2008年11月20日

蒲生氏郷 切支丹としての顔

戦国の美将、蒲生氏郷には様々な顔がある。
勇猛で武人としての誉れを極め、義を貫く男気のある一面もあれば、街づくりに尽力し、優れた手腕を発揮した領主の顔もあり、歌をたしなみ、茶の道を極め「利休七哲」の筆頭にあげられる文化教養の人でもあった。

そしてもう一面がある。
それは切支丹ンだったことだ。
蒲生氏郷は少年期に仏教・儒教を修める。
日本は元々が儒の国であるから、武家の子として生まれたからには儒学を学ぶのは当然であった。
ではいつから氏郷は切支丹になったのか。

日本に初めてキリスト教が伝わったのは1549年(天文18年)のこと。
氏郷が生まれるのはその7年後の1556年(弘治2年)のことである。
十分にキリスト教の日本での布教の土台は出来上がっているとみていい。

氏郷は幼くして織田信長のもとで人質生活を送っていた。
南蛮文化に開明的な信長もと、様々なものを見て、触って感じてきたであろう氏郷は感受性豊かになっていたのではないか。
その中の一つに茶道があった。
信長は茶器を領土と同じくらいの値打ちに引き上げ、恩賞や褒美として家臣に与えたりし、また、織田信長は堺を直轄地としたときに茶頭として千利休を雇い、より茶道を高貴なものにしていった。
必然的に氏郷もこの茶道に見せられていく。

そんな信長のもとで生活する氏郷にある人物との出会いがあった。
高槻城主 高山右近である。
右近は茶道に優れ、のちに利休七哲と言われるほどの人であり、氏郷同様に利休の高弟として有名だった。
次第に氏郷は右近と親交を深めていく、右近と親しくなればなるほど熱心な切支丹の右近からキリスト教の教えを聞き、氏郷の心の中に少しづつ信仰心が芽生えるようになっていた。

30歳になったころ、右近に勧められてキリシタンに帰依することになる。
洗礼名はレオン。
改宗の理由については、会津の人びとの人心掌握のために利用したという説もあれば、茶の道では満たされなかった平和への想いからという説もある。

長く続く戦国の世に、風流と風情を求める氏郷の心がそうさせたのだろう。
氏郷は松坂から会津に転封になった際も、宣教師も会津に連れて行き、会津にキリスト教を布教しようとした。
ローマにも度々使いを送り、時のローマ教皇から感謝の手紙を受けている。

時代の中で氏郷は何を感じていたのだろうか。
キリスト教に何を求めていたのだろう。

勇ましい武人としての姿を持ちながらも、こよなく風流と平和を愛した氏郷。
戦国大名として、自身の手によって多くの命を奪っていく自らの運命を皮肉に思っていたのかもしれない。
氏郷は会津において積極的に布教活動をしていく。
城下には、教会が建てられ、重臣達にもキリスト教を勧める。

早く平和な世が訪れることを願いながらも、天下を窺う器量と裁量を持ち合わせた蒲生氏郷
心半ばで病に倒れ亡くなってしまうのだ。

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Posted by 左近将監 at 12:34Comments(7)TrackBack(0)蒲生氏郷

2008年10月25日

蒲生氏郷 記事一覧

蒲生氏郷---記事一覧


 『織田信長が認めた男』

 『蒲生氏郷の無念』

 『死の謎』

 『将たる者は』

 『憧れの馬印』 

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Posted by 左近将監 at 08:19Comments(0)TrackBack(0)蒲生氏郷

2008年07月28日

蒲生氏郷 憧れの馬印

蒲生氏郷は、諸大名との雑談中に、「豊臣秀吉の後継者は誰になるか」、との話題になったとき、各大名が豊臣秀次徳川家康の名が挙がるなか、氏郷は前田利家の名を挙げ、「利家でなくば、自分だ」と、言ったという。

