2008年07月13日
大谷吉継 記事一覧
大谷吉継---記事一覧

● 『真田幸村の義父』
● 『節義を貫く』
● 『親友 石田三成のために』
● 『関ヶ原に咲く』
● 『賤ヶ岳の嘆き』
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タグ :大谷吉継
2008年03月26日
大谷吉継 賤ヶ岳の嘆き
大谷吉継は近江で豊臣秀吉に見出され重用されていく話は先にもしたが(ココ参照)
大谷吉継のイメージはどうしても事務的なイメージが強いようで、同じ小姓の加藤清正や福島正則らと比べれるとどうしても事務派に見られがちである。
しかし、その実は秀吉に「百万の軍勢を指揮させてみたい」と言わしめた力量の持ち主である。

では何故に事務方のイメージが強くなってしまったのであろうか?
まず一つには親友・石田三成の存在は切っても切れないだろう。
当時三成は秀吉の下、才能を発揮し出世街道を歩んでいた。
当然三成と親友である吉継は三成に何かと便利に使われているうちに文治方面の担当が多くなっていってしまったのだろう。
元々、文武両道をこなせる大谷吉継であるから三成の要請でこなす仕事も難なく処理してしまうので秀吉が上手に配置した者だと思われる。
2つ目には秀吉騎下の武勇派が充実していたことも起因している。
時は天正11年(1583年)中国大返しで明智光秀を討った秀吉は、清洲会議において織田家中の実験を握ろうとしていた。
これを良しと思わぬ柴田勝家は秀吉に宣戦布告。
柴田側に付く者には佐久間盛政、佐々成正、前田利家など織田家中の剛の者がいた。
秀吉はそんな中、大垣城に拠りまずは、岐阜城に籠もる神戸信孝を攻めていた。
岐阜城攻めは長らく降る雨のために揖斐川が増水し、難航を極めていたのだ。
これを好機と見た柴田勝家は佐久間盛政を琵琶湖の湖北に出し、秀吉が築かせていた砦を攻めさせた。
秀吉側も中川清秀が奮戦するものの衆寡敵せずで砦は陥落、中川清秀も討死にしてしまう。
勢いに乗る佐久間勢は賤ヶ岳の砦を目指すのだ。
これを大垣城にて聞いた秀吉諸将は慌てるが、当の秀吉は「勝算我にあり」とし、次々と指示を出し、そして美濃街道を疾駆した。
その後を追うように加藤清正、福島正則、加藤嘉明、片桐且元、脇坂安治らが追従していく。
その中に大谷吉継の姿はなかった。
吉継は類まれな才能により、秀吉から街道沿いに松明と兵糧を用意させる役を命じられその段取りに奔走していたのだ。
そのために吉継が大垣城を出て賤ヶ岳に到着する頃には戦は峠をこえ、勝敗は羽柴軍に決していた。
先に秀吉と共に駆けていった清正達は鬼神の如く働き、賤ヶ岳の七本槍と称されるようになる。
吉継はこの事に落胆し、嘆いたという。
その後は戦において最も目立たぬ兵站を繋ぐ役目を担うことが多くなるのだが、この兵站を繋ぐことが戦においてもっとも重要なことであることを知っていた秀吉は大谷吉継に任せたのだろう。
前線で槍働きをするのは誰にでもできることである。
ましてや槍働きだけが取り得の猛者は数は揃っている。
大事な兵站を繋ぎ、前線を見殺しにしないようにすることはすべてにおいて目が行き届かないと出来ないことである。
吉継はこの目立たぬ仕事をこなしながらも、その力量を武断派にも認められるほどの存在だったのである。
三成と違い、誰からも愛されるのはそんな姿があるからだろう。
まさに仁の将、大谷吉継である。
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大谷吉継のイメージはどうしても事務的なイメージが強いようで、同じ小姓の加藤清正や福島正則らと比べれるとどうしても事務派に見られがちである。
しかし、その実は秀吉に「百万の軍勢を指揮させてみたい」と言わしめた力量の持ち主である。

では何故に事務方のイメージが強くなってしまったのであろうか?
