の構造目的とは
大坂冬の陣で真田幸村が大活躍する真田丸。
冬の陣の和睦後取り壊され、なお大坂落城後、豊臣政権の大坂城の上に築かれた現在の大坂城には当時の面影はない。
しかし意外と資料は多く残っているようで、『大坂冬の陣屏風』では真田丸の周囲には空堀を設け、浅敷を持った高塀で囲み、櫓を林立させている。

また堀の幅を浅野家の『摂津 真田丸図』では「廿四間程」(約43m)としており、浅敷の高塀に関しては、『大坂御陣山口休庵咄』に「玉造御門の南、東八丁目の御門の東、一段高き畑御座を三方にから堀、塀を一重かけ、堀の向こうと空堀の中と堀ぎわに柵を三重に附け、諸所櫓、井楼をあげ、塀の腕木に幅七尺の武者走りを設け、鉄砲を隙間なく並べ」とある。
かなりの規模のものだったと窺える。
幸村がなぜ真田丸を築いたのか。
大坂城は周囲を天然の河川に囲まれ、西側には大坂湾が面している。
大坂城を攻めるには南の方角から攻めるのが一番いい。南方以外は低湿地帯であり、攻めるのは不向きなのである。
実際に織田信長が石山本願寺を攻めた際も南方から攻めているらしい。
このことから豊臣秀吉は大坂城を造る際に南方を意識し、惣構の空堀を造っている。
幸村は大坂に人質になっている際にその辺りも見ていたのであろう。そして秀吉からもそのような話しを聞いていたのではないだろうか。
大坂城攻防の最大の戦地は南側にあり!
死地を求めて大坂に入城した幸村、華々しく戦いたい、あわよくば勝利し一気に伸し上がることも夢ではないと思い、軍議の場において策を提案するも受けいられず籠城策となった。
ならば、誰にも邪魔されずに存分に戦いたい、そう感じたのだろう。
真田丸を築くことを求め許可されるのである。
豊臣方としても兄が徳川方に付いている幸村である。
城内に入れておいて裏切られたら、たまったもんじゃない。そう思い邪魔な幸村は城外に於いておいたほうが無難というのがホンネではないだろうか。
結果、真田丸には真田軍となった兵5000あまりが籠もるかたちとなった。
大坂城と繋がってはいるものの、真田軍のみが孤立した出城に籠もるような状態になっていた。
真田丸の構造は、たとえ真田丸以外の惣構が突破されても、進入した敵の脇を突けるかたちとなっており、敵を分断して個別撃破できるのである。
事実、冬の陣において真田丸は敵の攻撃を集中的に受けるが、見事これを撃破し徳川勢を散々な目にあわせている。
この戦闘において真田幸村の名は一躍有名になり、やはり真田は侮り難し!というようになっていく。
家康も当初、昌幸でないことを安心していたが、考えを改めさせられ幸村調略に動き始めるのも真田丸での攻防があったからだろう。
豊家から受けた恩いま返すとき!
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冬の陣の和睦後取り壊され、なお大坂落城後、豊臣政権の大坂城の上に築かれた現在の大坂城には当時の面影はない。
しかし意外と資料は多く残っているようで、『大坂冬の陣屏風』では真田丸の周囲には空堀を設け、浅敷を持った高塀で囲み、櫓を林立させている。

また堀の幅を浅野家の『摂津 真田丸図』では「廿四間程」(約43m)としており、浅敷の高塀に関しては、『大坂御陣山口休庵咄』に「玉造御門の南、東八丁目の御門の東、一段高き畑御座を三方にから堀、塀を一重かけ、堀の向こうと空堀の中と堀ぎわに柵を三重に附け、諸所櫓、井楼をあげ、塀の腕木に幅七尺の武者走りを設け、鉄砲を隙間なく並べ」とある。
かなりの規模のものだったと窺える。
幸村がなぜ真田丸を築いたのか。
大坂城は周囲を天然の河川に囲まれ、西側には大坂湾が面している。
大坂城を攻めるには南の方角から攻めるのが一番いい。南方以外は低湿地帯であり、攻めるのは不向きなのである。
実際に織田信長が石山本願寺を攻めた際も南方から攻めているらしい。
このことから豊臣秀吉は大坂城を造る際に南方を意識し、惣構の空堀を造っている。
幸村は大坂に人質になっている際にその辺りも見ていたのであろう。そして秀吉からもそのような話しを聞いていたのではないだろうか。
大坂城攻防の最大の戦地は南側にあり!
死地を求めて大坂に入城した幸村、華々しく戦いたい、あわよくば勝利し一気に伸し上がることも夢ではないと思い、軍議の場において策を提案するも受けいられず籠城策となった。
ならば、誰にも邪魔されずに存分に戦いたい、そう感じたのだろう。
真田丸を築くことを求め許可されるのである。
豊臣方としても兄が徳川方に付いている幸村である。
城内に入れておいて裏切られたら、たまったもんじゃない。そう思い邪魔な幸村は城外に於いておいたほうが無難というのがホンネではないだろうか。
結果、真田丸には真田軍となった兵5000あまりが籠もるかたちとなった。
大坂城と繋がってはいるものの、真田軍のみが孤立した出城に籠もるような状態になっていた。
真田丸の構造は、たとえ真田丸以外の惣構が突破されても、進入した敵の脇を突けるかたちとなっており、敵を分断して個別撃破できるのである。
事実、冬の陣において真田丸は敵の攻撃を集中的に受けるが、見事これを撃破し徳川勢を散々な目にあわせている。
この戦闘において真田幸村の名は一躍有名になり、やはり真田は侮り難し!というようになっていく。
家康も当初、昌幸でないことを安心していたが、考えを改めさせられ幸村調略に動き始めるのも真田丸での攻防があったからだろう。
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2008年05月19日
真田幸村と牢人諸将
大坂に集まった数多の牢人。
そのなかでも長宗我部盛親、毛利勝永、そして真田幸村は三人衆として評されており、ここに明石全登、後藤又兵衛をいれて五人衆とも評していた。