そんな蒲生氏郷が憧れた馬印があった。
それは佐々成政三階菅笠の馬印だった。

佐々成政は織田信長騎下の勇将として活躍したのだが、柴田勝家佐久間盛政前田利家などと共に戦線に立つことが多かった。
であるから、信長の死後の羽柴秀吉の台頭には面白くなかった。
柴田勝家が秀吉と対陣するとそれらの武将はこぞって勝家に与するが、前田利家だけは秀吉の親友ということもあり、秀吉の説得により秀吉に寝返るのだ。

しかし無骨一辺の佐々成政佐久間盛政などは今さら秀吉などの下に付くことができないという意地より勝家と行動をともにする。
結果、賤ヶ岳の戦いにより柴田勝家は敗北し、滅亡する。
佐々成政は北陸において上杉家の押さえとして賤ヶ岳の戦いには参戦はしてはいなかったが、この事態を受け秀吉に人質をだし、自身は剃髪して秀吉の軍門に下った。
成政を許した秀吉は肥後に一国を与える。
だが、秀吉の指示した治世を行わずに、国人一揆を招き、しかも鎮圧に失敗してしまう。
この責により1588年(天正16年)佐々成政は切腹となりこの世を去るのだ。

蒲生氏郷はどちらかといえば、柴田勝家前田利家などと懇意にしていたようで行動をともにもしていた。
若い氏郷は勝家や成政の武に憧れの目を持ってみていたのだろう。
そんな氏郷は成政の馬印にも憧れを持っていた。

成政の死後2年。
憧れの馬印が用捨てになり放置してあるのはもったいないとした氏郷は秀吉に「佐々成政の三階菅笠の馬印を用いたい」と願い出る。
当時の氏郷の馬印は熊の毛皮を棒に巻いただけの簡素なものだったので、それを憧れの三階菅笠の馬印に変えたかった。

この時代家紋や馬印を勝手に変えることは許されておらず、過去に秀吉が無断で馬印を使用し信長に叱責されたことがあるくらいだ。
氏郷のこの願いに秀吉は成政の三階笠は、天下に知られた馬印ゆえ、許すわけにはいかぬ」と、一旦は退けたが、氏郷は、なおも「我が武勇は、成政に劣ると言われるのですか」と、食い下がった。
そこで秀吉は「名に聞こえる佐々の馬印、欲しくば此度の小田原にて武功を立てよ」と言うのだ。
「武功をたてよ」と、言われては、先陣にて自ら槍を振るわずにはおれない氏郷である。

兵卒を集め、 「金の三階菅笠の馬印を許されよ。そのために今度の軍は人の目を驚かすか、さもなくば討ち死にあるのみである」と宣言する。
『関八州古戦録』には、大坂を発ち居城の松坂城に寄った蒲生氏郷は絵師に影像を描かせた。そしてまだ手に入れていない三階菅笠の馬印を作らせた。
出陣の前日、町野繁乃の妻を呼び絵師に描かせた影像を近江日野にある菩提所に納めるように頼むのだ。
繁乃の妻は「お若いのに影像などお作りになるのは縁起でもない」と泣きながら訴えられた。
氏郷はこれに対し
「戦場に赴く武士は、再び生きて帰ろうとは思っておらぬ。しかも此度の軍は東の果てまでも下っての戦いなれば、生死は定めがたい。もし命を落とせば、息子の秀行が成長した暁には父が平素、どんな姿形をしていたかがわかって良い形見になるであろう」と笑って答えたという。

こうして小田原に向かった氏郷は見事武功を立て、憧れの三階菅笠の馬印を得ることが出来たのである。


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Posted by 左近将監 at 10:05Comments(0)TrackBack(0)蒲生氏郷

