2008年11月01日
立花宗茂 戦は兵の多寡により決まるべからず
立花道雪、高橋紹運二人の偉大な父を持つ立花宗茂。
秀吉にして西国無双と言わしめた宗茂の武はこの日本だけにおいてとどまるものではなかった。

1592年(文禄元年)より始まった朝鮮出兵。
4月12日釜山に上陸し攻撃を開始した秀吉日本軍は快進撃をしていく。
日本軍は三路に分かれて急進し、首都漢城を占領、引き続き各方面軍による八道国割と呼ばれる制圧目標を決め、平安道 一番隊小西行長他、 咸鏡道 二番隊加藤清正他、 黄海道 三番隊黒田長政他、 江原道 四番隊毛利吉成他、 忠清道 五番隊福島正則他、 全羅道 六番隊小早川隆景他、 慶尚道 七番隊毛利輝元他、 京畿道 八番隊宇喜多秀家他として攻撃していく。
この6番隊小早川隆景の隊の与力として立花宗茂はいた。
連戦連敗の李氏朝鮮は明国に救援を依頼する。
これには李氏朝鮮軍が不利と見ると我先にと逃げていく軍に対して、民衆や奴婢と呼ばれていた身分の者たちが、秀吉軍を解放軍として迎えいれたこともあり、最早戦況は打開のしようがなかったこともあったのだろう。
明軍が援軍に訪れると次第に秀吉軍も戦況が思わしくなくなる。
占領した平壌を奪還され、漢城まで退却を余儀なくされた。
南下してくる明軍を阻止せんと、秀吉軍は漢城北20キロにある碧蹄館を防衛線と定め、戦法を小早川隆景が請け負った。
このとき宗茂は隆景に対し、先鋒の先鋒を志願するのだ。
ときに1593年(文禄2年)1月の寒風吹きすさぶ中、宗茂は兵たちに白米の粥を与え、大釜にて酒を温め皆に振舞った。
そして景気づけをし、勢い勇む明軍に立ち向かうのである。
立花宗茂は3000の兵を三段に構え、一点突破を指示する。
鋒矢で武装した明軍は馬上から襲い掛かってくる。立花勢の先陣はそこに押し出していく。
宗茂は両翼から迫る明軍には目もくれず、川を渡りきり敵の中央を斬り裂いて、日本の鉄砲が威力は発揮する。
乱軍の中、立花宗茂も槍、刀を振るい戦う、そのうちに明軍はズルズルと後退を始めるのだ。
立花勢の勢いに大軍の兵で望んだ明が怯んでいく、方や立花勢は3000である。
そのうちに後陣の小早川隆景が追いつき秀吉軍は勝利を収めるのだ。
隆景が宗茂に賛辞を送ると、宗茂は
「道雪以来、我らにあっては、少人数でたびたび勝利を得た。これは兵の和による故である。その和の基本は常日頃ごろ、心を許しあって懇ろに交わっているからで、この信頼のもと、ただ一言ことの義であっても、身を捨てるのである。これは大将たる者が心得ておくべきことである」と言った。
立花宗茂は人となり穏やか、かつ寛容、人徳ありて驕りなしであった。
ゆえに家臣たちにも慕われ、いざというときのために自らの命を差し出す者が多かったという。
戦は兵の多寡により決まるものにあらず、一つにまとまっているかどうかである。
そんな立花宗茂が是非、戦国無双3に登場することを願ってやまないのである。

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秀吉にして西国無双と言わしめた宗茂の武はこの日本だけにおいてとどまるものではなかった。