この五人。長宗我部盛親はもともとが土佐22万石の大名だし、毛利勝永も豊前に4万石の大名だった。
二人共に関ヶ原の戦いの折は西軍として参戦しており、過去の実績もあった。
後藤又兵衛に関しても、その武勇は知られており黒田家に後藤又兵衛ありと恐れられた存在だった。
明石全登も、関ヶ原の戦いのときには宇喜多家の重臣として、兵7000を指揮し、獅子奮迅の戦いをしており、その武勇は知られるところであった。
ところが・・・真田幸村は。
ないのである。これといった武勇や実績、ましてや大名でもない。
幸村にあるのは、徳川家康を2度までも敗退せしめた真田昌幸の息であり、太閤秀吉から可愛がられ、豊臣の姓を賜った人物であるということだけであった。
実際に幸村の風貌は小柄であったというし、物事無口で温厚な人だったようなので目立たない存在だったのかもしれない。
大坂の陣において大坂諸将が望むのは輝かしい実績のある武将の的確な指示だったのだろう。
必然的に戦が始まるまでは、後藤又兵衛や、明石全登などに羨望は集まっていた。
特に又兵衛に関しては豊臣秀頼たちにかなり強い影響をもっていたようだ。
しかし又兵衛は戦術には長けていても、戦略には長けていなかったようである。
戦術とは、個々の具体的な戦闘における戦闘力の使用法。普通、長期・広範の展望をもつ戦略の下位に属する。
かたや戦略とは、長期的・全体的展望に立った闘争の準備・計画・運用の方法。戦略の具体的遂行である戦術とは区別される。
と戦術と戦略は違うのである。
実戦経験がなかった幸村だが、大坂の諸将の中では一番戦略に長けていた。それは父・昌幸から教えられたものであり、秀吉の側で学ぶチャンスが幸村をそうさせたのだろう。
冬の陣を前にした軍議において幸村が提唱していく戦略は、後藤又兵衛、明石全登を納得させ、歴戦の勇士たちから一目置かれる存在となった。
ただ悔やまれるべくは、歴戦の勇士でない、同じように実践経験の少ない大坂譜代の家臣たちには理解できなかったことだ。
結局軍議は幸村の意見を推す牢人衆と、小幡景憲の推す籠城策とで別れ、普代衆が小幡景憲の策を推したため軍議は決するのである。
このとき牢人衆の誰もが敗北を悟ったといいます。
このことが牢人衆たちの死華咲かせの戦いになっていくことになる。
要するに連携が取れていないのだ。己の身のために戦ってしまっている。
又兵衛も、全登も譜代衆たちも皆が結束していないのだ。
真田幸村は大坂城の南に真田丸を築き、一手に敵を引き受ける道を選ぶ。
そこには幸村の他の部隊と離れることで雑音から遠ざかり、戦に没頭したかったのかもしれない。
真田丸に集まるは幸村とともに戦うことを誓った男たちだった。
真田の義を見せよ!!
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大刀 真田幸村 真田拵Price23,100円
美術模造刀剣 真田幸村 村正 大刀Price23,100円
純銀鍔ペンダント 真田幸村 六文銭【シルバー】Price8,900円
そのなかでも長宗我部盛親、毛利勝永、そして真田幸村は三人衆として評されており、ここに明石全登、後藤又兵衛をいれて五人衆とも評していた。

この五人。長宗我部盛親はもともとが土佐22万石の大名だし、毛利勝永も豊前に4万石の大名だった。
二人共に関ヶ原の戦いの折は西軍として参戦しており、過去の実績もあった。
後藤又兵衛に関しても、その武勇は知られており黒田家に後藤又兵衛ありと恐れられた存在だった。
明石全登も、関ヶ原の戦いのときには宇喜多家の重臣として、兵7000を指揮し、獅子奮迅の戦いをしており、その武勇は知られるところであった。
ところが・・・真田幸村は。
ないのである。これといった武勇や実績、ましてや大名でもない。
幸村にあるのは、徳川家康を2度までも敗退せしめた真田昌幸の息であり、太閤秀吉から可愛がられ、豊臣の姓を賜った人物であるということだけであった。
実際に幸村の風貌は小柄であったというし、物事無口で温厚な人だったようなので目立たない存在だったのかもしれない。
大坂の陣において大坂諸将が望むのは輝かしい実績のある武将の的確な指示だったのだろう。
必然的に戦が始まるまでは、後藤又兵衛や、明石全登などに羨望は集まっていた。
特に又兵衛に関しては豊臣秀頼たちにかなり強い影響をもっていたようだ。
しかし又兵衛は戦術には長けていても、戦略には長けていなかったようである。
戦術とは、個々の具体的な戦闘における戦闘力の使用法。普通、長期・広範の展望をもつ戦略の下位に属する。
かたや戦略とは、長期的・全体的展望に立った闘争の準備・計画・運用の方法。戦略の具体的遂行である戦術とは区別される。
と戦術と戦略は違うのである。
実戦経験がなかった幸村だが、大坂の諸将の中では一番戦略に長けていた。それは父・昌幸から教えられたものであり、秀吉の側で学ぶチャンスが幸村をそうさせたのだろう。
冬の陣を前にした軍議において幸村が提唱していく戦略は、後藤又兵衛、明石全登を納得させ、歴戦の勇士たちから一目置かれる存在となった。
ただ悔やまれるべくは、歴戦の勇士でない、同じように実践経験の少ない大坂譜代の家臣たちには理解できなかったことだ。
結局軍議は幸村の意見を推す牢人衆と、小幡景憲の推す籠城策とで別れ、普代衆が小幡景憲の策を推したため軍議は決するのである。
このとき牢人衆の誰もが敗北を悟ったといいます。
このことが牢人衆たちの死華咲かせの戦いになっていくことになる。
要するに連携が取れていないのだ。己の身のために戦ってしまっている。
又兵衛も、全登も譜代衆たちも皆が結束していないのだ。
真田幸村は大坂城の南に真田丸を築き、一手に敵を引き受ける道を選ぶ。
そこには幸村の他の部隊と離れることで雑音から遠ざかり、戦に没頭したかったのかもしれない。
真田丸に集まるは幸村とともに戦うことを誓った男たちだった。
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2008年05月18日
真田幸村の家康仕官?
真田幸村の徳川家康仕官はあり得たのだろうか?
大坂の陣において徳川家康はどの様に真田幸村を調略しようとしたのだろうか。

先も未知数だった幸村の実力で書いたように家康は真田信尹を通じて本多正純などを使い幸村調略に動いている。
してその内容は・・・・『太平夜談抄』のよれば、大坂に背き徳川に着けばそれ相応に取り立てる。
曖昧な誘いである。
これに対し幸村は
「有難い申し出はあるが、先の関ヶ原にて内府とは敵味方に分かれて、その後浪々の身になっているところを秀頼様に拾われました。内府のご威光は天下に輝いてはいますが、一度大坂に御味方を決めた身です。今更大坂を捨てて味方になれば人に後ろ指を指されるのは間違いありません。ですから家康公の命に従うわけにはいきません。」
丁重に幸村は筋を通し断った。
これを聞いた家康は益々幸村を調略したくなってくる。
真田信尹に「信州一国を与うべし」という破格の条件を出してきた。
これにも幸村は頑として揺らぎません。
「武士たる者、心変わりするは義にあらず。もし秀頼公が和睦をされるのであれば、家康公の命にも従い、所領を賜ることもできましょう。しかし、このように対陣している最中、たとえ天下を1つ2つ頂いても、その命に従うわけにはいきません」
幸村の再三の拒絶に家康は甚だ感じ入り、惜しんだという。
正直家康の誘いに乗った他の武将は、露見し殺害されたり、その後の人生は惨めなものであった。
『慶長見聞書』によると
真田丸の攻防戦後、真田信尹が幸村に対して「十万石を下さるべく」伝えているという。
幸村は「若し和睦のうえに家康公が召しだされるのであれば、千石でもくだされればご奉仕致しましょう」と応えた。
そして大坂冬の陣が和睦の元、一時休戦となると家康はまた真田信尹と通じ「信濃一国下さるべく候、お味方に参り候へ」と誘うのだ。
しかし幸村はこれに腹を立てる。
和睦がなれば豊家への忠義も尽したことになる。だから千石の知行でもかまわないといったのだが、これに対し家康が出した知行は信濃一国。
現実離れしたこの誘いに憤慨し、裏で糸をひく本多正純に失望したのではないだろうか。
そもそも幸村の言う和睦とは、豊臣家が家を保ち存続することを意味しており、一時凌ぎの和睦を言うのではない。
また、その和睦の際、約定を違え総堀を埋めてしまった本多正純のやり方にも憤りを感じていたようである。
こうして幸村の家康仕官はなくなった。
もともと死に場所を探して大坂に入城した幸村だ、家康のこうした行動も計算しての発言だったのであろう。
真田幸村は打倒家康の念を更に強くして大坂夏の陣を迎えることになる。
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大坂の陣において徳川家康はどの様に真田幸村を調略しようとしたのだろうか。

