2008年08月26日

仙台真田家の祖 真田大八

真田幸村には男子が4人いる。
1人は言わずと知れた嫡男 真田大助幸昌
大助は大坂の陣に父・幸村とともに入場し、豊臣秀頼の最後を見届けると自害して果てた。

そして2人目は真田大八である。
大八は通説では、京都において石合戦の折に、頭に石が当たり打ち所が悪くて死んだとされている。
しかし、これは事実ではないようだ。

先の幸村の愛娘 阿梅の項でも少し書いたが、阿梅とともに実は仙台 伊達家の重臣・片倉重長に匿われていたのだ。

片倉家は幕府に憚り、大八を死んだことにしていたのだ。
伊達家は高野山蓮華定院に「大八君八歳の時京都にて印地打ち観覧中石に当たり他界」という虚報を流して大八の存在を隠した。
そして大八本人には架空の系図を作り上げていく。

真田信尹(真田昌幸の弟)の子で、真田政信という架空の人物を作り上げ、大八をその真田政信の子としたのだ。
名を真田四郎兵衛といわせた。
この偽物の系図を幕府に提出することで難を逃れたのである。

そして真田性を名乗るのを止め、名を真田四郎兵衛から片倉沖之丞へと変えている。
後々には片倉守信と名乗るのだが、大八は片倉家にて大切に養育されたようだ。

仙台藩主が伊達忠宗に変わったときには、仙台藩士として列せられ、300石で永代召出の格となり、江戸御番組馬上役、そして公儀使となっていく。
1670年(寛文10年)6月片倉守信(真田大八)は静かに息を引き取った。
守信は守ってくれた片倉家、そして真田宗家に対して気を使い家紋は六連銭は使用していない。
結雁金を使用していたという。しかし墓碑には自らが真田幸村の子であるという自負なのか、一文銭が刻まれている。


それから3年後の1673年(延宝元年)松代藩主 真田幸道が仙台藩主 伊達綱村に招待を受けたとき、接待をしている者の中に自分と同じ結雁金の紋を身に着けた男を見かけた。
真田幸道が訊ねたところ、事の経緯を知ったのである。
そのときの者は紛れもなく、真田大八の子、片倉辰信であった。

それから39年後の1712年(正徳2年) 「既に将軍家を憚るに及ばざるの内命」があり、片倉辰信は食客禄1000石を伊達家に返上し、本姓である真田に復姓した。
仙台真田家が正式に認められた瞬間であった。
消えたはずの真田幸村の血脈が今ここに蘇ったのだ。

真田の意地得と御覧あれ!
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2008年08月24日

真田幸村の愛娘 阿梅

1615年大阪城も落城寸前のとき伊達政宗軍・片倉重長の陣の前に一人の少女がやってきた。
容姿端麗な娘は白綾の鉢巻をし、白柄の長刀を携え、手には書状を持っていた。

少女の名は 真田左衛門佐幸村の娘 阿梅
手にしていた書状は真田幸村から、片倉小十郎重長へ宛てたものだった。
「我れ東軍の陣容を見るに足下に及ぶものなし。我が運命も最早旦夕に迫れり。我に一女あり、願わくば足下に託して余命を得さしめんと」とという内容であった。

阿梅の後ろには一人の男子がついていた。
それは真田大八幸村の次男の姿であった。

重長は主君の伊達政宗に相談し、許可を得て大坂の陣終了後、自国の白石城へ二人を連れて帰っている。

なぜ幸村は重長に娘達を託したのだろうか。

片倉氏の初代・二代に関する話をまとめた『老翁聞書』にはこう書かれている。

「寄せ手の中で片倉の英名は聞こえていたが、この度の目を驚かすような働きを見て、片倉家の隆盛は間違いないとみて、幸村が見殺しにするのも忍びなく思い重長公の前に託した」と記されている。
実際に片倉重長は大阪夏の陣において、道明寺の戦いで後藤又兵衛、薄田隼人兼相などを討ち取っており、この
勇戦ぶりを幸村は見て、その姿に感服し子女を託そうと決めたらしい。