1592年(文禄元年)より始まった朝鮮出兵。
4月12日釜山に上陸し攻撃を開始した秀吉日本軍は快進撃をしていく。
日本軍は三路に分かれて急進し、首都漢城を占領、引き続き各方面軍による八道国割と呼ばれる制圧目標を決め、平安道 一番隊小西行長他、 咸鏡道 二番隊加藤清正他、 黄海道 三番隊黒田長政他、 江原道 四番隊毛利吉成他、 忠清道 五番隊福島正則他、 全羅道 六番隊小早川隆景他、 慶尚道 七番隊毛利輝元他、 京畿道 八番隊宇喜多秀家他として攻撃していく。
この6番隊小早川隆景の隊の与力として立花宗茂はいた。
連戦連敗の李氏朝鮮は明国に救援を依頼する。
これには李氏朝鮮軍が不利と見ると我先にと逃げていく軍に対して、民衆や奴婢と呼ばれていた身分の者たちが、秀吉軍を解放軍として迎えいれたこともあり、最早戦況は打開のしようがなかったこともあったのだろう。
明軍が援軍に訪れると次第に秀吉軍も戦況が思わしくなくなる。
占領した平壌を奪還され、漢城まで退却を余儀なくされた。
南下してくる明軍を阻止せんと、秀吉軍は漢城北20キロにある碧蹄館を防衛線と定め、戦法を小早川隆景が請け負った。
このとき宗茂は隆景に対し、先鋒の先鋒を志願するのだ。
ときに1593年(文禄2年)1月の寒風吹きすさぶ中、宗茂は兵たちに白米の粥を与え、大釜にて酒を温め皆に振舞った。
そして景気づけをし、勢い勇む明軍に立ち向かうのである。
立花宗茂は3000の兵を三段に構え、一点突破を指示する。
鋒矢で武装した明軍は馬上から襲い掛かってくる。立花勢の先陣はそこに押し出していく。
宗茂は両翼から迫る明軍には目もくれず、川を渡りきり敵の中央を斬り裂いて、日本の鉄砲が威力は発揮する。
乱軍の中、立花宗茂も槍、刀を振るい戦う、そのうちに明軍はズルズルと後退を始めるのだ。
立花勢の勢いに大軍の兵で望んだ明が怯んでいく、方や立花勢は3000である。
そのうちに後陣の小早川隆景が追いつき秀吉軍は勝利を収めるのだ。
隆景が宗茂に賛辞を送ると、宗茂は
「道雪以来、我らにあっては、少人数でたびたび勝利を得た。これは兵の和による故である。その和の基本は常日頃ごろ、心を許しあって懇ろに交わっているからで、この信頼のもと、ただ一言ことの義であっても、身を捨てるのである。これは大将たる者が心得ておくべきことである」と言った。
立花宗茂は人となり穏やか、かつ寛容、人徳ありて驕りなしであった。
ゆえに家臣たちにも慕われ、いざというときのために自らの命を差し出す者が多かったという。
戦は兵の多寡により決まるものにあらず、一つにまとまっているかどうかである。
そんな立花宗茂が是非、戦国無双3に登場することを願ってやまないのである。
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2008年07月09日
立花宗茂 記事一覧
鎮西一の将 立花宗茂

● 『義の将 立花宗茂』
● 『義の心は直江兼続並み』
● 『義を貫く』
● 『妻・誾千代』
● 『鎮西一の将』
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● 『義の将 立花宗茂』
● 『義の心は直江兼続並み』
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タグ :立花宗茂
2008年03月27日
鎮西一の将 立花宗茂
「その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一。」と呼ばれた立花宗茂。
そもそもいつからそう呼ばれるようになったのか。

それは宗茂が豊臣秀吉と出会ってからであろう。
秀吉と宗茂が出会うのは島津義久を筆頭とする島津軍が龍造寺隆信を降し大友領に攻めてきたころである。
勢います島津勢は肥前からは島津義弘率いる4万の軍勢、日向方面からは島津家久率いる5000の軍勢が進んでおり、これに困った大友宗麟は天下人に近づいていた豊臣秀吉に援軍を請うことにする。
肥前から進攻していた島津義弘軍は肥後、筑後を落とし筑前に迫まり、これに対し大友家は筑前岩屋城に大友家の勇将・高橋紹運が籠もっており島津軍を迎え撃とうとしていた。
このとき立花宗茂は父・紹運に立花城へ撤退することを進めるのだが、紹運はこれを拒否。
結局7月27日高橋紹運以下城兵、763名全員が壮絶な討死を遂げる。(ココを参照して)