先も未知数だった幸村の実力で書いたように家康は真田信尹を通じて本多正純などを使い幸村調略に動いている。
してその内容は・・・・『太平夜談抄』のよれば、大坂に背き徳川に着けばそれ相応に取り立てる。
曖昧な誘いである。
これに対し幸村は
「有難い申し出はあるが、先の関ヶ原にて内府とは敵味方に分かれて、その後浪々の身になっているところを秀頼様に拾われました。内府のご威光は天下に輝いてはいますが、一度大坂に御味方を決めた身です。今更大坂を捨てて味方になれば人に後ろ指を指されるのは間違いありません。ですから家康公の命に従うわけにはいきません。」
丁重に幸村は筋を通し断った。
これを聞いた家康は益々幸村を調略したくなってくる。
真田信尹に「信州一国を与うべし」という破格の条件を出してきた。
これにも幸村は頑として揺らぎません。
「武士たる者、心変わりするは義にあらず。もし秀頼公が和睦をされるのであれば、家康公の命にも従い、所領を賜ることもできましょう。しかし、このように対陣している最中、たとえ天下を1つ2つ頂いても、その命に従うわけにはいきません」
幸村の再三の拒絶に家康は甚だ感じ入り、惜しんだという。
正直家康の誘いに乗った他の武将は、露見し殺害されたり、その後の人生は惨めなものであった。
『慶長見聞書』によると
真田丸の攻防戦後、真田信尹が幸村に対して「十万石を下さるべく」伝えているという。
幸村は「若し和睦のうえに家康公が召しだされるのであれば、千石でもくだされればご奉仕致しましょう」と応えた。
そして大坂冬の陣が和睦の元、一時休戦となると家康はまた真田信尹と通じ「信濃一国下さるべく候、お味方に参り候へ」と誘うのだ。
しかし幸村はこれに腹を立てる。
和睦がなれば豊家への忠義も尽したことになる。だから千石の知行でもかまわないといったのだが、これに対し家康が出した知行は信濃一国。
現実離れしたこの誘いに憤慨し、裏で糸をひく本多正純に失望したのではないだろうか。
そもそも幸村の言う和睦とは、豊臣家が家を保ち存続することを意味しており、一時凌ぎの和睦を言うのではない。
また、その和睦の際、約定を違え総堀を埋めてしまった本多正純のやり方にも憤りを感じていたようである。
こうして幸村の家康仕官はなくなった。
もともと死に場所を探して大坂に入城した幸村だ、家康のこうした行動も計算しての発言だったのであろう。
真田幸村は打倒家康の念を更に強くして大坂夏の陣を迎えることになる。
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2008年05月16日
未知数だった幸村の実力
大坂の陣のおり、豊臣秀頼の呼びかけに応じて参集した浪人衆の中には大名級の武将が多くいた。

長宗我部盛親、毛利勝永、増田盛次、平塚左馬助、大谷吉胤、石川康勝、そして真田幸村などである。
彼は元々大名であり、個人的な力を期待されただけでなく、過去の家臣たちの参集も期待されていた。
では幸村はどうであったのだろうか?
今更いうまでもないが、幸村の兄・信之は今も上田で徳川が他の大名として家を守っており、家臣の多くも上田にいる。
幸村は長宗我部盛親、毛利勝永等と違い浪人ではなく、罪人なのだ。
九度山に蟄居している身分である。しかも兄が家を存続しており自身の家臣はほとんどいない。
事実「真武内伝」によれば大坂に入城した際の幸村の手勢は130人とあり、それ程多くはない。
また武勇においても、後藤又兵衛のように輝かしい戦歴も残してはいないのだ。
真田大坂入城の報を聞いた徳川家康は、突然動きが止まり、手をかけていた戸がガタガタと震えだしたという。
「して、それは親か?子か?」と問いかけると
家臣が「親の昌幸は昨年病死しております。大坂に入ったのはこの左衛門助でございます」というと、震えは止まり落ち着いたという。
幸村ファンとしては悔しい話だが、これまさに真田父子の評価の違いであり、それまでの歴史の事実でもある。
兄の信之は幸村のことを、こう評している。
物事柔和忍辱にして騒がしからず、言葉少なに怒り腹立つ事なかりし
と述べている。
どちらかといえば物静かで目立たぬ存在だったのかも知れない。
そんな幸村の認識を一変させるのが大坂冬の陣である。
真田丸において押寄せる東軍を翻弄させ、あたかも大坂において上田城の攻防戦を髣髴とさせる戦いをやってのけたのだ。
家康は驚愕したに違いない。
真田幸村、侮りがたし!
家康はすぐに幸村調略に動く。
12月14日、本多正純は弟の本多政重に真田信尹とともに幸村を調略するようにという手紙が残っている。
和睦後ではなく、合戦中から家康は幸村調略に動いていた事実に、その危機意識が見受けられる。
しかし分からないのは幸村の行動である。
大坂方において合戦中に徳川方に会えば要らぬ疑いをもたれるのは分かっていただろうに、なぜ幸村は叔父を通してとはいえ徳川の使者と会ったのか?
おそらくそれは、使者の相手が本多正純だったからではないだろうか。
正純の父は本多正信である。
本多正信と幸村の父・昌幸は親交があった。
関ヶ原の折真田父子の助命嘆願を執り成してくれたのも正信であった。
正信は家康の懐刀である。そんな正信の息・正純だったからこそ、過去の恩のお礼も含め使者に会うことをで礼節をとったのではないだろうか。
真田幸村は大坂に入城するときにはもうすでに死を覚悟していたのだ。
だからこそ、使者に会うことを選び、礼をつくしたのだろうとおもう。
ともあれ大坂以前の幸村はやはり、多くの者の間では未知数の人だったようである。
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本館15室(うち露天風呂付き客室5室)、露天風呂付き離れ客室4棟の全19室のこじんまりとした小さな宿です。