こうして片倉家に託された阿梅は白石城にて大切に育てらた。

大坂の陣のときには12歳だった阿梅も5年の歳月を得て17歳となっていた。
すでに立派な女子となった阿梅は重長の側室として迎えられることになる。
このとき重長にはすでに正室がいたが、11年後病にて亡くなると、阿梅は正室としての地位を得ることになる。

今さらながらだが幸村の先を読む眼力は凄い。
偶然だろうが阿梅は天下の伊達家の重臣・片倉家の正室の権限を得たのだ。

この阿梅の正室の権限を得たことにより、後々真田大八の仙台真田家へと繋がっていくのではないだろうか。
幸村が見込んだ男・片倉重長
敵軍にありながらも、その力量は賞賛したい。

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2008年05月07日

真田大助 真田の意地

今日5月7日は真田幸村公の命日である。

真田信仰者であれば、それは誰でもが思うところである。
ここで忘れてはいけないのは、幸村公だけでなく、息・真田大助幸昌公の命日でもあるということだ。

真田大助は1601年(慶長7年)幸村の配流先、紀州九度山で生まれている。
関ヶ原を知らない子である。
当然ながら、信州上田のことも知らずに育っていく大助。
九度山が大助にとっては故郷であり、生まれ育った故郷だった。

そんな自然の中で育っていた大助だが、13歳のとき大坂から父 幸村に依頼が届く。
豊家のために力をかして欲しい」と。

幸村は九度山での生活で終わることよりも、武人としてもう一度、死に華を咲かせることを選び大坂へ入城するのだ。
真田大助13歳。九度山で生きていくことも選択肢としてあっただろうが大助は父 幸村に付いて大坂城に入城する。

山の中で育って来た大助にとっては見るものが全て、別世界のものだったろう。
当然戦も知らずに育ってきていたので、大坂城下に満ち溢れる活気や、蠢く浪人集団に驚きたのではないだろうか。
若干13歳の少年である。

大坂に入城して1ヶ月あまりで戦いは始まる。大坂冬の陣である。
大助は真田丸に籠もり、わずか500の兵にて襲い掛かる前田勢や松平勢と弓矢を交えることになる。
こうして大助は初陣を飾る。
しかし冬の陣は大きな戦闘もなく和睦が成立束の間の平和が訪れる。

翌年大坂夏の陣が起こるべくして起こる。
5月6日道明寺の戦いにて、勇将後藤又兵衛を失った大坂方は最終決戦を覚悟する。
もはや援軍も臨むべくもなく、敗北は目の前である。
幸村・大助父子は最後の一手、徳川家康急襲を策すため7日の早朝、陣を天王寺 茶臼山に構える。

幸村・大助父子の目の前には雲霞の如き徳川16万の兵が展開している。
前日の軍議において豊臣秀頼の出陣を要請しておいたのだが、午前11時を過ぎても出馬の様子はない。
戦機は当に熟している。
幸村は大助呼びこう伝える。
「秀頼公のもとにいきご出馬を乞え!」

大助は「嫌でございます。何ゆえに私がそのような役目を・・・・」

「ご出馬がかなわぬなら、そのまま秀頼公の側に侍り、小姓となれ!そして真田の義を見せよ!」
幸村のこの言葉に大助は言葉を失います。
父とともに最後までいたい。父とともに戦いたい。そんな想いが溢れてきます。

「我が兄、信之が徳川方にいる。そして此度の戦にはその息 信吉が参じている。故に我らは見方から猜疑心を抱かれておる。お前が秀頼公の側にいることにより真田の義を、幸村の義を示してくれ!」

大助も頭では理解をしていても心はやはりまだ13歳の少年です。
「今日の戦で死を覚悟された父とはなれ、秀頼様に仕えるなど思いもよりませぬ。私は父上とともに戦い討死にいたしまする」