岩屋城において甚大な被害を出した島津軍であったが、勢いはついており、そのまま宗茂の籠もる立花山城へと押寄せ、包囲し降伏を勧告してくるのだ。
宗茂は城兵1500あまり、対する島津軍は4万、どう見ても勝算はない
しかし立花宗茂は即座に言い放つ
「降伏するわけにはいきません。我が父・紹運は大友家のため、我らのために島津殿と干戈を交え岩屋にて義死したのです。弔い合戦は望むところ、潔く討死にする所存なれば早々にこの立花山城を攻められるが宜しかろう。弓矢鉄砲にて会釈いたす。」
しかし島津軍は先の岩屋城の戦いで疲弊していたし、立花山城は岩屋城よりも要害堅固であり、まもる立花宗茂は高橋紹運の実子であり、あの立花道雪を義父にもつ、衰勢の大友氏に見切りをつける武将が多い中、節義を貫き通してきた2将の薫陶を受けて育ってきた男である。
島津義弘は慎重になっていた。
無為に包囲を続けている間に豊臣の援軍先発隊が九州に上陸した。
危機を感じた島津軍は8月23日立花山城の包囲を解き撤退を開始、これを見た宗茂はすぐさま島津軍を追撃し敵兵を討ち取っていく。
25日には父の岩屋城を奪取、続いて宝満城を奪い返し筑前を奪還する。
この時期まだ大坂にいた秀吉は甚く宗茂の戦功に悦び、「九州之一物」と絶賛、その後の秀吉の九州平定でも活躍した宗茂は柳川13万石に封じられることになる。
九州平定後の小田原の陣の折も諸大名居並ぶ中、秀吉は「東の本多平八、西の立花左近、東西一対の武将」とその名将ぶりを褒め称えた。
それ以後、立花宗茂「その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一。」と言われるようになったのです。
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そもそもいつからそう呼ばれるようになったのか。

それは宗茂が豊臣秀吉と出会ってからであろう。
秀吉と宗茂が出会うのは島津義久を筆頭とする島津軍が龍造寺隆信を降し大友領に攻めてきたころである。
勢います島津勢は肥前からは島津義弘率いる4万の軍勢、日向方面からは島津家久率いる5000の軍勢が進んでおり、これに困った大友宗麟は天下人に近づいていた豊臣秀吉に援軍を請うことにする。
肥前から進攻していた島津義弘軍は肥後、筑後を落とし筑前に迫まり、これに対し大友家は筑前岩屋城に大友家の勇将・高橋紹運が籠もっており島津軍を迎え撃とうとしていた。
このとき立花宗茂は父・紹運に立花城へ撤退することを進めるのだが、紹運はこれを拒否。
結局7月27日高橋紹運以下城兵、763名全員が壮絶な討死を遂げる。(ココを参照して)

岩屋城において甚大な被害を出した島津軍であったが、勢いはついており、そのまま宗茂の籠もる立花山城へと押寄せ、包囲し降伏を勧告してくるのだ。
宗茂は城兵1500あまり、対する島津軍は4万、どう見ても勝算はない
しかし立花宗茂は即座に言い放つ
「降伏するわけにはいきません。我が父・紹運は大友家のため、我らのために島津殿と干戈を交え岩屋にて義死したのです。弔い合戦は望むところ、潔く討死にする所存なれば早々にこの立花山城を攻められるが宜しかろう。弓矢鉄砲にて会釈いたす。」
しかし島津軍は先の岩屋城の戦いで疲弊していたし、立花山城は岩屋城よりも要害堅固であり、まもる立花宗茂は高橋紹運の実子であり、あの立花道雪を義父にもつ、衰勢の大友氏に見切りをつける武将が多い中、節義を貫き通してきた2将の薫陶を受けて育ってきた男である。
島津義弘は慎重になっていた。
無為に包囲を続けている間に豊臣の援軍先発隊が九州に上陸した。
危機を感じた島津軍は8月23日立花山城の包囲を解き撤退を開始、これを見た宗茂はすぐさま島津軍を追撃し敵兵を討ち取っていく。
25日には父の岩屋城を奪取、続いて宝満城を奪い返し筑前を奪還する。
この時期まだ大坂にいた秀吉は甚く宗茂の戦功に悦び、「九州之一物」と絶賛、その後の秀吉の九州平定でも活躍した宗茂は柳川13万石に封じられることになる。
九州平定後の小田原の陣の折も諸大名居並ぶ中、秀吉は「東の本多平八、西の立花左近、東西一対の武将」とその名将ぶりを褒め称えた。
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2008年02月16日
立花宗茂と妻・誾千代
先にも書いた事があるが立花宗茂といえば、どうしても妻・誾千代を話題にせねばならない。
みなさんも知っていると思うが、この二人かなりの不仲だったらしい。
そもそも立花誾千代とは、立花道雪の実の娘である。
立花道雪には男子がいなかった。
と言うよりは、実子は誾千代だけであったのだ。
そこで男子に恵まれない道雪は、主君大友宗麟の許しを得て誾千代に立花家の家督を譲る
誾千代に家督を譲る以前に薦野増時に立花家を任せようとするが断られている。
元々道雪も戸次鑑連と名乗っており、大友家の名族・立花家を断絶させまいとして戸次家を甥の鎮連に継がせ、自身は立花家を継承していた。
薦野増時は「立花家は大友家中の名族であります。何卒、大友の血族の中から選ばれますよう」いうことだった。
こうして立花家の継承者となった誾千代。このとき若干6歳である。道雪は63歳なるほど家督相続を焦る気持ちいも分る年である。
時勢は大友家に不利なように流れていく、龍造寺の台頭、島津の侵攻など大友家は少しずつ勢力を縮めていた。
道雪と高橋紹運の二人は孤立する筑前に於いて反大友家を掲げる諸勢力を向こうに回し奮戦しつづける。
そのころ正統な立花家当主となっていた誾千代は非常時に備え、城中に侍女などを集め女軍を組織して指示していた様で、女鉄砲隊等も組織していたとも云われている。
日を追うごとにその美貌を増していく誾千代を家中の者達は皆頼もしく思っていたのだろう。
道雪は共に辛苦をしている高橋紹運と仲がよく、紹運の子・統虎(宗茂)もよく道雪のところに遊びに来ていた。
この統虎(宗茂)の素養を気に入っていた道雪は高橋紹運にある提案をする。
「統虎を養子に貰いたい」
紹運としても、次代を継ぐべき嫡男であり勇武の才がほのみえる統虎を手放したくはなかったが、道雪の「統虎殿を立花家を相続させ、私の死後も御辺と共に心を合わせ大友家を守らせたいのです。」の一言で承諾することになる。
1581年(天正9年)8月18日、誾千代は統虎(宗茂)と結ばれることになる。
この時に誾千代は13歳、夫となった統虎(宗茂)は15歳であった。