長宗我部盛親、毛利勝永、増田盛次、平塚左馬助、大谷吉胤、石川康勝、そして真田幸村などである。
彼は元々大名であり、個人的な力を期待されただけでなく、過去の家臣たちの参集も期待されていた。
では幸村はどうであったのだろうか?
今更いうまでもないが、幸村の兄・信之は今も上田で徳川が他の大名として家を守っており、家臣の多くも上田にいる。
幸村は長宗我部盛親、毛利勝永等と違い浪人ではなく、罪人なのだ。
九度山に蟄居している身分である。しかも兄が家を存続しており自身の家臣はほとんどいない。
事実「真武内伝」によれば大坂に入城した際の幸村の手勢は130人とあり、それ程多くはない。
また武勇においても、後藤又兵衛のように輝かしい戦歴も残してはいないのだ。
真田大坂入城の報を聞いた徳川家康は、突然動きが止まり、手をかけていた戸がガタガタと震えだしたという。
「して、それは親か?子か?」と問いかけると
家臣が「親の昌幸は昨年病死しております。大坂に入ったのはこの左衛門助でございます」というと、震えは止まり落ち着いたという。
幸村ファンとしては悔しい話だが、これまさに真田父子の評価の違いであり、それまでの歴史の事実でもある。
兄の信之は幸村のことを、こう評している。
物事柔和忍辱にして騒がしからず、言葉少なに怒り腹立つ事なかりし
と述べている。
どちらかといえば物静かで目立たぬ存在だったのかも知れない。
そんな幸村の認識を一変させるのが大坂冬の陣である。
真田丸において押寄せる東軍を翻弄させ、あたかも大坂において上田城の攻防戦を髣髴とさせる戦いをやってのけたのだ。
家康は驚愕したに違いない。
真田幸村、侮りがたし!
家康はすぐに幸村調略に動く。
12月14日、本多正純は弟の本多政重に真田信尹とともに幸村を調略するようにという手紙が残っている。
和睦後ではなく、合戦中から家康は幸村調略に動いていた事実に、その危機意識が見受けられる。
しかし分からないのは幸村の行動である。
大坂方において合戦中に徳川方に会えば要らぬ疑いをもたれるのは分かっていただろうに、なぜ幸村は叔父を通してとはいえ徳川の使者と会ったのか?
おそらくそれは、使者の相手が本多正純だったからではないだろうか。
正純の父は本多正信である。
本多正信と幸村の父・昌幸は親交があった。
関ヶ原の折真田父子の助命嘆願を執り成してくれたのも正信であった。
正信は家康の懐刀である。そんな正信の息・正純だったからこそ、過去の恩のお礼も含め使者に会うことをで礼節をとったのではないだろうか。
真田幸村は大坂に入城するときにはもうすでに死を覚悟していたのだ。
だからこそ、使者に会うことを選び、礼をつくしたのだろうとおもう。
ともあれ大坂以前の幸村はやはり、多くの者の間では未知数の人だったようである。
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2008年03月18日
真田の六連銭
真田の象徴であり、真田の家紋六連銭。

戦国において珍しいこの家紋はいったいいつからなのだろうか。
真田幸隆の項(ココ参照)でも書いたが、真田は元々は滋野氏の支流、海野氏である。
滋野氏の家紋は月輪七九曜であった。当然ながら海野氏の家紋も月輪七九曜だった。

おそらく真田幸隆が羽尾幸全のところを出て武田晴信に仕えた辺りから使い始めたのではないだろうか。
では何故真田幸隆は六連銭を用いたのか?
死後かならずおもむく六道。
六道とは 地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上で一切の衆生が善悪の業によって赴く六つの迷界をいいあらわしており、六道銭とは死人を葬るとき棺に入れる六文銭のことである。
俗に言う三途の渡し賃で、真田幸隆はこれを家紋にすることにより不惜身命を誓ったのであhないだろうか。
幸隆は実際に仇敵 武田に与するにいたり、実父 海野棟綱を殺害?した可能性がある。
そのこともあり、武田晴信に与力するにいたり地獄、餓鬼、畜生、修羅の道に落ちるのは覚悟のうえである。それでも我は武田の下に参じるのだという心意気だったのだろう。
そんな幸隆を武田晴信は厚遇し、幸隆も武田のために奔走する。
後年この旗印の元、徳川家康は2度敗退し、大坂の陣においては本陣まで蹴散らかされている。
真田幸隆のスピリットは子の真田昌幸、孫の真田幸村に受け継がれ真田の家紋は後世まで語り継がれることになるのだ。
六連銭の旗の下 猛者求む!
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戦国において珍しいこの家紋はいったいいつからなのだろうか。
真田幸隆の項(ココ参照)でも書いたが、真田は元々は滋野氏の支流、海野氏である。
滋野氏の家紋は月輪七九曜であった。当然ながら海野氏の家紋も月輪七九曜だった。

おそらく真田幸隆が羽尾幸全のところを出て武田晴信に仕えた辺りから使い始めたのではないだろうか。
では何故真田幸隆は六連銭を用いたのか?
死後かならずおもむく六道。
六道とは 地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上で一切の衆生が善悪の業によって赴く六つの迷界をいいあらわしており、六道銭とは死人を葬るとき棺に入れる六文銭のことである。
俗に言う三途の渡し賃で、真田幸隆はこれを家紋にすることにより不惜身命を誓ったのであhないだろうか。
幸隆は実際に仇敵 武田に与するにいたり、実父 海野棟綱を殺害?した可能性がある。
そのこともあり、武田晴信に与力するにいたり地獄、餓鬼、畜生、修羅の道に落ちるのは覚悟のうえである。それでも我は武田の下に参じるのだという心意気だったのだろう。
そんな幸隆を武田晴信は厚遇し、幸隆も武田のために奔走する。
後年この旗印の元、徳川家康は2度敗退し、大坂の陣においては本陣まで蹴散らかされている。
真田幸隆のスピリットは子の真田昌幸、孫の真田幸村に受け継がれ真田の家紋は後世まで語り継がれることになるのだ。
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2008年03月10日
真田幸村と妻 竹林院
真田幸村が大坂の豊臣秀吉のところにいる間に、秀吉の仲介もあり大谷吉継の娘(竹林院)を娶っている。

