2008年11月19日

直江兼続 上杉家の威信 大坂冬の陣

[直江兼続] ブログ村キーワード
1614年(慶長19年)直江兼続上杉景勝と共に、徳川家康の命に従い大坂に向かっていた。

関ヶ原の戦い にて石田三成との共同作戦のような形になり、西軍敗北で120万石から30万石に減封となった上杉家。
ある意味改易に成らなかっただけありがたかったのかもしれない。
そんな意味では若干ではあるだろうが、徳川家に恩義を感じていたのか、それとも、上杉家存続のため奔走してくれた本多正信に恩義を感じていたのだろうか。
今回の家康の大坂攻めの要請には従っている。というより従わざるを得ない状態に世の中が成っていた。

当然ながら豊臣秀頼からも参陣要請は届いていた。
しかし、時勢をみれば、いかに「義」を重んじる上杉家でも今さら豊臣家に肩入れするのは無理な話だった。
直江兼続「先般の関ヶ原の折に、太閤殿下に受けた恩義は返させていただいた。」と、丁重に大坂からの使者を帰していたのだ。

直江兼続も前回の関ヶ原の時には自分の想いで家康に反旗を翻した結果、上杉家存続の危機に陥れることになり、責任を感じていた。
よって今回は、豊臣家に対する恩義よりも、自身が生きてきた上杉家に対する恩義のために、大坂に赴いていた。

11月23日上杉景勝は5000の兵を繰り出し鴫野に進軍した。
鴫野は湿地で軍を進めにくく、大坂方は堀を深く堀り、柵などを設け鉄砲を構えていたため、上杉家は砦を築くことにするのだが、大坂方も阿呆の集まりではない。
後藤又兵衛率いる精鋭がそれをさせまいと鉄砲を撃ちかけてくるのだ。

26日早朝から家康に命で上杉・佐竹両軍が攻撃を開始する。
上杉勢の猛攻に押され、大坂方は西に流れていく、これを追撃する上杉勢は大和川までくると追撃をやめて、堤を壊し柵を設け、土塁を築いた。前線基地を築いたのだ。
対岸で戦っていた佐竹義宣勢は優勢に押していたが、木村重成、後藤又兵衛が出てくると逆に押され始めていた。

兼続は「あの黒半月の指物をした者を撃て、大将に違いない」と鉄砲隊に指示を出す。
この黒半月の指物をした武者は、後藤又兵衛だった。

上杉軍優勢に進めていた鴫野の戦いだったが、大坂城内から渡辺内蔵助ら12000の援軍が出てくると、さすがに兵の数で圧倒され、1陣、2陣が敗走を始める。
しかし兼続は冷静に判断し、中備えを前に崩れてくる1陣を左右に逃げさせ、2陣を中備えの前で左右に展開させた。
そこに大坂方が突っ込んでくると、中備えが鉄砲を撃ちかけると、大坂方は不意をつかれ浮き足立つ。
次に左右に展開させていた2陣を槍にて突撃させると、大坂方は混乱に陥るのだ。
その後、全軍にて反撃を開始、上杉軍は多くの首をあげたという。

この上杉家の活躍は家康にも報告され
「上杉家にも多くの死傷者が出たであろうし、皆もよく戦って疲れているだろうから、ここは堀尾忠晴の軍と入れ替わり休養するがよろしかろう」と家康は指示を出した。
これに対し景勝が

「武将が戦場においては、たとえ主君の命であっても従わない事もある。早朝より激しく戦って取り仕切る場所を。人に譲って退くことは出来ない」として命令を撥ね退けた。

結果、上杉軍は鴫野の大坂方を退却させ、今福で戦っていた佐竹軍も助け形勢を逆転させることに成功している。

このときの上杉家の戦いに
「謙信公以来の弓矢の戦い、いまだ衰えず」と賞賛し、その家臣団にも賛辞がおくられた。
大坂の陣で活躍した上杉家の鉄砲隊は、関ヶ原以降、兼続が密かに山中で製造させていた鉄砲である。
いつかのまた起こるであろう大戦のためにと、作っていたものが役に立ったのだ。

