2008年07月19日
竹中半兵衛 菁莪記念館
戦国時代の武将で、豊臣秀吉の軍師として名高い竹中半兵衛。
竹中家の拠点の不破郡垂井町内には、一族ゆかりの場所が現在も数多く残っており、繁栄をしのぶことができる。
半兵衛は体が弱く、華奢な外見とは裏腹に、斎藤龍興、浅井長政、豊臣秀吉に仕えて手腕を発揮。
数々の逸話の残る天才軍師である。
岩手にある竹中氏陣屋跡には、半兵衛の子重門が建てた石垣と白壁の重厚な門が今も健在。
門の前には、竹中半兵衛の銅像がある。
近くの禅幢寺には、36歳の若さで現在の兵庫県三木市で戦中に病死した半兵衛を弔って重門が建てた墓と、重門の子の重常が1663(寛文3)年に建立した本堂が現存している。

陣屋跡の西、標高402メートルの菩提山の山頂に、半兵衛と父親の重元が建てた菩提山城跡がある。
城跡には竪堀や堀切と思われる跡が残されており、大規模な城だったと推測できる。
城跡に向かう道は「菩提山城跡ハイキングコース」として整備されており、全長2・7キロの細い山道沿いには四季の草花が咲き誇る。
竹中氏の品を探るなら陣屋跡の菁莪(せいが)記念館がお勧め。江戸の天保年間に旗本竹中氏が建てた道場で、明治以降も学校として使われていた。現在は資料室を設けて約100点の竹中氏ゆかりの品を公開。菩提山城や陣屋の復元予想模型や当時の資料、甲冑(かっちゅう)のレプリカなどがあり、ファンにはたまらない。
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竹中家の拠点の不破郡垂井町内には、一族ゆかりの場所が現在も数多く残っており、繁栄をしのぶことができる。
半兵衛は体が弱く、華奢な外見とは裏腹に、斎藤龍興、浅井長政、豊臣秀吉に仕えて手腕を発揮。
数々の逸話の残る天才軍師である。
岩手にある竹中氏陣屋跡には、半兵衛の子重門が建てた石垣と白壁の重厚な門が今も健在。
門の前には、竹中半兵衛の銅像がある。
近くの禅幢寺には、36歳の若さで現在の兵庫県三木市で戦中に病死した半兵衛を弔って重門が建てた墓と、重門の子の重常が1663(寛文3)年に建立した本堂が現存している。

陣屋跡の西、標高402メートルの菩提山の山頂に、半兵衛と父親の重元が建てた菩提山城跡がある。
城跡には竪堀や堀切と思われる跡が残されており、大規模な城だったと推測できる。
城跡に向かう道は「菩提山城跡ハイキングコース」として整備されており、全長2・7キロの細い山道沿いには四季の草花が咲き誇る。
竹中氏の品を探るなら陣屋跡の菁莪(せいが)記念館がお勧め。江戸の天保年間に旗本竹中氏が建てた道場で、明治以降も学校として使われていた。現在は資料室を設けて約100点の竹中氏ゆかりの品を公開。菩提山城や陣屋の復元予想模型や当時の資料、甲冑(かっちゅう)のレプリカなどがあり、ファンにはたまらない。
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タグ :竹中半兵衛
2008年04月26日
竹中半兵衛の諫言
1564年(永禄7年)竹中半兵衛は手勢わずか16人で稲葉山城を乗っ取る。
そして主君の斉藤龍興を城外へ追いやり1年間稲葉山城を占拠するのである。
これは伝説ではなく、史実に基づいた紛れもない史実である。