さてここで問題になるのは家督だ。
先も話したが道雪は一度、誾千代に家督を譲っている。そこへ統虎(宗茂)が養子となって入って来たのだ。当然話の展開で統虎(宗茂)が立花家当主になるのは当たり前。
道雪が生きている間は良かった。なんだかんだ言いながらも道雪が立花家を掌握していたからだ。
しかし、1584年(天正12年)9月 道雪が柳河城攻略中に病死する。
そうすると誾千代と統虎(宗茂)の関係は次第に悪化して行く。
誾千代の勝気な性格と自分こそが正統な当主であるという自負なのだろうか。
統虎(宗茂)とぶつかり合うのだ。
豊臣秀吉によって九州平定がおわり、九州の国割りによって、立花家は正式に大友家から独立し、筑後国 柳河城主として13万2千石余の大名となる。
誾千代は夫の栄達を喜びはしたが、柳河城への移城には反対したようで「たとえ所領を削られても、父・道雪の眠る立花の地を離れたくない」と、統虎を困らせた。
また道雪は、筑後遠征で柳河城を落とす事が出来なかった為、陣没するに際し
「我が遺骸は、甲冑を着せ柳河の方に向けこの地に埋めよ。もし遺言に背くようなら子々孫々まで呪い殺すぞ」
と云って遺言としていため、因縁の城である柳河には嫌悪感があったのかもしれない。
とはいえ、これは天下人となった秀吉の命令である。
そんな我侭が許される筈もなく、誾千代も遅れる事三日後、6月15日に家中の妻子と共に立花城を後にする。
統虎は住みなれた立花城を離れ、気落ちする誾千代の為に、領内に道雪の菩提寺「梅嶽寺」を建立する。
しかし、以前からぶつかり合っていた二人。
遂には破綻してしまう。1594年誾千代は柳河城郊外の宮永村に作った館に移り住むようになる。
不和となった理由としては様々な説がある。
●「宗茂を養子と見下し、姫が驕慢であった為」
●「姫が政(まつりごと)に口をはさんむ」
●「性格が似すぎてソリが合わなかった」
●「男勝りな女性だったから」
今も昔も夫婦の仲割れは似たようなものである。
本当は宗茂が側室を持ったことが気に入らなかったともある。
関ヶ原の敗戦によって立花家は改易され、立花宗茂と誾千代は加藤清正に庇護される身となる。
宗茂は玉名郡の高瀬に居住し、誾千代は母宝樹院と共に同郡・腹赤村の屋敷に居住した。
宗茂はその後、清正の赦しを得て上方に上がることになるのだが、誾千代は肥後に留まった。
やはり立花の守るこの九州を離れたくなかったのか、夫・宗茂の足でまといになりたくなかったのか。
誾千代は環境の変化も災いしてか、臥せる事が多くなっていた。
しかし立花家と宗茂への思い入れは変わらなかったようで、供の者に道雪が信奉していた稲荷社から御札を貰ってこさせて 「妾の命に代えて、夫宗茂を再び世に送り出し給え」と願をかける日々を過ごしたという。
しかし慶長7年(1602)10月17日、誾千代この世を去る。享年34歳であった。
誾千代の願いが通じたのか、翌年1603年 宗茂は5千石にて徳川家に召抱えられる。
そして1620年には旧領の柳河へ復帰するのだ。
大名の改易も相次ぐ中、遂にほぼ旧領通りの柳河城主11万石の大名となるのは、まさに奇跡の返り咲きである。
誾千代の願いと立花宗茂の義の心の賜物であろう。
こうしてみると仲が悪いと言われていた誾千代と立花宗茂だが、双方にと互いを愛しみ思っていたように感じる。
心の中で繋がっていたのであろう。
見事な夫婦と言いたい。
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みなさんも知っていると思うが、この二人かなりの不仲だったらしい。
そもそも立花誾千代とは、立花道雪の実の娘である。
立花道雪には男子がいなかった。
と言うよりは、実子は誾千代だけであったのだ。
そこで男子に恵まれない道雪は、主君大友宗麟の許しを得て誾千代に立花家の家督を譲る
誾千代に家督を譲る以前に薦野増時に立花家を任せようとするが断られている。
元々道雪も戸次鑑連と名乗っており、大友家の名族・立花家を断絶させまいとして戸次家を甥の鎮連に継がせ、自身は立花家を継承していた。
薦野増時は「立花家は大友家中の名族であります。何卒、大友の血族の中から選ばれますよう」いうことだった。
こうして立花家の継承者となった誾千代。このとき若干6歳である。道雪は63歳なるほど家督相続を焦る気持ちいも分る年である。