これには真田幸村が大阪に出仕している折、幸村の器量を見定めた吉継の方からの話であったといわれているが、その実は、おそらく、真田信幸が徳川家康の臣 本多忠勝の娘を娶っていたので、関東の火薬庫 真田領を自陣に取り込めるためにも幸村の室を豊臣側のものから出させる必要があったのではないか?
そこで白羽の矢がたったのが大谷吉継だったのだろう。
大谷吉継に関してはココを参照して欲しい。
節義を貫く!大谷吉継
大谷吉継 親友・石田三成のために
大谷吉継 関ヶ原に咲く
大谷吉継は豊臣の中でも文武両道の人。
秀吉をもって「百万の大軍を預けてみたい」と言わせた御仁である。
そのような秀吉子飼の武将の娘であるので、秀吉の政治的な婚姻だっただろう。
こうして真田幸村は大谷吉継の娘(竹林院)と結婚する。
関ヶ原において父 真田昌幸とともに西軍につくことになるのは西軍に義父 大谷吉継がいることも大きな要因であることは間違いないと思う。
みなさんもご周知の通り大谷吉継は関ヶ原にて散る。共に関ヶ原に参陣していた息子の大谷吉治は関ヶ原を脱出し生き残る。
そして1614年の大坂の陣にて真田幸村と再会、幸村の寄騎として奮戦し、ともに散っていく。
話を戻し、真田幸村は正室 竹林院との間に2男3女を儲けたと言われている。
大谷吉継の娘(竹林院)が真田幸村の正室であることには間違いはないが、竹林院を娶る以前に幸村は妻を娶っている形跡がある。
『真田家系譜稿』によると堀田作兵衛興重の娘を娶っているようである。
二人の間には2女が生まれている。
しかし、その後この名前は見えなくなるので、離縁したか、死別したか?
もしかすると大谷吉継の娘(竹林院)を娶ることで、家柄的に離縁されたのかもしれない。
ちなみにこの堀田興重は大坂の陣のさい、信州より大坂に駆けつけ、幸村と共に戦死している。
幸村には側室もおり、一人は高梨内記の娘で、もう一人は関白 羽柴秀次の娘と言われている。
高梨内記の娘については、高梨は真田家の家臣でもあり、幸村が信州にいるころから目を付けていたのかもしれない。
関白 羽柴秀次の娘のついてはあまり詳しい経緯は分からないが、間に1男1女を儲けている。
竹林院は長子 大助幸昌が出立するに際し「生き長らえて逢いたいのは山々なれど、かまえてその様には思わず、父幸村と生死をともにせよ」といって送り出している。
大阪の陣後、竹林院は七女のかね夫婦と京都に住み、ひっそりと余生を送ったとされている。
真田幸昌(大助)は父 真田幸村とともに大坂に参陣、母 竹林院の教え「父 幸村と生死をともにせよ」通り、大坂落城とともに自刃している。
真田守信(大八)は西村孫之進と我妻佐渡守に守られて落ち延び、姉 阿梅とともに片倉重長に保護された。
その後、片倉家の家臣として召し抱えられ、真田守信を称し、現在も存続している。
真田幸信は大坂の陣の2ヶ月後に京都で生まれている。母は羽柴秀次で戦を避けて京都にいたものと見られる。
その後は真田姓を名乗るのを憚り、外祖父秀次の旧姓である三好姓を称し、姉の御田姫の嫁ぎ先である出羽亀田藩主岩城宣隆の許に引き取られ、元服すると三好幸信と名乗るようになる。
真田之親は出自は不明。おそらく真田幸村が九度山に居た際に地元の百姓の娘?を身篭らせたのではないだろうか。
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和柄オリジナル戦国武将Tシャツ・日本一のつわもの 真田幸村 Price4,095円
真田幸村Tシャツ Ver.2 Price3,150円
真田幸村ストラップ Price1,850円

これには真田幸村が大阪に出仕している折、幸村の器量を見定めた吉継の方からの話であったといわれているが、その実は、おそらく、真田信幸が徳川家康の臣 本多忠勝の娘を娶っていたので、関東の火薬庫 真田領を自陣に取り込めるためにも幸村の室を豊臣側のものから出させる必要があったのではないか?
そこで白羽の矢がたったのが大谷吉継だったのだろう。
大谷吉継に関してはココを参照して欲しい。
節義を貫く!大谷吉継
大谷吉継 親友・石田三成のために
大谷吉継 関ヶ原に咲く
大谷吉継は豊臣の中でも文武両道の人。
秀吉をもって「百万の大軍を預けてみたい」と言わせた御仁である。
そのような秀吉子飼の武将の娘であるので、秀吉の政治的な婚姻だっただろう。
こうして真田幸村は大谷吉継の娘(竹林院)と結婚する。
関ヶ原において父 真田昌幸とともに西軍につくことになるのは西軍に義父 大谷吉継がいることも大きな要因であることは間違いないと思う。
みなさんもご周知の通り大谷吉継は関ヶ原にて散る。共に関ヶ原に参陣していた息子の大谷吉治は関ヶ原を脱出し生き残る。
そして1614年の大坂の陣にて真田幸村と再会、幸村の寄騎として奮戦し、ともに散っていく。
話を戻し、真田幸村は正室 竹林院との間に2男3女を儲けたと言われている。
大谷吉継の娘(竹林院)が真田幸村の正室であることには間違いはないが、竹林院を娶る以前に幸村は妻を娶っている形跡がある。
『真田家系譜稿』によると堀田作兵衛興重の娘を娶っているようである。
二人の間には2女が生まれている。
しかし、その後この名前は見えなくなるので、離縁したか、死別したか?
もしかすると大谷吉継の娘(竹林院)を娶ることで、家柄的に離縁されたのかもしれない。
ちなみにこの堀田興重は大坂の陣のさい、信州より大坂に駆けつけ、幸村と共に戦死している。
幸村には側室もおり、一人は高梨内記の娘で、もう一人は関白 羽柴秀次の娘と言われている。
高梨内記の娘については、高梨は真田家の家臣でもあり、幸村が信州にいるころから目を付けていたのかもしれない。
関白 羽柴秀次の娘のついてはあまり詳しい経緯は分からないが、間に1男1女を儲けている。
竹林院は長子 大助幸昌が出立するに際し「生き長らえて逢いたいのは山々なれど、かまえてその様には思わず、父幸村と生死をともにせよ」といって送り出している。
大阪の陣後、竹林院は七女のかね夫婦と京都に住み、ひっそりと余生を送ったとされている。
真田幸昌(大助)は父 真田幸村とともに大坂に参陣、母 竹林院の教え「父 幸村と生死をともにせよ」通り、大坂落城とともに自刃している。
真田守信(大八)は西村孫之進と我妻佐渡守に守られて落ち延び、姉 阿梅とともに片倉重長に保護された。
その後、片倉家の家臣として召し抱えられ、真田守信を称し、現在も存続している。
真田幸信は大坂の陣の2ヶ月後に京都で生まれている。母は羽柴秀次で戦を避けて京都にいたものと見られる。
その後は真田姓を名乗るのを憚り、外祖父秀次の旧姓である三好姓を称し、姉の御田姫の嫁ぎ先である出羽亀田藩主岩城宣隆の許に引き取られ、元服すると三好幸信と名乗るようになる。
真田之親は出自は不明。おそらく真田幸村が九度山に居た際に地元の百姓の娘?を身篭らせたのではないだろうか。
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2008年03月01日
真田幸村多くの人との出逢い
真田幸村の出自について記述していなかった。