まず一つには親友・石田三成の存在は切っても切れないだろう。
当時三成は秀吉の下、才能を発揮し出世街道を歩んでいた。
当然三成と親友である吉継は三成に何かと便利に使われているうちに文治方面の担当が多くなっていってしまったのだろう。
元々、文武両道をこなせる大谷吉継であるから三成の要請でこなす仕事も難なく処理してしまうので秀吉が上手に配置した者だと思われる。
2つ目には秀吉騎下の武勇派が充実していたことも起因している。
時は天正11年(1583年)中国大返しで明智光秀を討った秀吉は、清洲会議において織田家中の実験を握ろうとしていた。
これを良しと思わぬ柴田勝家は秀吉に宣戦布告。
柴田側に付く者には佐久間盛政、佐々成正、前田利家など織田家中の剛の者がいた。
秀吉はそんな中、大垣城に拠りまずは、岐阜城に籠もる神戸信孝を攻めていた。
岐阜城攻めは長らく降る雨のために揖斐川が増水し、難航を極めていたのだ。
これを好機と見た柴田勝家は佐久間盛政を琵琶湖の湖北に出し、秀吉が築かせていた砦を攻めさせた。
秀吉側も中川清秀が奮戦するものの衆寡敵せずで砦は陥落、中川清秀も討死にしてしまう。
勢いに乗る佐久間勢は賤ヶ岳の砦を目指すのだ。
これを大垣城にて聞いた秀吉諸将は慌てるが、当の秀吉は「勝算我にあり」とし、次々と指示を出し、そして美濃街道を疾駆した。
その後を追うように加藤清正、福島正則、加藤嘉明、片桐且元、脇坂安治らが追従していく。
その中に大谷吉継の姿はなかった。
吉継は類まれな才能により、秀吉から街道沿いに松明と兵糧を用意させる役を命じられその段取りに奔走していたのだ。
そのために吉継が大垣城を出て賤ヶ岳に到着する頃には戦は峠をこえ、勝敗は羽柴軍に決していた。
先に秀吉と共に駆けていった清正達は鬼神の如く働き、賤ヶ岳の七本槍と称されるようになる。
吉継はこの事に落胆し、嘆いたという。
その後は戦において最も目立たぬ兵站を繋ぐ役目を担うことが多くなるのだが、この兵站を繋ぐことが戦においてもっとも重要なことであることを知っていた秀吉は大谷吉継に任せたのだろう。
前線で槍働きをするのは誰にでもできることである。
ましてや槍働きだけが取り得の猛者は数は揃っている。
大事な兵站を繋ぎ、前線を見殺しにしないようにすることはすべてにおいて目が行き届かないと出来ないことである。
吉継はこの目立たぬ仕事をこなしながらも、その力量を武断派にも認められるほどの存在だったのである。
三成と違い、誰からも愛されるのはそんな姿があるからだろう。
まさに仁の将、大谷吉継である。
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2008年02月15日
大谷吉継 関ヶ原に咲く
佐和山の親友・石田三成に味方することを告げた大谷吉継は
7月14日 大坂城に戻っている。この頃名に名を吉隆に改めているようだ。
理由は三好義継と大谷吉継では名前の韻が同じなので縁起が悪いとい縁起担ぎだったという。
大坂城にて、西軍諸将軍議を開き家康に宣戦布告。
19日には伏見城を攻撃を開始、8月1日には伏見城を攻略し、敦賀に向けて移動していく。
三成から北陸方面の指揮を任されていたからだ。
この時点で西軍に与している北陸勢は、小松の丹羽長重、大聖寺の山口宗永、北ノ庄の青木一矩。
一方、東軍は加賀の前田利長、府中の堀尾吉晴だった。
堀尾は挟撃されることを恐れ、加賀の前田利長に救いをもとめるのだ。
前田利長はまず、南下して小松の丹羽長重を攻める。しかし、なかなか小松城が落ちないので迂回し山口崇永のこもる大聖寺城を攻める。
山口宗永は最後まで戦い抜き自刃した。
このことにより危機感を感じ始めた北ノ庄の青木一矩は大谷吉隆(吉継)に援軍を求める。
吉隆(吉継)は脇坂安治、朽木元綱、赤座直保、平塚為広、戸田重政らと共に救援に向かうのだ。
西軍は府中の堀尾を無視し素通りして、青木一矩の元へと急ぐ。

ここで大谷吉隆(吉継)の本領が発揮される。
吉隆(吉継)は前田利長にたいし、敦賀から船にて加賀を突くと偽情報を流したのだ。
これにまんまと引っかかった利長は急いで加賀へと戻っていく。その戻りしなを丹羽長重に急襲され甚大な被害をだしている。
前田を加賀に追いやった吉隆(吉継)は堀尾を降伏させて急いで関ヶ原へと向かう。
9月2日には関ヶ原山中に布陣していた。
吉隆(吉継)はここで陣を造り本体が到着するのを待つのだが、なぜ吉隆(吉継)は大垣城に入らなかったのか?疑問です。
親友の三成が一番信頼する男です、目と鼻の先の関ヶ原にて布陣しそこにいるのは何故?