時勢は大友家に不利なように流れていく、龍造寺の台頭、島津の侵攻など大友家は少しずつ勢力を縮めていた。
道雪と高橋紹運の二人は孤立する筑前に於いて反大友家を掲げる諸勢力を向こうに回し奮戦しつづける。
そのころ正統な立花家当主となっていた誾千代は非常時に備え、城中に侍女などを集め女軍を組織して指示していた様で、女鉄砲隊等も組織していたとも云われている。
日を追うごとにその美貌を増していく誾千代を家中の者達は皆頼もしく思っていたのだろう。
道雪は共に辛苦をしている高橋紹運と仲がよく、紹運の子・統虎(宗茂)もよく道雪のところに遊びに来ていた。
この統虎(宗茂)の素養を気に入っていた道雪は高橋紹運にある提案をする。
「統虎を養子に貰いたい」
紹運としても、次代を継ぐべき嫡男であり勇武の才がほのみえる統虎を手放したくはなかったが、道雪の「統虎殿を立花家を相続させ、私の死後も御辺と共に心を合わせ大友家を守らせたいのです。」の一言で承諾することになる。
1581年(天正9年)8月18日、誾千代は統虎(宗茂)と結ばれることになる。
この時に誾千代は13歳、夫となった統虎(宗茂)は15歳であった。

さてここで問題になるのは家督だ。
先も話したが道雪は一度、誾千代に家督を譲っている。そこへ統虎(宗茂)が養子となって入って来たのだ。当然話の展開で統虎(宗茂)が立花家当主になるのは当たり前。
道雪が生きている間は良かった。なんだかんだ言いながらも道雪が立花家を掌握していたからだ。
しかし、1584年(天正12年)9月 道雪が柳河城攻略中に病死する。
そうすると誾千代と統虎(宗茂)の関係は次第に悪化して行く。
誾千代の勝気な性格と自分こそが正統な当主であるという自負なのだろうか。
統虎(宗茂)とぶつかり合うのだ。
豊臣秀吉によって九州平定がおわり、九州の国割りによって、立花家は正式に大友家から独立し、筑後国 柳河城主として13万2千石余の大名となる。
誾千代は夫の栄達を喜びはしたが、柳河城への移城には反対したようで「たとえ所領を削られても、父・道雪の眠る立花の地を離れたくない」と、統虎を困らせた。
また道雪は、筑後遠征で柳河城を落とす事が出来なかった為、陣没するに際し
「我が遺骸は、甲冑を着せ柳河の方に向けこの地に埋めよ。もし遺言に背くようなら子々孫々まで呪い殺すぞ」
と云って遺言としていため、因縁の城である柳河には嫌悪感があったのかもしれない。
とはいえ、これは天下人となった秀吉の命令である。
そんな我侭が許される筈もなく、誾千代も遅れる事三日後、6月15日に家中の妻子と共に立花城を後にする。
統虎は住みなれた立花城を離れ、気落ちする誾千代の為に、領内に道雪の菩提寺「梅嶽寺」を建立する。
しかし、以前からぶつかり合っていた二人。
遂には破綻してしまう。1594年誾千代は柳河城郊外の宮永村に作った館に移り住むようになる。
不和となった理由としては様々な説がある。
●「宗茂を養子と見下し、姫が驕慢であった為」
●「姫が政(まつりごと)に口をはさんむ」
●「性格が似すぎてソリが合わなかった」
●「男勝りな女性だったから」
今も昔も夫婦の仲割れは似たようなものである。