「大助、親子であれば冥途でまためぐり合える。今生の別れを惜しむものではない。さぁ急ぎ城へ行くのじゃ」

幸村・大助最後の会話でした。

城へ戻った大助は父の言われたように秀頼に出馬を乞います。
再三要請しますが秀頼は将机に腰をすえ動こうとはしません。そればかりか、もはや言葉も発することはしませんでした。
そんな中、午後2時過ぎ真田幸村公討死の報が届きます。
真田隊は家康本陣を蹂躙しながらもあと一歩のところで家康を取り逃がし、体勢を立て直した徳川軍に飲み込まれたという事でした。

大助はこの知らせを聞き自分の定めを認識し、父の貫いた真田の義を自らも示そうと覚悟を決めます。
徳川の猛攻は続き、火の手が上がり始めます。
硝煙と怨嗟の入り混じる中、大助は秀頼の下に向かう。
秀頼はすでに天守にはおらず、山里曲輪にいました。

大野治長が大助に声をかけます。
「貴殿は豊臣譜代の家臣ではない、秀頼公と生死を共にする必要はない。そうそうに落ちられるがよい」

大助は「父 幸村は豊家のために命をかけました。私はその幸村の子です。私も豊家のために命を惜しむものではありません」

この言葉を聞いた大野治長
「すまぬことをした。幸村殿をはじめ多くの方の諌めを聞いておれば・・・・すまなかった」

翌8日の朝、徳川の城内掃討軍が入ってくる。
13歳の少年にたった一度の戦場が落城であり、死でもあった。
大助の脳裏には何があったのだろう。
九度山での父母との思い出だったのだろうか。
山里曲輪の外は徳川兵で溢れているのだろう。

最後を悟った秀頼は最後は見事に自刃して果てた。
これを見取った大助は自らもこれに続き秀頼に殉じたのである。

真田大助幸昌 享年14歳。
見事真田の義を貫いた生き様であった。

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真田大助が新十勇士をともなって父幸村の無念を晴らす。
      
   

  

Posted by 左近将監 at 17:48Comments(0)TrackBack(0)真田家の人々

2008年03月24日

真田幸村の叔父 真田信綱

武田二十四将にその名を残す勇将、真田信綱

真田幸隆の嫡男として生まれて武田信玄に仕える。

武田家へ仕えているが初陣や出仕時期など前半生は資料が少なく不明である。
『甲陽軍鑑』によれば1561年(永禄4年)の第4次川中島の戦いでは父・幸隆と共に妻女山攻撃の別働隊に加わっていたという。


1563年(永禄6年)岩櫃城攻略くらいから真田信綱の名前は見られるようになる。
この頃には信玄は信綱を一人前の武将として扱うようになっており、信玄と共に方々に出陣していく。

1566年(永禄11年)武田信玄今川氏真を攻め、真田信綱は最前線にて活躍し、見事今川氏真を追放。
その後信玄の小田原攻めに従軍し、背後からの北条軍の攻撃に備える役目を果たしている。
撤退時の三増峠の戦いでは弟の真田昌輝内藤昌豊とともに殿軍を務めて戦功を挙げている。

三方原の戦いでも最前線で奮戦し武功を立てている。
徳川家康を打ち破りそのまま西上をしていた武田軍だが、信玄が陣中で病死してしまう。

信玄のあとを追うように真田幸隆も没すると信綱は正式に真田家を継ぐのだが、武田家を継いだ武田勝頼は信玄の遺言を無視し織田信長・徳川家康連合軍と長篠で対陣する。

真田信綱もこれに従軍した。
長篠城に立てこもる奥平定昌を攻めるが城は落ちずに、織田・徳川連合軍は設楽原に布陣。
信綱は山県昌景とともに撤退を主張するのだが、勝頼に聞き入れられず武田軍右翼を担うことになる。
信綱達の奮戦は凄まじく、織田対は次第に圧されていくが、武田軍も被害が甚大で戦闘継続が困難になった。
武田勝頼は撤退を命じると信綱はまたしても殿軍にて獅子奮迅の働きをするが、疲れも次第に大きくなり最後には弟・昌輝とともに討ち死にしてしまうのだ。