おそらくなのですが、当初からの計画だったのではないでしょうか?
関ヶ原で一旦東軍を防ぎ、若し破られても佐和山、瀬田などまだ抵抗できる場所は残っている。
ここ関ヶ原におびき寄せられたのは家康だったのではないでしょうか?
その証拠が大谷吉隆(吉継)の関ヶ原での布陣であり、9月7日の毛利秀元、吉川広家、長曽我部盛親ら南宮山に布陣、9月13日の小早川秀秋の松尾山城へ入城なのではなかろうか。
結局はどちらにせよ、両軍は関ヶ原の地へと導かれていきます。

そして9月15日、朝 松平忠吉の小隊と井伊直政が宇喜多秀家隊に発砲することにより戦端はひらかれる。
西軍は総兵力のうち、戦闘を行っている兵力は3万5千ほどながら、戦局をやや優位に進めていた。
大谷隊もそんな中、奮戦している。
しかし、小早川秀秋が裏切る。
松尾山に陣取っていた小早川が一気に大谷吉隆(吉継)の側面を突き、戦況が一気に逆転していく。
これにより脇坂安治、朽木元綱、赤座直保、小川祐忠らも次々と寝返り大谷隊はほぼ壊滅状態となっていくのだ。
まずは平塚為広が小早川の側面に最後の突撃を食らわす。
そして大谷吉隆(吉継)も善戦するが多数に無勢、時間と共に将兵は減っていき、もはや壊滅は時間の問題となっていた。
吉隆(吉継)は家臣の湯浅五助に
「最早これまでである、しかしわしのこの首を絶対に見つからぬよう頼む」と言い残し自刃するのだ。
吉隆(吉継)は最後まで己の病を気にしていた。
醜くなった顔を見られたくない。そんな気後が強かったのであろう。
五助もそんな主人の気持ちを痛いほど理解しており、必至で吉隆(吉継)の首を持ちながら逃げていく。
しかし五助は首を埋めるところを藤堂仁右衛門に見られてしまうのだが、自分の首と引き換えに口止めを懇願するのだ。
藤堂仁右衛門はそれを承諾し、五助を介錯をする。
その後、家康から「湯浅五助であれば、吉継の首の行方を知っていただろう。吉継の首は手に入れたのか。」と問われるが、仁右衛門は、「たしかに知っている。知っているが五助との約束なので、死んでも言えません。強いて教えろとおっしゃるのであれば、頂いた恩賞は返上いたします。」と言い張り、
とうとう吉継の首が埋められている場所を明かさなかった。
こうして『義』の将大谷吉隆(吉継)は親友・石田三成の為、豊臣秀吉から受けた恩のために関ヶ原の地に散った。
今もなお、彼のその生き様は多くの人を魅了している。
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7月14日 大坂城に戻っている。この頃名に名を吉隆に改めているようだ。
理由は三好義継と大谷吉継では名前の韻が同じなので縁起が悪いとい縁起担ぎだったという。
大坂城にて、西軍諸将軍議を開き家康に宣戦布告。
19日には伏見城を攻撃を開始、8月1日には伏見城を攻略し、敦賀に向けて移動していく。
三成から北陸方面の指揮を任されていたからだ。
この時点で西軍に与している北陸勢は、小松の丹羽長重、大聖寺の山口宗永、北ノ庄の青木一矩。
一方、東軍は加賀の前田利長、府中の堀尾吉晴だった。
堀尾は挟撃されることを恐れ、加賀の前田利長に救いをもとめるのだ。
前田利長はまず、南下して小松の丹羽長重を攻める。しかし、なかなか小松城が落ちないので迂回し山口崇永のこもる大聖寺城を攻める。
山口宗永は最後まで戦い抜き自刃した。
このことにより危機感を感じ始めた北ノ庄の青木一矩は大谷吉隆(吉継)に援軍を求める。
吉隆(吉継)は脇坂安治、朽木元綱、赤座直保、平塚為広、戸田重政らと共に救援に向かうのだ。