2008年05月31日

将たる者は 蒲生氏郷の男気

蒲生氏郷織田信長に人質になったのは1568年(永禄11年)のことである。

信長は氏郷を見るなり、その非凡さを見抜き寵愛するようになったと伝えられている。
美濃三人衆の稲葉一鉄も「末たのもしい将になるであろう」と予言していたという。

氏郷は感受性強い時代を変人織田信長の元で育ったことにより、信長から受けた影響はかなりのものだったであろう。
その采配、治世など氏郷の後年を見るとそれが窺える。

氏郷は信長の下で幾たびの戦況に赴き功績を挙げていく。
信長自身もこの氏郷に格別ならぬ情を抱いていたのだろう。末娘の冬姫を娶らす事になる。
武将として男として信長に認められた氏郷は近江日野城に戻る。
その後も何度も出陣を繰り返すが、いつの日も勇敢に戦い自身の姿を示す事で家臣を鼓舞する姿は信長のようでもあった。
時に新参者には
銀の鯰尾の冑をかぶって奮戦するものを見かけたら、それに劣らぬ働きをせよ」と励ますのが常であったという。
新参者が実際に戦場に出てみると驚いた。
この銀の鯰尾の冑の勇者はなんと蒲生氏郷その人だったのだ。

信長がそうであったように、氏郷も自身が最前線で奮戦する事で兵たちの士気を高め、戦況を的確に判断していたのだろう。

1582年(天正10年)信長が本能寺で討たれると、氏郷はいち早く安土城へ駆けつけ、信長の正室、女房衆を守って自身の日野城に引き上げていった。
信義に実直に向かいあう氏郷の男気が感じられるところではないだろうか。

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Posted by 左近将監 at 10:49Comments(1)TrackBack(0)蒲生氏郷

2008年05月02日

これはあり?がモーくん

松阪市の市民グループが、同市の礎を築いた戦国武将、「蒲生氏郷」と地域ブランドの「松阪牛」を組み合わせたマスコットキャラクターを完成させた。
その名は「がモーくん」と「ふゆめチャン」。


ひこにゃん以来、ゆるキャラが流行ってはいるが微妙だなぁ~~

「がモーくん」は松阪牛が甲冑を着た武将姿。
蒲生氏郷の「がもう」と、牛の鳴き声の「モー」を合わせたネーミングとの事。

「ふゆめチャン」は松阪牛が着物を着たお姫様姿で、氏郷の妻「冬姫」にちなんだネーミング。

悪くはないとは思うんだけど、キャラって難しいですよね・・・・
オリジナルグッズも販売されるそうで、松阪木綿を使ったティッシュカバーやメモ帳、便せんなど5種類あるそうだ。


みなさんは欲しいと思います?

世の中なんでも作ればいいというものではないような。。。。。気がするんだけどなぁ。
ひこにゃん等はホントに優れたキャラだからいいものの。
ここはおとなしく、ガモにゃんなどを作ってしまったほうがよかったのでは?

各ご当地でオリジナルの「にゃんこ」シリーズを共通で作っていったほうが面白くなると思うのだが。。。。
そう、ご当地キティみたいな感じでね。

たとえば直江兼続をモジッて「あいにゃん」(前飾りの愛)とか、武田信玄をモチーフに「かいにゃん」(甲斐だから)とか全国にあると面白いなぁ~

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Posted by 左近将監 at 13:59Comments(3)TrackBack(0)蒲生氏郷

2008年03月31日

蒲生氏郷 死の謎

1595年(文禄4年)蒲生氏郷は齢40にてこの世を去る。
その死を巡っては諸説があり、病死説、謀殺説などがあげられている。

一応病名は当時で言うと下血、今で言うところの直腸ガン、大腸炎、胃ガンなどと言われている。

また謀殺説には色々あり。

① 九戸の乱、平定時の軍の規律正しさよる蒲生氏郷の天下人としての器量を石田三成豊臣秀吉に諫言し、瀬田掃部が鴆毒を盛った。

② 氏郷の朝鮮征伐への大いなる気概に対して秀吉が猜疑心をもった。

③ 秀吉のキリスト教弾圧に対して氏郷が直言をしたことにより、秀吉の怒りをかい謀殺された。
など憶測はつきないところ。

三成の諫言に関してはまったく信用性は少ないでしょうね。
徳川家康で対抗できる人物は一人でも多いほうがいいですから、三成が1595年時に氏郷を陥れようとは思わないでしょう。
②、③は有り得ない話ではないと思います。