本当は宗茂が側室を持ったことが気に入らなかったともある。
関ヶ原の敗戦によって立花家は改易され、立花宗茂と誾千代は加藤清正に庇護される身となる。
宗茂は玉名郡の高瀬に居住し、誾千代は母宝樹院と共に同郡・腹赤村の屋敷に居住した。
宗茂はその後、清正の赦しを得て上方に上がることになるのだが、誾千代は肥後に留まった。
やはり立花の守るこの九州を離れたくなかったのか、夫・宗茂の足でまといになりたくなかったのか。
誾千代は環境の変化も災いしてか、臥せる事が多くなっていた。
しかし立花家と宗茂への思い入れは変わらなかったようで、供の者に道雪が信奉していた稲荷社から御札を貰ってこさせて 「妾の命に代えて、夫宗茂を再び世に送り出し給え」と願をかける日々を過ごしたという。
しかし慶長7年(1602)10月17日、誾千代この世を去る。享年34歳であった。
誾千代の願いが通じたのか、翌年1603年 宗茂は5千石にて徳川家に召抱えられる。
そして1620年には旧領の柳河へ復帰するのだ。
大名の改易も相次ぐ中、遂にほぼ旧領通りの柳河城主11万石の大名となるのは、まさに奇跡の返り咲きである。
誾千代の願いと立花宗茂の義の心の賜物であろう。
こうしてみると仲が悪いと言われていた誾千代と立花宗茂だが、双方にと互いを愛しみ思っていたように感じる。
心の中で繋がっていたのであろう。
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2008年01月29日
義を貫く!立花宗茂
いい本見つけました!
学陽書房 滝口康彦著 『立花宗茂と立花道雪』

表題の通りの立花宗茂と立花道雪の話です。
表題には出てはきませんが、高橋紹運を交えた3人の話が中心です。
立花道雪には跡取りが居ません。誾千代が跡をとることになってはいました。
そんなおり、道雪は同じ大友家の家臣・高橋紹運の嫡子・統虎(宗茂)に目にする。
道雪は統虎(宗茂)の非凡なる才能を見抜き、紹運に養子の話を切り出すのだ。
さすがの高橋紹運も嫡子である統虎の養子は断ります。統虎の才能は紹運も認めていたのです。
しかし道雪は何度も紹運に頼み込み、遂には紹運も根負けし、養子に出すことになるのです。
天正13年に道雪が病死すると島津勢は一気に攻め込んでくることになる。
その後、島津の大友攻めに際しての実父・高橋紹運の岩屋城での壮絶な討ち死にの場面は感動ものです。
天正14年、大友氏を滅ぼすべく島津軍が5万の大軍が、紹運が籠もる岩屋城に侵攻してきます。
このときの高橋紹運はわずかに763名ほど、紹運は島津軍の降伏勧告をはねつけて、徹底抗戦を行います、半月ほどの攻防戦により紹運をはじめとする高橋勢は7月27日に全員討死をしますが、島津軍は死傷者を4000人余り出し、島津軍の九州制覇は夢に終わるのです。
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学陽書房 滝口康彦著 『立花宗茂と立花道雪』