西軍は府中の堀尾を無視し素通りして、青木一矩の元へと急ぐ。

ここで大谷吉隆(吉継)の本領が発揮される。
吉隆(吉継)は前田利長にたいし、敦賀から船にて加賀を突くと偽情報を流したのだ。
これにまんまと引っかかった利長は急いで加賀へと戻っていく。その戻りしなを丹羽長重に急襲され甚大な被害をだしている。
前田を加賀に追いやった吉隆(吉継)は堀尾を降伏させて急いで関ヶ原へと向かう。
9月2日には関ヶ原山中に布陣していた。
吉隆(吉継)はここで陣を造り本体が到着するのを待つのだが、なぜ吉隆(吉継)は大垣城に入らなかったのか?疑問です。
親友の三成が一番信頼する男です、目と鼻の先の関ヶ原にて布陣しそこにいるのは何故?
おそらくなのですが、当初からの計画だったのではないでしょうか?
関ヶ原で一旦東軍を防ぎ、若し破られても佐和山、瀬田などまだ抵抗できる場所は残っている。
ここ関ヶ原におびき寄せられたのは家康だったのではないでしょうか?
その証拠が大谷吉隆(吉継)の関ヶ原での布陣であり、9月7日の毛利秀元、吉川広家、長曽我部盛親ら南宮山に布陣、9月13日の小早川秀秋の松尾山城へ入城なのではなかろうか。
結局はどちらにせよ、両軍は関ヶ原の地へと導かれていきます。

そして9月15日、朝 松平忠吉の小隊と井伊直政が宇喜多秀家隊に発砲することにより戦端はひらかれる。
西軍は総兵力のうち、戦闘を行っている兵力は3万5千ほどながら、戦局をやや優位に進めていた。
大谷隊もそんな中、奮戦している。
しかし、小早川秀秋が裏切る。
松尾山に陣取っていた小早川が一気に大谷吉隆(吉継)の側面を突き、戦況が一気に逆転していく。
これにより脇坂安治、朽木元綱、赤座直保、小川祐忠らも次々と寝返り大谷隊はほぼ壊滅状態となっていくのだ。
まずは平塚為広が小早川の側面に最後の突撃を食らわす。
そして大谷吉隆(吉継)も善戦するが多数に無勢、時間と共に将兵は減っていき、もはや壊滅は時間の問題となっていた。
吉隆(吉継)は家臣の湯浅五助に
「最早これまでである、しかしわしのこの首を絶対に見つからぬよう頼む」と言い残し自刃するのだ。
吉隆(吉継)は最後まで己の病を気にしていた。
醜くなった顔を見られたくない。そんな気後が強かったのであろう。
五助もそんな主人の気持ちを痛いほど理解しており、必至で吉隆(吉継)の首を持ちながら逃げていく。
しかし五助は首を埋めるところを藤堂仁右衛門に見られてしまうのだが、自分の首と引き換えに口止めを懇願するのだ。
藤堂仁右衛門はそれを承諾し、五助を介錯をする。
その後、家康から「湯浅五助であれば、吉継の首の行方を知っていただろう。吉継の首は手に入れたのか。」と問われるが、仁右衛門は、「たしかに知っている。知っているが五助との約束なので、死んでも言えません。強いて教えろとおっしゃるのであれば、頂いた恩賞は返上いたします。」と言い張り、
とうとう吉継の首が埋められている場所を明かさなかった。
こうして『義』の将大谷吉隆(吉継)は親友・石田三成の為、豊臣秀吉から受けた恩のために関ヶ原の地に散った。
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2008年02月14日
大谷吉継 親友・石田三成のために
1600年(慶長5年)、大谷吉継は、徳川家康が上杉景勝に謀反の嫌疑があると主張し、上方に兵を率い、上杉討伐に向かう軍に従うべく領国の敦賀を出発した。

元々家康とも懇意にしていた吉継。(敵を作らない人柄のせい?)