この戦いが直江兼続が参加した最後の戦いになる。
この後、大坂夏の陣があるが、体調不良のため参陣していない。

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Posted by 左近将監 at 09:55Comments(4)TrackBack(0)直江兼続

2008年11月05日

2008年10月20日

直江兼続が連載マンガに

2009年のNHK大河ドラマ「天地人」の主人公で、妻夫木聡が演じることでも話題となっている直江兼続が連載マンガになるらしい。

それは昔、週刊少年ジャンプで連載された人気歴史マンガ『花の慶次』のスピンオフ作品となる「義風堂々 直江兼続 -前田慶次 月語り」で、11月14日発売の「コミックバンチ」(毎週金曜日発売)から連載されるそうだ。

歴史好きな人で『花の慶次』を読んでいない人はいないだろう。
真田幸村も取り上げられており、違和感を感じながらも真田幸村が出ているからと読み続けた。
少々デフォルメされた感が強いマンガではあるが、当時は楽しく読んだ記憶がある。

連載開始に当たり原さんは、「『花の慶次』が終わって15年たった今でも描き足りなかったという思いが一人だけ残る。それが直江兼続という漢(おとこ)なんです」とのコメントをしている。

昨日の関ヶ原合戦祭りでも、兼続モノはかなり出ていて、Tシャツやストラップなど商品は豊富になっていた。
「天地人」が決まる前には有り得なかった状態だよ。

「義風堂々 直江兼続 -前田慶次 月語り」楽しみなことがまた一つ増えた。

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Posted by 左近将監 at 12:26Comments(0)TrackBack(0)直江兼続

2008年10月18日

直江兼続 負けない基本戦術

[直江兼続] ブログ村キーワード
直江兼続は晩年に『軍法全』なるものを執筆している。

これは戦術や軍法などを記したものだそうだ。
この『軍法全』には兵としての心得や具体的な戦法、行軍の諸注意などが事細かに記載されているという。

たとえば第1条「行軍は前後左右の列を定めて旌旗を乱さず、長兵横ならず、火縄滅せず、遠からず近からず、重からず軽からず、寂として聲なきごとく、行止めて鼓に応ず」とある。
極めて細かく指示している。
見るからに基本中の基本的なことを記載してますよね。

戦に望む心得も
「戦いに臨むときは、まず内を整えて前後左右の備えを固め、気を治めて心を静め、息を整えて目を開き、ひざまずいて待つべきである」としている。

これを見るからに、直江兼続はかなり慎重な人だったのだろう。
間違いなくA型っぽい人ですよね。(うんうん、絶対にA型だ!ボクと同じやface02

兼続のそんな性格が1600年の関ヶ原の戦いの折の最上征伐に出ている。
まず、最上義光の山形城を攻める前に、周りの諸城を落とし、後顧の憂いを経ってから山形城を落とそうとした。
これには犠牲を最小限にするといったことも考慮されていたと思うが、上山城や畑谷城を攻め、その後に長谷堂城を攻めにかかっている。
まさに負けない戦の仕方だ。

『軍法全』の中には、上杉謙信のもと育って来た兼続らしい項もある。
第21条「合討ちは敵動かば助け求救うといえども、首は初太刀の者に付与すべきものなり。死人を争って比興を構うるなかれ」とあり、人道に反する行為への戒めや、兼続の戦に対する意気込みが感じ取れる。
まさに上杉家といった内容だ。