享年39歳であった。
真田信綱の首は家臣の白河兄弟が信綱の着用していた陣羽織に包み信綱寺に持ち帰っている。
このときの陣羽織は「血染めの陣羽織」として今もなお信綱寺に奉納されている。


        信綱寺


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2008年03月13日

真田の祖 真田幸隆の死

岩櫃城を落とした真田幸隆は上州の最大拠点 沼田城攻略を目指す。

幸隆はこの岩櫃城攻略に嫡子 真田信綱、次男 真田昌輝を従軍させている。

岩櫃から沼田に行くには途中の諸城を落としていかなくてはならない。
幸隆はまず、岩櫃の東北にある岳山城を攻略しようとするのだ。
岳山城には池田佐渡守斉藤義宗が立てこもり死守しており、さすがの幸隆をもってしてもなかなか攻め落とすことが出来なかった。

そこで幸隆は得意の調略を施す、池田佐渡守を内応させることに成功し、なんとか岳山城を落とすことが出来た。

岳山城が落ちたことにより沼田への道が開けた武田軍はさらに軍を推し進める。
上杉謙信も沼田を落とされたくはないので援軍を沼田に投入していく。

幸隆が次の目標は箕輪城である。
箕輪城はかつて長野業正が守っていた城であり、幸隆はかつてこの長野業正を頼りこの城に厄介になっていたことがある。
しかし、いまは息子の長野業成が跡を継いでおり、かつての勢いは無かった。

真田幸隆は箕輪城を包囲し数ヵ月後に落城をさせる。そんなころ中央では今川義元織田信長に破れ討死にした。
これにより武田信玄は駿河進攻を計画する。

しかし嫡子義信の妻は今川氏の娘であるため、義信はこれに反対したため義信を廃し、今川と断交する。

今川氏真は危機を感じ北条氏康に武田家の断断交を要し、塩留めなどの方策をする。
北条氏康も宿敵 上杉謙信と和睦し武田を包囲していくのだ。

たまったもんじゃないのは真田幸隆である。
両面が敵の状態になってしまった。
前面の上杉の背後の北条である。
真田幸隆は岩櫃城にて上杉・北条軍を相手に進攻を食い止めていた。

そうこうしていると、北条氏康が没すると、継いだ北条氏政は上杉との同盟を破棄、武田信玄と再度盟を結ぶ。
これによって背後の憂いが無くなった真田幸隆は上杉勢に積極的に攻撃を仕掛ける。

まず幸隆はまたしても調略により白井城を落城させる。
ちょうどそのころ武田信玄は大軍をもって京都を目指して南下していく、三方が原で徳川家康を破り、さらに南下していく、しかし信玄は病に侵されており仕方なく甲斐に戻ることを決意するが、その途中で没することになる。

同じ頃、真田幸隆も上州の地で病に伏せていた。
信玄の跡を継いだ武田勝頼は医師を派遣して幸隆の病状を見舞うがその甲斐も無く幸隆はこの世をさる。

この時期の武田の象徴である信玄とその頭脳を同時に失ったことは後々の武田滅亡に繋がっていくのであろう。

真田の祖真田幸隆 天正2年 5月19日 享年62歳であった。

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2008年03月12日

川中島の戦い 真田幸隆出陣

真田幸隆が戸石城を落とすことにより、勢いを失っていった村上義清。

真田幸隆はこの好機を逃がす事無く、村上義清征伐の計略を進めるのだ。
この幸隆の計略の効果もあり、武田晴信は1553年(天文22年)葛尾城を落城させ、村上義清を追い出す。村上は越後の長尾景虎を頼り逃げていくのである。