敦賀を出て北国街道をおりて、佐和山城の横を通りながら美濃の垂井までやってくる。
なぜ吉継はそのまま北国街道を上がって行かなかったのか?
そこには吉継が親友・石田三成との関係があった。
その当時、三成は失脚中で佐和山城にて謹慎していた。
吉継は三成のことを思い、三成の嫡男・石田重家を自らの軍中に従軍させ家康の心象を良くしようととしたのである。
垂井にてか石田重家を待っていた吉継の元に佐和山から使者・樫原彦右衛門がくる
至急佐和山まで来て欲しいということであった。
大谷吉継は佐和山城に赴く、そこで吉継を待っていたのは驚くべき知らせであった。
「豊臣家の威光を軽視し、傍若無人な振る舞いの数々の家康を討ちたい。是非力を貸して欲しい」三成の口から思ってもいない言葉を聞かされた。
家康の武将としての力量、財力、兵力を共に評価していた吉継。
親家康派だった吉継は必死で三成を諌めます。
「貴殿と家康公では力量がまったく違いすぎる、時世の流れなのだ仕方あるまい」
三日三晩説得をしますが三成の意思は変わりませんでした。
垂井の陣場に戻り悩む吉継。
「勝敗は決するまでは分らない。自分を可愛がってくれた秀吉のため、親友・三成のために残りのわが人生を掛けてみるか!節義に生きる他なし!」
そう決断し、佐和山の三成を再度訪れます。
ここでもう一度三成に意思を確かめ、その意志の固さを確認し共に戦うことを誓います。
このとき吉継は三成に対して
「貴殿は諸人に対して横柄なところがあり、評判も良くない。人の上に立って事を成そうとするときは世の人気を得なければならないものだ。この度の大事も毛利輝元殿と宇喜多秀家殿を上に立て、貴殿はその下について事を進めるようにしなければ上手くいかないだろう」と手厳しく諫めたのだ。
そして大谷吉継は人生最大の見せ場に向かい進んでいくことになる。
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元々家康とも懇意にしていた吉継。(敵を作らない人柄のせい?)
敦賀を出て北国街道をおりて、佐和山城の横を通りながら美濃の垂井までやってくる。
なぜ吉継はそのまま北国街道を上がって行かなかったのか?
そこには吉継が親友・石田三成との関係があった。
その当時、三成は失脚中で佐和山城にて謹慎していた。
吉継は三成のことを思い、三成の嫡男・石田重家を自らの軍中に従軍させ家康の心象を良くしようととしたのである。
垂井にてか石田重家を待っていた吉継の元に佐和山から使者・樫原彦右衛門がくる
至急佐和山まで来て欲しいということであった。
大谷吉継は佐和山城に赴く、そこで吉継を待っていたのは驚くべき知らせであった。
「豊臣家の威光を軽視し、傍若無人な振る舞いの数々の家康を討ちたい。是非力を貸して欲しい」三成の口から思ってもいない言葉を聞かされた。
家康の武将としての力量、財力、兵力を共に評価していた吉継。
親家康派だった吉継は必死で三成を諌めます。
「貴殿と家康公では力量がまったく違いすぎる、時世の流れなのだ仕方あるまい」
三日三晩説得をしますが三成の意思は変わりませんでした。
垂井の陣場に戻り悩む吉継。
「勝敗は決するまでは分らない。自分を可愛がってくれた秀吉のため、親友・三成のために残りのわが人生を掛けてみるか!節義に生きる他なし!」
そう決断し、佐和山の三成を再度訪れます。
ここでもう一度三成に意思を確かめ、その意志の固さを確認し共に戦うことを誓います。
このとき吉継は三成に対して
「貴殿は諸人に対して横柄なところがあり、評判も良くない。人の上に立って事を成そうとするときは世の人気を得なければならないものだ。この度の大事も毛利輝元殿と宇喜多秀家殿を上に立て、貴殿はその下について事を進めるようにしなければ上手くいかないだろう」と手厳しく諫めたのだ。
そして大谷吉継は人生最大の見せ場に向かい進んでいくことになる。
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2008年02月11日
節義を貫く!大谷吉継