兼続は常に敵の意表をつく心理戦を展開し、鉄砲攻撃を効果的に使いながら攻撃と防衛を施す戦法を使っていたという。

このほか、第31条に「戦法は敵人気と心を奪うにしかず。気を奪うには旌旗、五色、鉄砲あり。心を奪うには奇計、智謀あり」
とある。兼続は敵に心理的圧迫感を与え、戦いを有利に進めようとする作戦を取っていた。
そして敵の気をそらすために鉄砲を有効に使い、幾多の戦を経験する中で鉄砲の重要性に気づき、その装備や生産にも力を入れていく。
その証が、直江兼続 鉄砲製造政策という政策になっている。

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Posted by 左近将監 at 10:09Comments(1)TrackBack(1)直江兼続

2008年09月30日

直江兼続 夢破れた瞬間

[直江兼続] ブログ村キーワード
直江兼続が長谷堂城を攻めあぐねていた9月30日、思いもよらなかった知らせが舞い込む。

関ヶ原での石田三成率いる西軍の敗戦の報であった。

上杉景勝よりすぐに撤退命令が出る。
景勝は西軍が負けたことで、これ以上徳川家康に逆らうような戦いは避けたほうがよいと判断したのだろう。

呆然とする兼続だった・・・最上義光伊達政宗など北の大名を相手に戦っていたが、一刻も早く西に向かい、西軍に助成したいと思っていた。
まさか、天下を分ける大合戦が1日で決着がつくとは思っても見なかったのだ。

兼続はこのとき、何もかもが終わったように感じていたのかもしれない。
そんな兼続を前田慶次が諫めるのだ。
「何をしておる!そなたは総大将じゃ、まずは全軍を無事に撤退させてから後事のことは考えればよい!」

その一言で兼続は我に返り、すぐさま撤退の準備にかかる。

しかし、戦術的にもっとも難しいとされるのが、こちらに勝機がなく大軍で撤退するときである。
敵の戦意が高く、力が残っていれば必ず追撃してくる。
撤退する側は、逃げると分かっているので戦意はない。自分だけが犠牲にはなりたくないので全軍総崩れになる可能性が出てくるのだ。
今回の長谷堂城攻めはその典型的な形である。

兼続は思案する。
そこで用いた戦法が「懸かり引きの戦法」だった。
これは上杉謙信が戦で用いたもので、兼続はこれを会得していたのだ。

撤退時に殿軍を2隊に分け、一方が追撃してくる敵と戦っているうちに、片方が撤退し、ある程度逃げたら、応戦していたほうが撤退を開始する。そして先に撤退していた隊がまた応戦し逃げ切るという戦法である。

この最も難しい殿軍を兼続自身が請け負った。
これには今回の作戦において、上杉軍軍師としての責任も感じていたのだろう。
そんな兼続の傍らには前田慶次もいた。
お互いにその武勇を認め合い、『義』をもって繋がっていた二人である。

いよいよ兼続たちが撤退を開始すると、予想通り最上勢が討って出てきた。
計画したように殿軍を2隊に分け、応戦しながらの撤退、前田慶次の奮戦もあり、最上勢は統制を失ってしまう。
最上義光も兜に銃弾を受け、あわやという状況になったそうだ。

兼続軍は10月4日には米沢城に戻っているが、その撤退振りは凄まじかったようである。
直江兼続にとって長谷堂城攻めは屈辱的なものだったが、全軍を無事に撤退させた手腕は流石であった。

後に、兼続と戦った最上義光は、兼続がとった鮮やかな撤退策に悔しがりながらも、「兼続こそ、古今無双の兵なり」と讃えている。

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Posted by 左近将監 at 11:07Comments(0)TrackBack(0)直江兼続

2008年09月25日

直江兼続 長谷堂城攻め

[直江兼続] ブログ村キーワード
大河ドラマ『天地人』のロケも始まり他のキャストも続々と発表され、いよいよって感じになってきましたよね。

直江兼続の見せ所、直江状やその後の徳川家康追撃を進言し、上杉景勝により却下されたときの兼続がどう演出されるのか楽しみです。

その徳川家康が会津征伐を中止し、西へ向かうとき、兼続が追撃を進言しますが、景勝は会津防衛を第一として最上攻めを兼続に命じるのです。
上杉領は米沢から庄内にかけて最上領と隣接していました。
最上義光は日頃から上杉家にとっては目障りな存在だったのです。
元々が、秀吉から東北の守護として、伊達政宗最上義光の押さえとして越後から、この会津に移ってきた。
そんな関係だから当然相互に宜しくない。