村上からの助けを求められた長尾景虎は早速、信濃に兵を繰り出す。

武田、長尾両軍は川中島にて激突することになる。第1次川中島の戦い である。

当然ながら真田幸隆も出陣している。

真田はその後も越後勢の最前線である真田本城を本拠地とし、戸石城番を兼ねるのだ。

1555年善光寺の栗田鶴寿が武田方に寝返り、善光寺平の大半が武田氏の勢力下になったことにより、長尾景虎は善光寺奪回のため出陣。第2次川中島の戦い である。

200日余におよぶ長期にわたり対陣であったが決着はつかず、駿河の今川義元の仲介で和睦両軍ともに兵を収めている。

しかし、1557年(弘治3年)武田は和睦を破るのだ。第3次川中島の戦い である。
武田晴信真田幸隆に雨飾城を攻略させ、その後も小山田昌辰とともに城番を務めている。
結局大きな戦い等もなく両軍ともに兵を引き上げていくのである。

このあと川中島一帯をほぼ手中にした武田は海津城を築く。

そしてこの海津城を中心に1561年 第4次川中島の戦い が繰り広げられる。

両軍の睨み合いが続き膠着状態になりつつあったとき、山本勘介が兵を二手に分ける、大規模な別働隊の編成を献策した。
この別働隊に妻女山の上杉軍を攻撃させ、上杉軍が勝っても負けても山を下るから、これを平野部に布陣した本隊が待ち伏せし、別働隊と挟撃して殲滅する作戦である。
世に言う「啄木鳥戦法」である。

真田幸隆はその別働隊のほうで活躍するのだ。

しかし、海津城の雰囲気を微妙に察知した上杉謙信は妻女山を下り、信玄の目の前に陣を敷く。

朝靄の中、気がつくと武田軍の目の前に上杉軍が迫っていた。
準備が出来ていない武田と、準備万端の上杉では戦にならず、武田方は武田信繁山本勘介などが討死にしていく。

一方、真田幸隆を初めとする別働隊は妻女山に行ってみて驚く。そこには誰も居ないのだ。
そうこうしていると川中島のほうで喊声が聞こえる。
幸隆は急いで妻女山を下り、千曲川を越え上杉軍の背後から攻めかかるのだ。

挟み撃ちにされては上杉軍もたまらない。上杉謙信はそのまま兵を善光寺まで推し進め合戦は終了する。
結果的には武田は多くの将を失ったが、川中島一帯はほぼ武田の勢力圏になった。

信玄は幸隆を今度はかつての逃亡先の上州調略に送り込む。
1563年幸隆にとっては苦しい戦いがおこる。
岩櫃城主 斉藤憲広が上杉方に寝返ったため、真田幸隆は岩櫃城攻略の総大将に任じられ岩櫃城を攻略する。
このいわ櫃城には妻の実父、羽尾幸全も籠もっており、幸隆はかつて庇護してくれた恩人おも殺害せねばならなくなった。

ここでも幸隆は得意の調略で内応者を作り、城を内部から破壊し岩櫃城を陥落させた。

翌1564年 五度武田、上杉両軍は川中島で激突する。第5次川中島の戦い である。
結局この戦いも大きな戦はなく、2ヶ月間の対陣ののち両軍ともに兵を引き上げていく。
以後、信玄は東海道や美濃、上野方面に向かって勢力を拡大し、謙信は関東出兵に力を注ぎ、川中島で大きな戦いが行われることはなかった。

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2008年03月11日

真田幸村の祖父 真田幸隆

天下に名高い 真田幸村

当然ながら幸村にもご先祖様はいるわけで、その幸村のルーツ?