関ヶ原の戦いにて親友、石田三成のために散った節義の男 大谷吉継。

以前も真田幸村の義父として紹介をしました。
1559年に近江国で、大谷吉房の子として生まれた吉継。母は母は豊臣秀吉の正室の高台院の侍女である東殿といわれる。
(吉継が仕えたことにより侍女になったものと思われる。)
幼い頃の資料はないために不明だが、幼名は平馬。通称は紀之介。初名は吉隆である。
伊香群余呉の少し北の大谷村出身という。父、吉房は六角義賢に仕えていたが、六角義賢が浅井・織田連合軍に敗れると。大谷村に隠棲してしまっていた。
おそらく吉継は、秀吉が石田三成を見つけたように、長浜に城を構えた辺りで見出されたのであろう。
天正初め頃に秀吉の小姓となっている。
秀吉の毛利攻めに馬廻衆として共に出陣しており、三木城攻め、高松城攻めに従軍している。
このとき共に近江出身の脇坂安治、中村一氏らの名前が見られる。
明智光秀の本能寺の変後の美濃侵攻で、秀吉本陣の馬廻衆として福島市松・加藤虎之助・小西弥九郎らと共に活躍している。
賤ヶ岳の戦いでは 七本槍に次ぐ戦功を残す活躍をするのだ。
一説ではこのとき出遅れたことを吉継は後々悔やんだと言われています。
そして遂には5万石の石高で敦賀城主となるのだ。
個人的には、吉継力量のわりに少ないのではないかと思ってしまうが、これは贔屓があるからだろう。
この前後の30歳頃から癩病を病み、顔容が崩れだしたといわれている。
両目の視力を失い、自ら悲観した吉継は解職を願い出るが、その能力の高さゆえに許されなかった。
1590年(天正18年)小田原征伐に参陣、石田・長束らと共に館林城・忍城攻略する。
1594年(文禄3年)にはあの伏見城築城を命じられている。
1598年(慶長3年)秀吉が没すると、時代は再び動き始める。当初、吉継は徳川家康に味方しようとする。当時の時代の流れとして当然ではあった。
しかし、吉継は親友ののために自らの命を賭けることにするのだ。
そこには、ライ病のこともあったのだろう、残りの人生を戦国の男としていかに生きるかに賭けたのだ。
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大谷吉継Tシャツ「義侠」 戦国武将 Price 4,095 円
小説大谷吉継 Price 798 円
関ケ原に学ぶ勝負の法則 Price 840 円

以前も真田幸村の義父として紹介をしました。
1559年に近江国で、大谷吉房の子として生まれた吉継。母は母は豊臣秀吉の正室の高台院の侍女である東殿といわれる。
(吉継が仕えたことにより侍女になったものと思われる。)
幼い頃の資料はないために不明だが、幼名は平馬。通称は紀之介。初名は吉隆である。
伊香群余呉の少し北の大谷村出身という。父、吉房は六角義賢に仕えていたが、六角義賢が浅井・織田連合軍に敗れると。大谷村に隠棲してしまっていた。
おそらく吉継は、秀吉が石田三成を見つけたように、長浜に城を構えた辺りで見出されたのであろう。
天正初め頃に秀吉の小姓となっている。
秀吉の毛利攻めに馬廻衆として共に出陣しており、三木城攻め、高松城攻めに従軍している。
このとき共に近江出身の脇坂安治、中村一氏らの名前が見られる。
明智光秀の本能寺の変後の美濃侵攻で、秀吉本陣の馬廻衆として福島市松・加藤虎之助・小西弥九郎らと共に活躍している。
賤ヶ岳の戦いでは 七本槍に次ぐ戦功を残す活躍をするのだ。
一説ではこのとき出遅れたことを吉継は後々悔やんだと言われています。
そして遂には5万石の石高で敦賀城主となるのだ。
個人的には、吉継力量のわりに少ないのではないかと思ってしまうが、これは贔屓があるからだろう。
この前後の30歳頃から癩病を病み、顔容が崩れだしたといわれている。
両目の視力を失い、自ら悲観した吉継は解職を願い出るが、その能力の高さゆえに許されなかった。
1590年(天正18年)小田原征伐に参陣、石田・長束らと共に館林城・忍城攻略する。
1594年(文禄3年)にはあの伏見城築城を命じられている。