今日では病死説が定説になってきており、それにはなにより動かぬ証拠があるのです。
曲直瀬玄朔の『医学天正記』に氏郷の病状が記されており、その中で玄朔は氏郷の担当医でもないのに、氏郷の病態と死に関して長々と筆を走らせている。
そのには当時から出ていた氏郷の死を巡る疑惑に応えたものだったかもしれない。

だがそこには若干不審に思われるところがある。
それは、名護屋で発病した際に朝鮮にいて不在。堺の宗叔の薬で快方に向かう。
しかし、翌冬に秀吉の命で9人の医師が病状が悪化した氏郷を診断、玄朔を含む8人が重体と診断するが担当医の宗叔のみが軽症と判断する。
前田利家が玄朔に治療を命じるが玄朔はこれを拒否。
結局死の間際まで宗叔が施薬し氏郷は逝去してしまう。

このことから宗叔の誤診、効果のない薬を与え続けられていたことが明白で、氏郷の病に対して最善の方法が採られていたとは思えない。
よって秀吉の謀殺説などというのものが浮上してきたりするが、さすがの秀吉もこの頃には実子 秀頼の補佐役として信用できる人物は一人でも多いほうが良いと考えていたであろうから、前田利家蒲生氏郷は心強い仲間であっただろうから謀殺するとは中々考えにくい。

そうなると・・・・・黒幕は?

徳川家康?ですか?
家康なら宗叔曲直瀬玄朔などを使い、まずは邪魔な氏郷を消し、次に前田利家を消し、と某略するメリットがある。
個人的には家康の謀殺説を信じてしまうところである。

この蒲生氏郷の死はその後の豊臣の政局にも大きく影響を与える。
本来ならば五大老の中に氏郷が入るはずだっただろう。
徳川家康 前田利家 宇喜多秀家 毛利輝元 小早川隆景となっていたが、氏郷がいれば、ここに名前が入っていたに違いない。

結局小早川隆景も卒中で倒れてしまい、前田利家も病によりこの世を去るのだ。
家康にとっていてもらうと都合の悪い人物だけが次々と亡くなっていっている。
このことはあまりにもよく出来すぎているように感じられ、何者かの手が関与しているように思えるのは私だけであろうか。

蒲生氏郷、この類まれな才能は陽の目を見る事無くこの世を去ることになる。

限りあれば吹かねど花は 散るものを 心短き春の山風

蒲生氏郷があと10年生きていたら時代は大きく変わっていたことだろう。

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Posted by 左近将監 at 14:36Comments(0)TrackBack(0)蒲生氏郷

2008年02月09日

蒲生氏郷の無念

蒲生氏郷の無念!もしかすると天下を獲れたかもしれない男 蒲生氏郷

天正十八年、小田原の役が終わった後、豊臣秀吉蒲生氏郷に会津四十二万石を与える。
これは東北の押さえとして奥羽の伊達政宗、そして徳川家康の背後を牽制するのが目的だったとせれている。

しかしこのとき、氏郷は広間の柱に寄りかかり涙ぐんだ。
それを見た朋輩が感涙を流していると思い「ありがたく思われるのはごもっともなことでございます」というと。
氏郷は「そうではない。小身ではあっても、都の近くにいれば、一度は天下に号令する望みもある。いくら大身のものでも、雲を隔て海山越えた遠国にいては、もはや天下人への望みもかなわぬ。わしはすでに不要な者になったかと思うと、不覚の涙がこぼれたのだ」と答えた。