ましてや上杉領は会津・庄内・佐渡と分断されており、最上さえいなければ会津と庄内が繋がるのであった。
景勝は家康が西に向かった瞬間に、いまこそ自国安泰のため、最上を潰す絶好の機会と判断したのである。
この時上杉家と伊達家は休戦協定を結んでいたことも、その判断に至らせた原因の1つであろう。

景勝からの命を受けた兼続は、後ろ髪を引かれる思いをしながらも米沢に戻り、2万4千の軍勢を率いて出陣する。
庄内からも志駄義秀下吉忠らが3000の兵を率いて加わっている。
向かう先は最上領山形だ。
兼続がこのとき執った戦法は、本拠地山形城を攻めるのではなく、支城を攻略していき、最後に山形城を攻め落とすというものだった。
兼続は隊を3隊に分け、本隊を兼続が率い、右翼隊を木村親盛、左翼隊を本庄繁長が率いていた。

先ず最初に兼続は畑谷城へと向かった。
時があるわけでなく、少しでも早く最上を攻略し、一時も早く石田三成らに合流したい兼続は、近くて狭く険しい道を選び行軍させた。
畑谷城に降伏を呼びかけるものの、城主江口五郎兵衛に降伏の意思はなく、仕方なしに総攻撃をかける。
圧倒的な兵力の差と、兼続の作戦により1日で畑谷城は陥落。
この報を受けた周辺の城主たちは皆、戦わずして逃げ出していったという。

こうして9月14日には山形城まで一里半のところまで進軍できた。
残る城は長谷堂城、上山城そして山形城だけである。

本拠地山形城を孤立させるために、兼続は長谷堂城へ、右翼隊は上山城へ向かった。

長谷堂城は堅固な山城で、城主志村高治が5000の兵で守りを固めていた。
兼続はまず、軍を二手に分けた。
本隊を須賀沢山におき、別働隊を春日元忠に預け須賀沢山の麓に陣をおいた。
この動きをみていた長谷堂城は精鋭200を集め、春日の陣へ夜討ちをかけたのだ。
これがまんまと的中し、春日の陣は大混乱となり、同士討ちが始まった。
慌てた春日達は兼続の陣へと逃げ流れ込んでいったのだ。

翌朝、春日は汚名挽回と長谷堂城の外堀まで攻め寄せていくが、敵の一斉射撃により多くの死傷者を出してしまう。
この春日の失態はこの長谷堂城攻めを占うようなものだった。

兼続は長谷堂城前の稲田に実る稲を刈り取らせ、城内から討って出てきたところを殖滅する戦法を取る。
案の定、長谷堂城から誘われるようにして兵は出てきた。しかし、兼続の思惑は外れる。
長谷堂から討って出てきたのは、鮭延秀綱率いる100騎。
鮭延はすでに兼続の策略を読んでおり、深追いをしてこなかったのだ。
結局、鮭延軍を誘い出す前に、兼続軍の先鋒と激闘になり、兼続軍が潰滅、鮭述軍が追撃、兼続軍本隊の目の前のところまで来た時点で引き返してしまった。
するとあろうことか、誘い出すはずの兼続軍が誘い出されてしまい鮭延軍を追撃し始めるのである。
ある程度追いかけると長谷堂城の伏兵に一斉射撃をかけられ、兼続軍は敗走してしまうのだった。

その後も兼続は橋を作ったり、城山を崩そうとしたりなど様々の方法を試みるのだが、長谷堂城は落ちない。
17日には上山城陥落の知らせを受けるのだが、長谷堂城は膠着状態にあり兼続の苛立ちは募るばかりであった。