真田幸村 幼名を弁丸。
言わずと知れた真田昌幸の次男として生まれる。
元服して源次郎信繁と名乗っている。
幸村の出自の不思議についてはココを参照して欲しい。→真田幸村は信幸の兄?
真田信繁というのが真田幸村の正式の名前である。
「幸村」言う名は後世になって付けられたものらしいが、火のないところに煙は出ない!でおそらくは幸村の人生において名乗っていた時期があるのではないだろうか。
真田幸村 名前の不思議
父 昌幸は武田信玄・信繁兄弟の固い絆に感銘を受けており、嫡男の信幸の後に生まれた男子にはためらうことなく信繁とつけたのである。
武田勝頼が滅んだあとの真田は三方を隣国に接しており、北に上杉景勝、東に北条氏康、南に徳川家康に囲まれていた。
昌幸は真田の地を守るため「表裏比興者」と呼ばれるようになるくらいに同盟と離反を繰り返した。
徳川についていた昌幸だったが、徳川家康は真田が自身で刈り取った沼田の地を勝手に北条に譲渡したため昌幸はこれを断固拒否、徳川と決別する。
昌幸が選んだ相手は上杉景勝。
上杉謙信以来、義侠にあふれる上杉家ならばこの窮地を助けてくれる。そう考えたのだろう。
このとき昌幸は幸村を上杉に人質に出すので助けて欲しいと頼むのだ。
これに対して景勝は一度は裏切った真田をこれほど歓待に扱うとは、表裏比興の真田が人質を出すから助けてくれと言ってきたことがよほどうれしかったのであろう。
幸村はこうして上杉家へ人質として行く事になる。
上杉家での幸村の生活は待遇が良かったようで景勝は1千貫文を幸村に与えている。
おそらくだがこの時期に幸村と直江兼続は出逢っているのではないだろうか。
直江兼続と交流が・・・真田幸村
その後、昌幸は豊臣秀吉にも援助を請うのだが、そんな兼ね合いで上杉景勝が大坂へ上洛する際に幸村を連れて行っている。
そして幸村は秀吉に謁見するのだ。
このことにより真田家は上杉家の庇護から、豊臣家の参加に入り無事保身することが出来るのだ。
秀吉は最初は昌幸の援助の件もあったので幸村を人質として取るつもりだったのだろう。しかし、幸村の非凡なる才能をみた秀吉は是非自分の手元に置きたいと思ったのだろう。
これに対して上杉景勝も秀吉に「大きに怒りて、かの源次郎幸村をきっと返し給わらん」とつめよったらしい。
秀吉は聞き入れなかったが、景勝はよっぽど幸村を気に入っていたのか真田を繋ぎとめるのが必死だったのかはわからないが、無口だったとされる景勝が秀吉に詰め寄るくらい真田は重要なポイントだったのだろう。
こうして幸村は大阪での生活を送る。
このときに幸村の義父 大谷吉継とも出会っているのではないだろうか。
1594年(文禄3年)幸村は秀吉から左衛門佐に叙任され、さらには豊臣の姓まで名乗ることを許されている。
こうして幸村は人質の生活中で多くの人に出会い、自らを成長させてその力を養っていく。
どこに言っても優遇を受けていたのは当時の真田の重要性もあるだろうが、何より幸村の人柄の良さも窺えるところである。
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戦国武心伝真田幸村「六文銭」


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Xbox360 戦国無双2 with 猛将伝 Price6,405 円
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真田幸村 幼名を弁丸。
言わずと知れた真田昌幸の次男として生まれる。
元服して源次郎信繁と名乗っている。
幸村の出自の不思議についてはココを参照して欲しい。→真田幸村は信幸の兄?
真田信繁というのが真田幸村の正式の名前である。
「幸村」言う名は後世になって付けられたものらしいが、火のないところに煙は出ない!でおそらくは幸村の人生において名乗っていた時期があるのではないだろうか。
真田幸村 名前の不思議
父 昌幸は武田信玄・信繁兄弟の固い絆に感銘を受けており、嫡男の信幸の後に生まれた男子にはためらうことなく信繁とつけたのである。
武田勝頼が滅んだあとの真田は三方を隣国に接しており、北に上杉景勝、東に北条氏康、南に徳川家康に囲まれていた。
昌幸は真田の地を守るため「表裏比興者」と呼ばれるようになるくらいに同盟と離反を繰り返した。
徳川についていた昌幸だったが、徳川家康は真田が自身で刈り取った沼田の地を勝手に北条に譲渡したため昌幸はこれを断固拒否、徳川と決別する。
昌幸が選んだ相手は上杉景勝。
上杉謙信以来、義侠にあふれる上杉家ならばこの窮地を助けてくれる。そう考えたのだろう。
このとき昌幸は幸村を上杉に人質に出すので助けて欲しいと頼むのだ。
これに対して景勝は一度は裏切った真田をこれほど歓待に扱うとは、表裏比興の真田が人質を出すから助けてくれと言ってきたことがよほどうれしかったのであろう。
幸村はこうして上杉家へ人質として行く事になる。
上杉家での幸村の生活は待遇が良かったようで景勝は1千貫文を幸村に与えている。
おそらくだがこの時期に幸村と直江兼続は出逢っているのではないだろうか。
直江兼続と交流が・・・真田幸村
その後、昌幸は豊臣秀吉にも援助を請うのだが、そんな兼ね合いで上杉景勝が大坂へ上洛する際に幸村を連れて行っている。
そして幸村は秀吉に謁見するのだ。
このことにより真田家は上杉家の庇護から、豊臣家の参加に入り無事保身することが出来るのだ。
秀吉は最初は昌幸の援助の件もあったので幸村を人質として取るつもりだったのだろう。しかし、幸村の非凡なる才能をみた秀吉は是非自分の手元に置きたいと思ったのだろう。
これに対して上杉景勝も秀吉に「大きに怒りて、かの源次郎幸村をきっと返し給わらん」とつめよったらしい。
秀吉は聞き入れなかったが、景勝はよっぽど幸村を気に入っていたのか真田を繋ぎとめるのが必死だったのかはわからないが、無口だったとされる景勝が秀吉に詰め寄るくらい真田は重要なポイントだったのだろう。
こうして幸村は大阪での生活を送る。
このときに幸村の義父 大谷吉継とも出会っているのではないだろうか。
1594年(文禄3年)幸村は秀吉から左衛門佐に叙任され、さらには豊臣の姓まで名乗ることを許されている。
こうして幸村は人質の生活中で多くの人に出会い、自らを成長させてその力を養っていく。
どこに言っても優遇を受けていたのは当時の真田の重要性もあるだろうが、何より幸村の人柄の良さも窺えるところである。
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戦国武心伝真田幸村「六文銭」

Price 19,500円

Xbox360 戦国無双2 with 猛将伝 Price6,405 円
PS2■戦国BASARA X(クロス) 通常版Price5,345 円
●戦国BASARA2 「戦極像」 真田幸村 Price4,830 円
2008年02月13日
真田幸村 安居神社にて討死
大坂城へ行ったならここに寄らずに帰るは真田幸村ファンにあらず!
ということで、また来てしまった安居神社。