表題の通りの立花宗茂と立花道雪の話です。
表題には出てはきませんが、高橋紹運を交えた3人の話が中心です。
立花道雪には跡取りが居ません。誾千代が跡をとることになってはいました。
そんなおり、道雪は同じ大友家の家臣・高橋紹運の嫡子・統虎(宗茂)に目にする。
道雪は統虎(宗茂)の非凡なる才能を見抜き、紹運に養子の話を切り出すのだ。
さすがの高橋紹運も嫡子である統虎の養子は断ります。統虎の才能は紹運も認めていたのです。
しかし道雪は何度も紹運に頼み込み、遂には紹運も根負けし、養子に出すことになるのです。
天正13年に道雪が病死すると島津勢は一気に攻め込んでくることになる。
その後、島津の大友攻めに際しての実父・高橋紹運の岩屋城での壮絶な討ち死にの場面は感動ものです。
天正14年、大友氏を滅ぼすべく島津軍が5万の大軍が、紹運が籠もる岩屋城に侵攻してきます。
このときの高橋紹運はわずかに763名ほど、紹運は島津軍の降伏勧告をはねつけて、徹底抗戦を行います、半月ほどの攻防戦により紹運をはじめとする高橋勢は7月27日に全員討死をしますが、島津軍は死傷者を4000人余り出し、島津軍の九州制覇は夢に終わるのです。
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2007年12月21日
立花宗茂 義の心は直江兼続並み
先日話をした立花宗茂のつづき。
まぁ続きというか、ひとこと宗茂の言葉を紹介しておきたかっただけなのだが
『いやしくも義に背いて生きんよりは、寧ろ死するに如かず』
島津家が大友攻めをした際に、実父、高橋紹運は岩屋城で敵を翻弄しながらも果てた。島津家が次に目指したのは、宗茂の籠る立花山城。島津は降伏を勧めてみるが、宗茂は父の無念の事も有り、「義に背いて命を惜しむよりは、むしろ死ぬほうがましだ。」と徹底抗戦を宣言したのだ。
なんというカッコよさ!男である!
義の将ぶりは直江兼続以上ではないだろうか?
島津軍追撃 猛者求む!
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立花家十七代が語る
立花宗茂と柳川

小説立花宗茂 立花宗茂と立花道雪 立花宗茂
まぁ続きというか、ひとこと宗茂の言葉を紹介しておきたかっただけなのだが
『いやしくも義に背いて生きんよりは、寧ろ死するに如かず』
島津家が大友攻めをした際に、実父、高橋紹運は岩屋城で敵を翻弄しながらも果てた。島津家が次に目指したのは、宗茂の籠る立花山城。島津は降伏を勧めてみるが、宗茂は父の無念の事も有り、「義に背いて命を惜しむよりは、むしろ死ぬほうがましだ。」と徹底抗戦を宣言したのだ。
なんというカッコよさ!男である!
義の将ぶりは直江兼続以上ではないだろうか?
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立花家十七代が語る
立花宗茂と柳川
小説立花宗茂 立花宗茂と立花道雪 立花宗茂
2007年12月20日
義の将 立花宗茂
この前もゲームの話は少ししたけど今日も戦国無双がらみのお話。
戦国無双2から登場したキャラに立花誾千代がいる。戦国屈指の名女傑だよね!
たしかに私も好きな人物なんだけど、なぜに誾千代?って感じがする。
旦那の立花宗茂も登場させて欲しいだけなのだが・・・
この二人両名共に戦国の傑物である。
立花宗茂 あまり馴染みのない方もいるだろう。
この御人も義の将である。
九州 筑後柳河城主。彼は大友家の重臣・高橋紹運の嫡男として生まれた。同じく大友家の重臣・立花道雪。当時の大友家の両巨頭のような存在の二人。立花道雪には跡継ぎがなく、娘の誾千代が跡取として決まっていたのだが、道雪は宗茂の非凡なる才能を認め、高橋紹運の子の高橋統虎(宗茂の初名)を養嗣子として迎えようとした。
紹運は統虎の優秀な器量と、高橋家の嫡男であるという理由から最初は拒絶しようとしたが、道雪が何度にもわたって請うてきたために拒絶できず、ついには宗茂を道雪の養子として出している。
このとき、宗茂は誾千代と結婚して娘婿となることで立花家を継いだ。だからなのか、この二人仲が悪かったらしい。誾千代としては自分が頭首であるという気概であったところへ宗茂のような優秀な旦那がきてしまったのだから面白くなかったのであろう。
さて高橋紹運、養父に立花道雪と大友家中の二大猛将を父に持ち、自身も智勇に優れた名将として、宗茂が行くところ敵なしと言われるほどであった。
しかし時代は戦国、大友氏の勢力がジリジリと押されていく。
天正14年薩摩の勇、島津義弘率いる島津軍がジワリジワリと押し寄せてくる。
そこで大友宗麟は豊臣秀吉に助けを求めるのである。
これをきっかけに秀吉の九州平定戦が始まるのである。宗茂は、この九州平定戦で活躍し
このとき秀吉は、宗茂を「その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一。」と高く評価したという。
その後、秀吉直臣となり筑後柳川に13万石を与えられ、大友氏から独立。
文禄元年からの文禄の役、更に慶長の役にも参陣し、獅子奮迅の活躍をするのである。
関ヶ原の戦いのおり、その直前に徳川家康から法外な恩賞を約束に東軍に付くように誘われたが、宗茂は、「秀吉公の恩義を忘れて東軍側に付くのなら、命を絶った方が良い」と言い拒絶した。
まさに『義の将』そのものの人である(カックイイ!!!
)
関ヶ原本戦には結果として間に合わなかったが、もし!もしもここに宗茂がいたならば・・・・勝敗は変わっていたに違いない。
関ヶ原後は改易されて浪人となるが、彼の実力をよく知っていた徳川家康からの熱心な引き合いにより幕府の御書院番頭(将軍の親衛隊長)となり陸奥棚倉に1万石を与えられて大名として復帰する。
後年、幕府から旧領の筑後柳河に10万9,200石を与えられ、大名として完全に復帰を果たす。
やはり人間二心なき者は成功するの典型的な見本の御仁である。
私の尊敬する偉大な人物の1人である。
立花の武!魅せてくれん
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おすすめの立花宗茂 関係の本