そしてそんな兼続にとんでもない知らせが舞い込むのだ。
それは・・・・・


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Posted by 左近将監 at 13:15Comments(0)TrackBack(0)直江兼続

2008年09月12日

直江兼続 幻の奥州決戦

[直江兼続] ブログ村キーワード
1600年(慶長5年)直江兼続徳川家康を討つ決意をする。

言われなき言い掛かりに正義はなく、上杉家代々の義が許さなかった。

家康は豊臣秀頼の名を頂き、上杉討伐の兵をあげる。
各諸大名は豊臣の名を傘に着た家康の命に逆らうことが出来ず、上杉討伐に参加していた。

天下の大軍を前に上杉軍は直江兼続の軍略をもとに戦を展開することを決断していた。


このとき兼続が取った戦法は、家康が小牧・長久手の戦いの折に用いたものだったようだ。
常識的に自軍を遥かに凌ぐ大軍を目の前にして、平野で正面衝突するバカはいない。

狭い場所に誘い込み、各個撃破するのみである。

兼続は家康を迎え撃つ場所を会津・革籠原に決めた。
この革籠原に本庄繁長大宝寺義勝を配し、一旦攻めかからせておき、しばらくすると敗走を装って逃げ込み徳川勢の先鋒を誘導しようとする。簡単に言えば「おとり」である。

まんまと誘導にのった徳川勢が革籠原に押寄せたら、上杉景勝4万の兵が三方を取り囲み徳川勢を殖滅、先方に続く徳川勢
に対しても、棚倉方面から佐竹義宣5万、高原山方面から直江兼続3万の兵が押し囲みここでも三方を囲んで徳川勢を討つ2重の作戦だったという。

しかし、この作戦は実現されることはなかった。

小山へ集まった徳川勢は、石田三成挙兵の知らせを受け上杉討伐を止め、西に引き返していったからだ。

結果はみんなさん衆知の通りである。

歴史に「もし(If)」は厳禁だが、三成挙兵がもうあと少し遅かったら・・・・

上杉軍と交戦しはじめてまもなくであったなら、結果は違っていたかもしれない。

兼続の大軍を率いる戦を見てみたかったなぁ~

混戦中に三成挙兵の知らせを受けていたら、真田家はどうしていただろう?

参戦前であれば引き返すことが出来たが、一旦戦が始まってしまってはナカナカ途中では寝返れないのかも。

それでも家康を快しと思っていない真田昌幸ならばやってのけてくれるだろうか。

その状況を見てみたい。

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直江兼続 所縁の地を歩いてみてもいいじゃない。

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2008年08月09日

直江兼続 残した文芸の才

[直江兼続] ブログ村キーワード
直江兼続というとどうしても軍略・政略などが先行してしまう。
戦国武将なのでそういったイメージも当然といえば当然なのだが、兼続には文芸家としても面もあるのだ。

兼続は漢詩に優れていたといわれ、近世儒学の祖 藤原惺窩に教えを乞い、連歌師・里村紹巴とも交流があった。

兼続の有名な句のひとつに

「春雁吾に似て 吾雁に似る 洛陽城裏 花に背いて帰る」という句がある。

戦場においても兼続はよく書物を読んでいたといわれ、秀吉の朝鮮出兵のおりには名護屋に2ヶ月もの間滞在したが、この間に医学書『済世救方』を300巻筆写させている。

朝鮮半島に渡ると、戦乱に乗じて消失されそうになる漢書や古い書物を持ち出し、大切に持ち帰ったという。
そんな兼続の姿を見て周囲の武将たちは
「そんな書物をいくら持ち帰ったとしても田の肥やしにもならず無駄ではないのか」と言うと
兼続は「これは頭の肥やしになりますよ」と答えたそうである。