言わずと知れた幸村公最後の場所。
大坂夏の陣
道明寺の戦いにて、奥州・伊達家自慢の騎馬鉄砲隊を、長柄槍隊を地面に伏せながら闘う戦法で一時的に後退させた。
これら度々の勝ち戦により、次第に徳川軍も真田軍への攻撃を自重せざるを得なくなり、幸村はそれを見て堂々と大坂城に一時撤収していくのだ。
その撤収の際には、「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」と徳川軍を嘲笑しながら馬に乗り、悠然と撤収したといわれている。

しかし、この道明寺の戦いでは先行した後藤基次が幸村が援軍に駆けつける前に壊滅してしまっている。
豊臣軍は後藤又兵衛や木村重成などの討死したことにより、益々敗戦色は濃くなり、兵たちも疲弊していった。
幸村は士気を高める策として豊臣秀頼自身の出陣を求めるが、大野治長や淀殿(茶々)に阻まれ失敗。そこで幸村は最後の作戦を立て家康本陣を目指す。
右翼として真田幸村、左翼として毛利勝永を四天王寺・茶臼山付近に陣形し射撃戦と突撃を繰り返し家康の陣形に対し本陣を孤立させ、明石全登の軽騎兵団を迂回させ家康本陣を横撃させるというものだった。
しかし毛利隊の前面諸将が勝手に射撃を開始してしまったため、作戦を断念。
真田幸村は最後の賭けに出る。真正面から徳川家康の本陣めがけて決死の突撃を敢行するのだ。
真田幸村は越前松平勢を突破、家康の本陣まで攻め込み、屈強で鳴らす家康旗本勢を蹴散らす。
(爽快ですな
)
ちなみに、本陣に攻め込まれ馬印が倒されたのは「三方ヶ原の戦い」以来二度目と言われ、真田勢の凄まじさに家康は自害を覚悟したほどだったという。これにより、奇しくも家康は武田家ゆかりの武将に二度馬印を倒されたこととなる。
しかし、最終的には数で勝る徳川軍に押し込まれていく。
そして、ついに四天王寺近くのココ安居神社の境内にて、味方の傷ついた兵士を看病していたところを襲われ、越前松平勢鉄砲組の西尾仁左衛門にその首を授けることになるのだ。

口惜しや、口惜しや・・・・無念じゃあと僅かであったのに
ほんに口惜しや。。。。。。

今考えても悔しい。
あと本当に僅かだ、もし、最後の突撃のときに秀頼自身が出馬していてくれたら、兵たちの士気も揚がり、徳川軍の同様もでたであろうに、作戦の連鎖により家康の首は取れたであろうに・・・・
何とかしたい。そんな気持ちでいっぱいだ。
見てみたい家康の首を挙げた幸村公の勇姿を。
だから真田物の小説を何度も読んでしまう。
せめて小説の中で満足しなければ気持ちが治まらない。
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反大坂の陣(1) 反大坂の陣(2) 反大坂の陣(3) 反大坂の陣(4)
ということで、また来てしまった安居神社。

言わずと知れた幸村公最後の場所。
大坂夏の陣
道明寺の戦いにて、奥州・伊達家自慢の騎馬鉄砲隊を、長柄槍隊を地面に伏せながら闘う戦法で一時的に後退させた。
これら度々の勝ち戦により、次第に徳川軍も真田軍への攻撃を自重せざるを得なくなり、幸村はそれを見て堂々と大坂城に一時撤収していくのだ。
その撤収の際には、「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」と徳川軍を嘲笑しながら馬に乗り、悠然と撤収したといわれている。
しかし、この道明寺の戦いでは先行した後藤基次が幸村が援軍に駆けつける前に壊滅してしまっている。
豊臣軍は後藤又兵衛や木村重成などの討死したことにより、益々敗戦色は濃くなり、兵たちも疲弊していった。
幸村は士気を高める策として豊臣秀頼自身の出陣を求めるが、大野治長や淀殿(茶々)に阻まれ失敗。そこで幸村は最後の作戦を立て家康本陣を目指す。
右翼として真田幸村、左翼として毛利勝永を四天王寺・茶臼山付近に陣形し射撃戦と突撃を繰り返し家康の陣形に対し本陣を孤立させ、明石全登の軽騎兵団を迂回させ家康本陣を横撃させるというものだった。
しかし毛利隊の前面諸将が勝手に射撃を開始してしまったため、作戦を断念。
真田幸村は最後の賭けに出る。真正面から徳川家康の本陣めがけて決死の突撃を敢行するのだ。
真田幸村は越前松平勢を突破、家康の本陣まで攻め込み、屈強で鳴らす家康旗本勢を蹴散らす。
(爽快ですな
)ちなみに、本陣に攻め込まれ馬印が倒されたのは「三方ヶ原の戦い」以来二度目と言われ、真田勢の凄まじさに家康は自害を覚悟したほどだったという。これにより、奇しくも家康は武田家ゆかりの武将に二度馬印を倒されたこととなる。
しかし、最終的には数で勝る徳川軍に押し込まれていく。
そして、ついに四天王寺近くのココ安居神社の境内にて、味方の傷ついた兵士を看病していたところを襲われ、越前松平勢鉄砲組の西尾仁左衛門にその首を授けることになるのだ。

口惜しや、口惜しや・・・・無念じゃあと僅かであったのに
ほんに口惜しや。。。。。。

今考えても悔しい。
あと本当に僅かだ、もし、最後の突撃のときに秀頼自身が出馬していてくれたら、兵たちの士気も揚がり、徳川軍の同様もでたであろうに、作戦の連鎖により家康の首は取れたであろうに・・・・
何とかしたい。そんな気持ちでいっぱいだ。
見てみたい家康の首を挙げた幸村公の勇姿を。
だから真田物の小説を何度も読んでしまう。
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2008年01月27日
茶々 天涯の貴妃 真田幸村に涙
茶々 天涯の貴妃観にいってきました。
歴史的な背景や史実は別として、個人的には予想より良い出来で感動しました。
和央ようか さんの茶々ははまり役ではないですか。
すごく茶々っぽかったです。
綺麗な人ですね。
観ていてホントそう思いました。
黄川田将也さんの真田幸村は似合ってましたね。
でも本当の大坂に陣の幸村より若すぎ?って感じでしたが、真田幸村の颯爽としたところが滲み出ていていい感じでした。
最後に真田幸村の突撃シーンは涙が出てとまりませんでした。
やはり、映像とかで具体化されるとより一層悔しさや、無念さが出てしまいます。

真田隊のカッコよさはバツグンです。
まだまだ上映しているはずなのでみなさんも一度見に行ってみてください。
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茶々 天涯の貴妃
和央ようか ホームページ



[DVDソフト] 茶々 ~天涯の貴妃(おんな)~(通常版)Price3,072 円
和央ようか写真集茶々 Price2,940 円
戦国BASARAシリーズ 真田幸村半袖TシャツPrice3,045 円