実不 高橋紹運、養父 立花道雪
を絡めた父子三様の猛々しくも清
々しい生き様が書いてあります。
PHP文庫 八尋舜右著 立花宗茂

人物文庫 学陽書房 童門冬二著 小説 立花宗茂
義を立て、信と誠意を貫いた宗茂の生涯。
戦国無双2から登場したキャラに立花誾千代がいる。戦国屈指の名女傑だよね!
たしかに私も好きな人物なんだけど、なぜに誾千代?って感じがする。
旦那の立花宗茂も登場させて欲しいだけなのだが・・・
この二人両名共に戦国の傑物である。立花宗茂 あまり馴染みのない方もいるだろう。
この御人も義の将である。
九州 筑後柳河城主。彼は大友家の重臣・高橋紹運の嫡男として生まれた。同じく大友家の重臣・立花道雪。当時の大友家の両巨頭のような存在の二人。立花道雪には跡継ぎがなく、娘の誾千代が跡取として決まっていたのだが、道雪は宗茂の非凡なる才能を認め、高橋紹運の子の高橋統虎(宗茂の初名)を養嗣子として迎えようとした。
紹運は統虎の優秀な器量と、高橋家の嫡男であるという理由から最初は拒絶しようとしたが、道雪が何度にもわたって請うてきたために拒絶できず、ついには宗茂を道雪の養子として出している。
このとき、宗茂は誾千代と結婚して娘婿となることで立花家を継いだ。だからなのか、この二人仲が悪かったらしい。誾千代としては自分が頭首であるという気概であったところへ宗茂のような優秀な旦那がきてしまったのだから面白くなかったのであろう。
さて高橋紹運、養父に立花道雪と大友家中の二大猛将を父に持ち、自身も智勇に優れた名将として、宗茂が行くところ敵なしと言われるほどであった。
しかし時代は戦国、大友氏の勢力がジリジリと押されていく。
天正14年薩摩の勇、島津義弘率いる島津軍がジワリジワリと押し寄せてくる。
そこで大友宗麟は豊臣秀吉に助けを求めるのである。
これをきっかけに秀吉の九州平定戦が始まるのである。宗茂は、この九州平定戦で活躍し
このとき秀吉は、宗茂を「その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一。」と高く評価したという。
その後、秀吉直臣となり筑後柳川に13万石を与えられ、大友氏から独立。
文禄元年からの文禄の役、更に慶長の役にも参陣し、獅子奮迅の活躍をするのである。
関ヶ原の戦いのおり、その直前に徳川家康から法外な恩賞を約束に東軍に付くように誘われたが、宗茂は、「秀吉公の恩義を忘れて東軍側に付くのなら、命を絶った方が良い」と言い拒絶した。
まさに『義の将』そのものの人である(カックイイ!!!
)関ヶ原本戦には結果として間に合わなかったが、もし!もしもここに宗茂がいたならば・・・・勝敗は変わっていたに違いない。
関ヶ原後は改易されて浪人となるが、彼の実力をよく知っていた徳川家康からの熱心な引き合いにより幕府の御書院番頭(将軍の親衛隊長)となり陸奥棚倉に1万石を与えられて大名として復帰する。
後年、幕府から旧領の筑後柳河に10万9,200石を与えられ、大名として完全に復帰を果たす。
やはり人間二心なき者は成功するの典型的な見本の御仁である。
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