このとき兼続が収集した『漢書』『後漢書』60冊、医学書『備急千金万』33冊、などは今も米沢市の上杉神社や米沢図書館に保存されており国宝や重用文化財の指定を受けている。
また兼続は朝鮮から銅活字も持って帰ってきており、このことが後の「直江版」といわれる『文選』60巻30冊の出版に繋がっていく。

兼続によるこうした書物の収集や出版が後世に与えた影響は大きいようで、儒学者・林羅山も兼続の功績を絶賛したといわれている。

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2008年07月25日

直江兼続 鉄砲製造政策

[直江兼続] ブログ村キーワード
意外と知られていないのか、ボクだけが知らなかったのか分からないが、直江兼続は関ヶ原の戦い後も盛んに鉄砲製造をさせていたらしい。

関ヶ原の戦いにて敗れた上杉景勝は会津120万石から米沢30万石に減俸になった。
景勝の新領地米沢は周りをぐるりと親徳川派の大名に囲まれた地であり、米沢城自体も天守閣もなく石垣もない平城だった。
確かに周りには伊達政宗最上義光など曲者揃いだ。



そのためなのだろうか。兼続は防衛策として鉄砲の増産を用いた。
兼続は近江の国国友村の吉川惣兵衛、和泉の国、堺の和泉屋松右衛門をそれぞれ200石で召抱えた。

そして兼続は何故か鉄砲製造を秘密にするために、製造場所を米沢城下から18キロ離れた吾妻山の白布を選んだ。
ここに2棟の鉄砲製造所を建て、両名にそれぞれに500挺の鉄砲を作るように命じた。
この製造所では銃身のみを作り、城下に持ち帰り組み立てをしたという。

兼続はこの二人に城下に屋敷を設け、その後も召抱え続けた。
100石につき36挺の鉄砲製造を義務付け、それ以上製造した分には製造料を別途支払っていた。
破格の待遇である。

兼続は先に起こる大戦を見据えていたのかもしれない。


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Posted by 左近将監 at 09:17Comments(0)TrackBack(0)直江兼続

2008年07月17日

直江兼続 貫き通した上杉家への義

[直江兼続] ブログ村キーワード
関ヶ原の敗戦後、直江兼続は敵対した徳川家康に対し、上杉家存続の為に奔走する。


その一つの方法として徳川家の信頼の厚い本多正信と縁を持つことだった。
兼続は長女於松の婿として本多正信の次男 本多政重を迎えた。
そして、兼続はこの本多政重を直江家の跡継ぎにした。
このとき兼続には10歳になる嫡男 景明がいたにもかかわらずだ。

普通の状態ではありえないことである。
上杉家の存続のため自身の血脈は度外視し、徳川が簡単に手出しが出来ない状態を作ろうとしたのだ。

しかしこの於松は結婚から1年後に病死してしまう。
兼続にはもう一人於梅という次女がいたが、於梅も於松と同じ頃に病で亡くなっており、兼続は実弟の大国実頼の娘を養女にして、本多政重の後妻にし、本多家との縁を大事にした。

1604年(慶長9年)嫡男 景明が本多正信の執り成しで膳所城主 戸田氏鉄の娘と結婚をする。
それにより数年後、本多政重は直江家を去り、加賀の前田家に仕えることになる。
これは直江景明が祝言をあげ、その後成人したことにより自分がいては直江家にとって邪魔だろうと判断したのかもしれない。

しかし不運は続いた。
元々体が丈夫ではなかった景明だったのだが、1614年(慶長19年)結核を患い体調が悪かった。
そのころ大坂冬の陣が勃発し、上杉家にも動員がかかる。
兼続は病に伏せる景明を無理無理に出陣をさせる。
徳川の手前「嫡男は病気で出陣できない」とは言えなかったのだ。

このときの無理がたたり、翌1615年(慶長20年)嫡男 景明は死んでしまう。
これにより跡取りが完全にいなくなってしまった直江家。

兼続は妻 お船以外に側室をもたなかったので、他に子どもも無く、上杉景勝は兼続に養子を迎えて直江家を継がせることを進めるのだが、兼続は養子を迎えることをせず、直江家断絶の道を選んだ。