幸村に関わる人を紹介。

まずは真田の祖。真田幸隆

真田氏は滋野三家の中でも本家筋といわれる海野氏の直系であると称している。

この滋野三家とはなにか?
東信濃に平安末期くらいから名が見られる 海野、望月、祢津の三家である。
いずれも滋野氏を祖と称しており、信濃の名族ということになる。

滋野氏とは?
清和天皇の曾孫 善淵王が「滋野朝臣」を賜ったことから始まるらしいが、これはあまり信用できるものではない。

平安時代に滋野は信濃の介や守を務めていたらしく、その関係で信濃の諸族との絆もできるようになったために海野、望月、祢津は滋野氏を祖と称するようになったと言われている。
真田はこの海野氏の支流である。

信州の小豪族海野氏から室町末期に出た海野信濃守棟綱の子が信州真田に住み真田氏を称するようになった。これが真田幸隆である。

ただ、真田幸隆に関しても、海野棟綱の子であるとする説と、娘婿であるとする説などがあり様々である。

1541年(天文10年)甲斐の武田信虎村上義清、諏訪頼重らとともに滋野諸氏を攻める。
海野、望月、祢津は激しく抵抗するが次第に押されていき、望月、祢津は降伏し、海野棟綱真田幸隆は上州の関東管領 上杉憲政を頼り逃げていくのだ。
本来は武田信虎が進攻してきた際に援軍を求めていたのだが、当時の上杉憲政には、すでにそんな力はなかったのだ。

幸隆が逃げた先は上州吾妻郡羽尾。ここは幸隆の妻の父 羽尾幸全の領地であった。
ここで再起を図り、しばらく密かに暮らすことになる。

翌1542年(天文11年)大事件が起こる。
武田信虎が息子の武田晴信によって追放されるのだ。

真田幸隆はこれに目を付けていた。
前年の一族の四散により、幸隆は一族の居場所の確認、連絡等などの手段で甲斐、信濃の情勢を事細かに知っていたのかもしれない。
おそらくこのときには武田晴信の風評も幸隆の耳に入っていたのではないだろうか。

幸隆は父 海野棟綱に進言する。
「武田晴信に臣従し旧領を回復すべし」

しかし、父 海野棟綱がこれを許すべくもない。
「仇敵 武田と手を組むなど有り得ん、関東管領 上杉憲政様のお力を借りればよい」

時代が見えない父と情報をかき集めた幸隆の意見が違えた瞬間だった。

それ以後、海野棟綱の姿は歴史から名を消す。

ひょっとすると・・・・・抹殺されたのか?

父を追い出し、甲斐を掌握した武田晴信は、妹婿の諏訪頼重を滅ぼし、信州へ進攻していた。
晴信は信州進攻のための力として、浪人中の真田幸隆を招聘するのだ。
小豪族蠢く信州で、滋野海野氏の嫡流である真田の力があれば、小豪族を容易く取り込むことが出来ると思ったのだろう。

真田幸隆はこうして武田晴信に仕えることになる。

幸隆は晴信から東信濃の諸族を懐柔させることを任される。
同族ひしめく東信濃である、幸隆にとっては造作もない仕事だったのだろう。
見事な手腕で取り込んで行く。

こうして晴信の元、真田幸隆は力をつけていく。
1550年(天文19年)武田晴信村上義清が守る戸石城を攻めていた。
戸石は先の武田信虎の進攻の際、奪い取られた地元であり、幸隆にとっても旧領回復のための戦であった。
おそらく戸石攻めを武田晴信に提案したのは幸隆ではなかったのだろうか。
現に幸隆は善光寺南部の清野氏などを誘いの手を伸ばし、これを組入れている。

しかし結果は晴信の敗戦におわる。
村上義清が全軍あげて戸石城の援軍に来たためである。

この戦いは「戸石崩れ」といい信玄公の数少ない敗戦の一つである。
半年後、幸隆は不意に戸石城を乗っ取るのである。
おそらく自慢の調略で城内部から瓦解させたのだろう。こうして犠牲もなく戸石を奪還し旧真田領は回復することが出来のだ。

こうして真田幸隆は戸石を自城とし、嫡男 信綱、次男 昌輝、三男 昌幸 四男 信尹と男子にも恵まれ真田家安泰の道を歩き始めたのである。

村上軍来襲、援軍求む!
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