ここに戦国武将としての男気を感じますよね!face05
カッコいい!ですよ。
男として生きる以上は天下を窺う野望をもっているものが戦国の男

あるとき、氏郷の近習が氏郷に聞いた、太閤のあとは豊臣秀次殿(関白)に従われるのですか、と尋ねると、氏郷は「あの愚人に従ふものは誰があろうか」と言った。
それでは天下の主となる人は誰でしょう、と問うと、
「加賀大納言又左衛門(前田利家)だ、もし又左殿がならないときは、そのときはわしがなる」と答えた。
 一方秀吉は近習の者に「氏郷は奥州に行くことをどう思っているのか」と聞くと。
「大変迷惑がっております」という答えに「いかにももっともなことだ。氏郷をこちらに置いておくと、恐ろしい奴なので、それで奥州につかわすのだ」と言ったと伝わっている。


このことからも、秀吉が氏郷の存在に畏怖があったことを物語っている。
それほどまでに恐れられもしたし、力量を認められてもいたことが会津92万石という結果に繋がっているのだろう。

現に氏郷は会津の大守として葛西・大崎一揆の鎮圧や、南部の九戸政実の乱などに持ち前の軍略を遺憾なく発揮し、秀吉から与えられた重大な任務を全うしているのだ。

氏郷は将としても素晴らしく、「主将たるもの人を使う時は自ら先頭に立たねばならぬ。後ろから、ただ、かかれ、かかれというだけではうまくはいかぬ」
新参者には「わが旗本には銀の鯰尾の兜をいただき、先陣に進むものがいるから、この者に劣らぬ働きをせよ」と言放った。
その鯰尾の冑の持ち主とは?言わずと知れた氏郷自身であった。
まさに知勇を兼備した武将、それが蒲生氏郷であった。

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2008年01月07日

蒲生氏郷 織田信長が認めた男 

織田信長が認めた男として茶々の父親である浅井長政を上げたが、もう一人。
信長の娘、冬姫を娶った蒲生氏郷がいる。


蒲生氏郷は近江蒲生郡日野に生まれの人で、父は蒲生賢秀である。

当時は近江の大名 六角氏に属していたが、六角義治織田信長に敗れると、蒲生賢秀は信長に帰順する。
氏郷はこのとき、人質として岐阜城へ送られるのだ。

この岐阜城行きが氏郷の人生を大きく発展させることになる。
信長は、この人質としてやってきた氏郷の才を見抜き、惚れこんだ。そして自らの娘・冬姫を娶らすのである。これにより織田一門衆となった氏郷は各地の戦線で活躍し信長の期待に応えていく。

しかし、1582年、本能寺の変が起こる。信長が死んだことを知ると、氏郷は安土城にいた信長の妻子を保護し、父とともに居城・日野城へ走って明智光秀に対して対抗姿勢を示した。

その後は羽柴秀吉仕え、小牧・長久手の戦い・九州征伐・小田原征伐などに従軍し、ここでも活躍をしていく。
秀吉も信長同様に氏郷の才能に一目おき、また織田一門衆として格別の扱いだったようです。

その後、伊勢松阪より陸奥会津に移封され42万石(のちに92万石)の大領を与えられ、伊達政宗徳川家康の押さえを任せている。

蒲生氏郷は戦だけではなく、利休七哲の一人として数えられたり 和歌などにも秀でていました。
また、高山右近とも親交が深く、キリシタンとなり、レオンという洗礼名まで持っている。
ローマにも度々使いを送り、ローマ教皇から感謝の手紙なども受けているほどだ。

文禄の役で、九州肥前名護屋で在陣していた氏郷は、病に倒れ、京都の蒲生邸において40歳という若さで亡くなってしまう。
この時代に若くして亡くなると毒殺のウワサがでるが、氏郷に関しても例外でなく、そんなウワサはある。しかし、その事実はなく単なるウワサの域である。

辞世の句は
「かぎりあれば 吹かねと花は 散るものを 心短き 春の山風」

武勇を尊び、一方で文人としての教養も身につけていた蒲生氏郷
人間として信義を重んじ、義理をわきまえた武将だった。


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Posted by 左近将監 at 23:59Comments(0)TrackBack(0)蒲生氏郷