兼続は藩の執政として誰よりも自藩の財政が苦しいことを知っていた。
直江家が断絶することにより、俸禄を主君 景勝に返上することにより少しでも楽になればということであった。

私利私欲をすて主君に忠誠をつくす、まさに直江兼続らしい生き方であり、上杉家への義を貫き通したのである。

直江の義とくと見よ!
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2008年07月02日

直江兼続と戸田氏鉄の意外な関係

今年も上半期が過ぎ、残すところもあと半年になってきました。(当たり前かface07

NHKの大河ドラマ篤姫も当然ながら後半年で終わり。
ということは、次の『天地人』まであと半年なんですよ!

昨日も観光用のキャラが発表されたし、いよいよ盛り上がりを見せ始めるのか????

ボクの住んでいる美濃の国 大垣はあまり直江兼続と縁のない土地だなぁ~と思っていましたが・・・・実はちょっと縁があるみたいなんです。

それは、兼続が直江信綱毛利広秀によって惨殺された際に、名家、直江家が断絶するのを惜しんだ上杉景勝は当時樋口与六と名乗っていた兼続に直江家を継がせたのです。

もともと直江家は男子が居なかったため、景綱は娘お船に婿養子を迎えるのです。
それが直江信綱でした。
その信綱が惨殺されたので、兼続がお船の婿養子に入り直江家を継ぎました。

兼続はお船の間に1男2女をもうけました。
嫡男、平八景明はなんと、嫁に当時はまだ膳所城主だった、戸田氏鉄の娘を妻に娶っているのです。

意外だったなぁ~~

まさかこの大垣が直江家と縁者だったとは!
正直ちょっと嬉しかったですface05

しかし、この景明は早くしてなくなってしまうのです。
結局その後、戸田家との関係はどうなったのかは分からない。

だが、ほんの一時でも戸田家が、あの直江家と縁者だったということが嬉しかった。

ちなみに、残りの2女はどうなったかというと。

長女の於松は本多正信の次男、本多政重に嫁いでいるが、これも病にて早くして亡くなっている。
次女の於梅も長女と同じころに同じように病にかかり亡くなってしまっている。

なぜか知らないが兼続の子は皆、早くに亡くなった。

そのせいもあるのか知らないが、関ヶ原の戦い後、領地を大幅に減らされた上杉家に対し、兼続は自らの所領を減らし自身が没したあとは、所領を返上している。
関ヶ原の戦いにおいて主家に迷惑をかけた償いであったのだろうか・・・・

今となっては想像するしかない話である。

直江の義とくと見よ!
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Posted by 左近将監 at 17:15Comments(0)TrackBack(0)直江兼続

2008年07月01日

直江兼続のキャラクター決定「かねたん」

大河ドラマ「天地人」米沢市推進協議会は、直江兼続が主人公となる2009年のNHK大河ドラマに向けて公募していた兼続のマスコットキャラクターのデザインとネーミングを発表した。
「忠義」を連想させる犬を擬人化したデザインで、名前は「かねたん」に決まったそうだ。

採用されたのは、大阪市在住のイラストレーター岡野亜記さんの作品。
生涯にわたって上杉景勝を支えた兼続を主君に忠誠を尽くすイメージがあるイヌで表現したらしい。
また、兼続が「美男子」だったと伝わることから、りりしいまゆ毛を描き、兼続の代名詞ともいえる「愛」の前立てが付いた兜(かぶと)をかぶった武者姿とした。

ぱっと見た感じは愛着の持てるいい感じのデザインだ!