1598年(慶長3年)秀吉が没すると、時代は再び動き始める。当初、吉継は徳川家康に味方しようとする。当時の時代の流れとして当然ではあった。
しかし、吉継は親友ののために自らの命を賭けることにするのだ。
そこには、ライ病のこともあったのだろう、残りの人生を戦国の男としていかに生きるかに賭けたのだ。
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2007年12月28日
真田幸村の義父 大谷吉継
真田幸村の妻、竹姫。その実家は大谷吉継である。
先日も記したが、幸村と大谷吉継の関係は、幸村が大坂に居た時代に築かれたものであろう。
ではその大谷吉継のお話。
近江の国(滋賀県)の出で、石田三成と同郷ということとなる。
一説には豊後国大友宗麟の家臣・大谷盛治の子説と、近江国六角氏の家臣・大谷吉房の子説がある。
おそらく豊臣秀吉が織田信長から長浜城を賜ったときに召抱えられたのではないだろうか?
もともと下人での秀吉には家人が居ない。
城持ち武将となった秀吉は人材集めに奔走していた。
ほぼ同時期に三成とお供に秀吉の小姓として仕えることになったが、吉継は三成と違い、小姓時代から才覚に優れており、秀吉が長浜に来る前の家来衆、加藤清正や福島正則らとも仲は良かったようだ。
秀吉は生前に、 「百万の兵を預け、指揮を取らせてみたい」と言わしめた傑物である。
大谷吉継も家康の会津征伐のために出張っていた。
美濃垂井まで軍を進めたとき、ここから佐和山の三成のもとに子の重家を参陣させるよう使者を発した。一方三成も思うところがあり、吉継の着陣を聞くと家臣を吉継のもとに遣わして来訪を求めた。
これを受けて吉継は佐和山へ赴く、そこで三成から挙兵のことを聞かされるのである。
吉継には事の無謀さが良く解っており、猛反対して三成に思いとどまるよう説得をするのだが、三成の意志は固く、話は「決裂」に終わる。
垂井の陣所に帰った吉継は悩み続け、ついには三成との友情に殉ずる決意するのである。
ではなぜ、時勢を見る目があった大谷吉継が、それを超えてまで石田三成との友情を取ったのか。
大谷吉継は癩病に侵されており、体や顔からも膿が出るほど重いものでした。
吉継が癩病に侵されていることは周知のことだった。
ある日秀吉の主催する茶会があった。
その茶会にいた他の誰もが気味悪がって、吉継の飲んだ後の湯のみは回ってきても飲む振りをするだけであった。
しかし、石田三成は、そのお茶をためらうことなく飲み干した。三成は、そんなつまらぬことで友の面子を潰す事はしたくない、『義』の男でした。
吉継はそのこと忘れることなく覚えており、ここ一番の大事で男の『義』をとったのだ。
陰謀と裏切りの渦めく関ヶ原の合戦の中、石田三成率いる西軍の中で、本気で東軍に立ち向かっていたのは大谷吉継と宇喜多秀家の軍だけではないだろうか。
それを証拠に大谷吉継は、西軍武将の中で寝返る者がでることを察知しており、自らの陣を、その横につけるのだ。
小早川秀秋の裏切りからはじまり、小川祐忠・脇坂安治・朽木元綱・赤座直保と相次ぐ裏切りで西軍が崩れ行く中、吉継軍は決して逃げ出す事なく最期まで抵抗した。
その最中、吉継の与力大名でもある盟友の平塚為広は討死する前に、吉継に別離の歌を届けた。
「名の為に捨てる命は惜しからじ 終に留まらぬ浮世と思えば」
大谷吉継はこれに対し
「契りあれば 六つの衢に 待てしばし 遅れ先だつ ことはありとも」
と送り届けた。
大谷吉継は石田三成のため、平塚為広は大谷吉継のため。『義』に生きた漢たちがそこにいた。
そんな『義』の将の物語

小説大谷吉継

大谷吉継Tシャツ「義侠」 戦国武将

先日も記したが、幸村と大谷吉継の関係は、幸村が大坂に居た時代に築かれたものであろう。
ではその大谷吉継のお話。
近江の国(滋賀県)の出で、石田三成と同郷ということとなる。
一説には豊後国大友宗麟の家臣・大谷盛治の子説と、近江国六角氏の家臣・大谷吉房の子説がある。
おそらく豊臣秀吉が織田信長から長浜城を賜ったときに召抱えられたのではないだろうか?