真田幸村公 出陣セットPrice28,730 円
真田幸村 扇子Price11,550 円
戦国武将ペンダント・鎧 『真田・六文銭』Price9,000 円
歴史的な背景や史実は別として、個人的には予想より良い出来で感動しました。
和央ようか さんの茶々ははまり役ではないですか。
すごく茶々っぽかったです。
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観ていてホントそう思いました。
黄川田将也さんの真田幸村は似合ってましたね。
でも本当の大坂に陣の幸村より若すぎ?って感じでしたが、真田幸村の颯爽としたところが滲み出ていていい感じでした。
最後に真田幸村の突撃シーンは涙が出てとまりませんでした。
やはり、映像とかで具体化されるとより一層悔しさや、無念さが出てしまいます。

真田隊のカッコよさはバツグンです。
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茶々 天涯の貴妃
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和央ようか写真集茶々 Price2,940 円
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真田幸村 扇子Price11,550 円
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2008年01月25日
真田幸村 名前の不思議
真田幸村 現代では聞きなれた名前。
そして日本史上これほどまでに人気の多い武将は少ないのではないだろうか。
当然ながら真田幸村という名前は本名ではないとされている。
現存している史蹟に「幸村」という名前は見当たらないし、自筆の書状も残っていない。
しかし、先日紹介した、新人物往来社の霊界通信コーナーで、幸村自身が「3年くらいは名乗っていた」というコメントを残している。
(信用性が薄いのであくまで参考です
)
本名は「信繁」真田左衛門佐信繁である。
九度山から最後の大阪城に入るときも信繁で入城している。
でも我々は「信繁」ではピンっとこない。
やはり「幸村」なのである。
では最初に「幸村」という名前が出てくるのはいつなのか?
それは『難波戦記』という軍記物らしい・・・大坂の夏の陣から60年後に書かれた物だという。

難波戦記冬合戦の表紙
それではなぜ、 「幸村」たなったのか?
『幸』の字はわかる、真田の継承文字だ、幸隆、昌幸、信幸と『幸』の字を使っているから『幸』なんだろう。
これは納得することが出来る。
じゃあ『村』は?
どこからきた?なんで『村』なんだ?
結論から言うと確たる証拠となるものがないようだ。
幸村の姉・村松の『村』を採ったとか、仙台伊達家に仕えた幸村の子孫が当時の主君・伊達綱村の一文字をつけた、徳川家を呪ったとされる妖刀村正に由来しているとするなどがあるが、確たる証拠が何もないようだ。
「幸村」という名は死後比較的短い期間で広まっているため、真田昌幸の死後に昌幸の片諱を継承して実際に「幸村」と名乗ったのではないかとの推測もあるのは事実。
ということは、例の霊界通信はホントのことを言ってるのかもしれない。
大坂の陣の60年後の軍記物で『幸村』という名で使われているのだから『幸村』という名は、相当広まっていたと見ていいはずだ。
すごいことですね。
名前が確たる証拠がない武将が日本で1,2を争う人気なんです。
歴史の魅力です。
今後も幸村の魅力について調べて行きたいところである。
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そして日本史上これほどまでに人気の多い武将は少ないのではないだろうか。
当然ながら真田幸村という名前は本名ではないとされている。
現存している史蹟に「幸村」という名前は見当たらないし、自筆の書状も残っていない。
しかし、先日紹介した、新人物往来社の霊界通信コーナーで、幸村自身が「3年くらいは名乗っていた」というコメントを残している。
(信用性が薄いのであくまで参考です
)本名は「信繁」真田左衛門佐信繁である。
九度山から最後の大阪城に入るときも信繁で入城している。
でも我々は「信繁」ではピンっとこない。
やはり「幸村」なのである。
では最初に「幸村」という名前が出てくるのはいつなのか?
それは『難波戦記』という軍記物らしい・・・大坂の夏の陣から60年後に書かれた物だという。

難波戦記冬合戦の表紙
それではなぜ、 「幸村」たなったのか?
『幸』の字はわかる、真田の継承文字だ、幸隆、昌幸、信幸と『幸』の字を使っているから『幸』なんだろう。
これは納得することが出来る。
じゃあ『村』は?
どこからきた?なんで『村』なんだ?
結論から言うと確たる証拠となるものがないようだ。
幸村の姉・村松の『村』を採ったとか、仙台伊達家に仕えた幸村の子孫が当時の主君・伊達綱村の一文字をつけた、徳川家を呪ったとされる妖刀村正に由来しているとするなどがあるが、確たる証拠が何もないようだ。
「幸村」という名は死後比較的短い期間で広まっているため、真田昌幸の死後に昌幸の片諱を継承して実際に「幸村」と名乗ったのではないかとの推測もあるのは事実。
ということは、例の霊界通信はホントのことを言ってるのかもしれない。
大坂の陣の60年後の軍記物で『幸村』という名で使われているのだから『幸村』という名は、相当広まっていたと見ていいはずだ。
すごいことですね。
名前が確たる証拠がない武将が日本で1,2を争う人気なんです。
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2008年01月25日
真田幸村は信幸の兄?
昨日書いた新人物往来者の怪しげな記事。
そこにも質問で出てたが真田幸村の兄、真田信幸。
昔からの疑問で、真田幸村のほうが年上だったのでは?
という疑惑がある。
疑問の根源は幸村、信幸、双方の忌み名(諱)である。

忌み名(諱)とは、織田信長であれば三郎、羽柴秀吉なら籐吉朗といったように通称である。
真田幸村の忌み名(諱)は「源次郎」、兄・信幸の忌み名(諱)は「源三郎」となっている。
これが混乱のもとで、忌み名(諱)だけみると幸村のほうが上ではないだろうか?っと思える。
この疑問が更なる憶測をよぶ。
ひょっとしたら幸村は真田昌幸の正室・山之手殿の子ではないのではないか?妾腹の子として生まれたため、幸村は弟扱いされたのではないか?
など根拠のない疑問が沸き起こってくる。
しかし、これはあくまで憶測の話。
幸村の本当の名前
そこにも質問で出てたが真田幸村の兄、真田信幸。
昔からの疑問で、真田幸村のほうが年上だったのでは?
という疑惑がある。疑問の根源は幸村、信幸、双方の忌み名(諱)である。

忌み名(諱)とは、織田信長であれば三郎、羽柴秀吉なら籐吉朗といったように通称である。
真田幸村の忌み名(諱)は「源次郎」、兄・信幸の忌み名(諱)は「源三郎」となっている。
これが混乱のもとで、忌み名(諱)だけみると幸村のほうが上ではないだろうか?っと思える。
この疑問が更なる憶測をよぶ。
ひょっとしたら幸村は真田昌幸の正室・山之手殿の子ではないのではないか?妾腹の子として生まれたため、幸村は弟扱いされたのではないか?
など根拠のない疑問が沸き起こってくる。
しかし、これはあくまで憶測の話。
幸村の本当の名前