どこかのグロテスクなキャラとは違い人気は出そう。face02

勇壮な戦国武者のイメージを保ちながらも、全国的な「ゆるキャラ」ブームに乗り、多くの人が親しみやすく、愛らしさを感じるデザイン、ネーミングとした。

公募には全国から438点の応募があったらしく、三次にわたる審査で岡野さんの作品に決まった。

市推進協議会では、市役所やJR米沢駅にキャラクターの看板を設置するとともに、各種印刷物などにも使用し、大河ドラマ「天地人」の盛り上げに役立てる。

おそらく街のいたるところで「かねたん」に会えることになるだろう。


  

Posted by 左近将監 at 09:07Comments(0)TrackBack(0)直江兼続

2008年06月18日

直江兼続の伝記刊行

米沢市ゆかりの戦国武将で2009年のNHK大河ドラマ「天地人」の主人公・直江兼続の生涯を史実を基に記した「直江兼続伝」が、米沢市花沢の「酸漿(ほおずき)出版」から刊行された。


同書は、1989年に米沢信用金庫が「米沢信用金庫叢書3」として発刊したものに若干の改訂を加えて再版したもの。
初版は非売品で同金庫の得意先を中心に配布されたが、天地人が大河ドラマに決まったことから同金庫に再版を求める声が多数寄せられていた。

全6章構成で全300ページ。
第1章で生い立ちを記し、第2章では越後時代を、第3章では会津時代を紹介。
第4章では城下町建設や治水事業など米沢の街づくりについて記している。
第5章は兼続と文事、第6章は兼続と信仰。巻末には兼続の年表も掲載されている。

定価1680円(税込み)で、米沢市内の各書店などで販売。
問い合わせは川島印刷内の酸漿出版(0238・21・5511)へ。



  
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Posted by 左近将監 at 09:15Comments(0)TrackBack(0)直江兼続

2008年05月29日

直江兼続 閻魔様への書状 

上杉家に三宝寺勝蔵という家臣がいた。
この三宝寺勝蔵があるとき召抱えていた下僕を無礼討ちにしたのだ。
するとその下僕の親族が、何も手討にされるほどのことではなかったのではないかと直江兼続に訴えてきた。

兼続は双方を呼び出し言い分を聞くと、確かに遺族たちの言い分が正しかった。
そこで兼続は三宝寺勝蔵に弔料として白銀二十匁を遺族に支払うように命じたのだ。

しかし遺族たちは承服せず、死者を返せと言い張る。

兼続は死者を生き返す事はできないから、銀子を受け取り了簡しろと説明したが遺族たちは死者の蘇生を固執して譲らない。

そこで兼続はこう言い放った。
「ならば是非にも及ばぬ。死者を呼び戻してとらせよう。しかしながら冥途へ遣わす者がおらぬ。大儀ながらその方ら兄と叔父甥の三人で閻魔の方へ出向いて申してまいれ」と命ずると三人を捕らえて斬首してしまった。

そしてその傍らに

いまだに御意を得られず候らえども、一筆啓上申し候。
三宝寺勝蔵家来何某不慮の義につき相果て候。
親族ども嘆き候いて、呼び返せと申し候につき三人の者を迎えに遣わし候。
死者をお返し下さるべく候。恐々謹言。


                         直江山城守兼続

閻魔王様宜敷く獄卒御披露

と書いた一文を立て落着させてしまった。
さすがの兼続も不条理なことをしつこく言う遺族に不義を感じたのだろうか。
思い切ったことをしたものである。

確かに三宝寺勝蔵の早急な仕打ちは誤りだったのだろう。
それに対し慰謝料のような形で金子を遺族には受け取るように言ってはいるが、遺族たちはやはりお金ではなく故人を惜しんでいた。

それに対する兼続の判断は現代においては意見は二分することだろう。

閻魔大王よ!宜しくお頼み申す。
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Posted by 左近将監 at 15:31Comments(0)TrackBack(0)直江兼続

2008年04月09日

直江兼続 謙信の遺風

謙信の遺風 直江兼続
太閤秀吉の死後2年、徳川家康はその本性をあらわす。
五大老の頂点にあった家康は、毛利輝元上杉景勝宇喜多秀家