もともと下人での秀吉には家人が居ない。
城持ち武将となった秀吉は人材集めに奔走していた。
ほぼ同時期に三成とお供に秀吉の小姓として仕えることになったが、吉継は三成と違い、小姓時代から才覚に優れており、秀吉が長浜に来る前の家来衆、加藤清正や福島正則らとも仲は良かったようだ。
秀吉は生前に、 「百万の兵を預け、指揮を取らせてみたい」と言わしめた傑物である。
大谷吉継も家康の会津征伐のために出張っていた。
美濃垂井まで軍を進めたとき、ここから佐和山の三成のもとに子の重家を参陣させるよう使者を発した。一方三成も思うところがあり、吉継の着陣を聞くと家臣を吉継のもとに遣わして来訪を求めた。
これを受けて吉継は佐和山へ赴く、そこで三成から挙兵のことを聞かされるのである。
吉継には事の無謀さが良く解っており、猛反対して三成に思いとどまるよう説得をするのだが、三成の意志は固く、話は「決裂」に終わる。
垂井の陣所に帰った吉継は悩み続け、ついには三成との友情に殉ずる決意するのである。
ではなぜ、時勢を見る目があった大谷吉継が、それを超えてまで石田三成との友情を取ったのか。
大谷吉継は癩病に侵されており、体や顔からも膿が出るほど重いものでした。
吉継が癩病に侵されていることは周知のことだった。
ある日秀吉の主催する茶会があった。
その茶会にいた他の誰もが気味悪がって、吉継の飲んだ後の湯のみは回ってきても飲む振りをするだけであった。
しかし、石田三成は、そのお茶をためらうことなく飲み干した。三成は、そんなつまらぬことで友の面子を潰す事はしたくない、『義』の男でした。
吉継はそのこと忘れることなく覚えており、ここ一番の大事で男の『義』をとったのだ。
陰謀と裏切りの渦めく関ヶ原の合戦の中、石田三成率いる西軍の中で、本気で東軍に立ち向かっていたのは大谷吉継と宇喜多秀家の軍だけではないだろうか。
それを証拠に大谷吉継は、西軍武将の中で寝返る者がでることを察知しており、自らの陣を、その横につけるのだ。
小早川秀秋の裏切りからはじまり、小川祐忠・脇坂安治・朽木元綱・赤座直保と相次ぐ裏切りで西軍が崩れ行く中、吉継軍は決して逃げ出す事なく最期まで抵抗した。
その最中、吉継の与力大名でもある盟友の平塚為広は討死する前に、吉継に別離の歌を届けた。
「名の為に捨てる命は惜しからじ 終に留まらぬ浮世と思えば」
大谷吉継はこれに対し
「契りあれば 六つの衢に 待てしばし 遅れ先だつ ことはありとも」
と送り届けた。
大谷吉継は石田三成のため、平塚為広は大谷吉継のため。『義』に生きた漢たちがそこにいた。
そんな『義』の将の物語
小説大谷吉継
大谷吉継Tシャツ「義侠」 戦国武将