父の死によって家督を継いだ半兵衛であったが、斉藤家中にあっては半人前の扱いであったといわれる。
これには半兵衛の容姿や素養にも原因があったのだろう。
半兵衛の体は華奢で色白だったようで、そこに軍略好きの素養が絡んで斉藤家中では浮いた存在だった。
そんな半兵衛はイジメの標的になり、龍興の寵臣・斉藤飛騨守に小便を浴びせかけられた事もあった。
度が過ぎた悪ふざけにあった半兵衛は決意する。
稲葉山城には半兵衛の弟の久作が質として入っており、その久作が急病にかかったと偽り半兵衛は6人の家臣を城内に送り込む。
その後、半兵衛自身も10人の家臣を従え見舞いと称して登城する。
家臣たちの長持ちの中には見舞いの品々ではなく、武具が隠されていた。
夜陰になるのを待ち、半兵衛たちは行動を始める。
まず、番士の頭だった飛騨守を一刀両断で斬り捨てると、僅か16人で主殿を制圧。
城外には岳父の安藤守就が2000の兵で押寄せてきていた。
龍興は不意をつかれ半兵衛の言うままに城外に退出して稲葉山城の乗っ取りは成功した。
そこで半兵衛は主君 斉藤龍興に諌める。
国政をもっとしっかりとすること、家臣の言うことに耳を傾けることなどである。
そうこうしていると、斉藤道三亡き後、美濃の国を欲しくてたまらない織田信長が使者を送ってきた。
内容は稲葉山城を譲ること、条件は美濃半国を半兵衛にくれると言う破格のものだった。
しかし半兵衛はこれを拒否。
龍興に城を返し、自らは隠居してしまうのだ。
このことにより、半兵衛の株は益々上がる。主君のために自らの命をかけて諫言を説いた忠臣としてだ。
隠居した半兵衛はしばらく世の中から放れることになるのだが、半兵衛の評判は上がっていき信長は是非とも半兵衛を自陣へ迎えたいという思いになっていった。
竹中半兵衛が再び世に出るとき、時代は半兵衛の生きる場所を与えるが如く戦に明け暮れる日々が待っていた。
稲葉山城攻略、我の武しかと見よ!
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そして主君の斉藤龍興を城外へ追いやり1年間稲葉山城を占拠するのである。
これは伝説ではなく、史実に基づいた紛れもない史実である。

父の死によって家督を継いだ半兵衛であったが、斉藤家中にあっては半人前の扱いであったといわれる。
これには半兵衛の容姿や素養にも原因があったのだろう。
半兵衛の体は華奢で色白だったようで、そこに軍略好きの素養が絡んで斉藤家中では浮いた存在だった。
そんな半兵衛はイジメの標的になり、龍興の寵臣・斉藤飛騨守に小便を浴びせかけられた事もあった。
度が過ぎた悪ふざけにあった半兵衛は決意する。
稲葉山城には半兵衛の弟の久作が質として入っており、その久作が急病にかかったと偽り半兵衛は6人の家臣を城内に送り込む。
その後、半兵衛自身も10人の家臣を従え見舞いと称して登城する。
家臣たちの長持ちの中には見舞いの品々ではなく、武具が隠されていた。
夜陰になるのを待ち、半兵衛たちは行動を始める。
まず、番士の頭だった飛騨守を一刀両断で斬り捨てると、僅か16人で主殿を制圧。
城外には岳父の安藤守就が2000の兵で押寄せてきていた。
龍興は不意をつかれ半兵衛の言うままに城外に退出して稲葉山城の乗っ取りは成功した。
そこで半兵衛は主君 斉藤龍興に諌める。
国政をもっとしっかりとすること、家臣の言うことに耳を傾けることなどである。
そうこうしていると、斉藤道三亡き後、美濃の国を欲しくてたまらない織田信長が使者を送ってきた。
内容は稲葉山城を譲ること、条件は美濃半国を半兵衛にくれると言う破格のものだった。
しかし半兵衛はこれを拒否。
龍興に城を返し、自らは隠居してしまうのだ。
このことにより、半兵衛の株は益々上がる。主君のために自らの命をかけて諫言を説いた忠臣としてだ。
隠居した半兵衛はしばらく世の中から放れることになるのだが、半兵衛の評判は上がっていき信長は是非とも半兵衛を自陣へ迎えたいという思いになっていった。
竹中半兵衛が再び世に出るとき、時代は半兵衛の生きる場所を与えるが如く戦に明け暮れる日々が待っていた。
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2008年01月31日
三顧の礼 竹中半兵衛 仁の心
昨日の竹中半兵衛の続きです。
木下籐吉郎が竹中半兵衛を迎えるにあたり、何度も足繁く通いようやく納得してもらえたことは書きましたね。

軍師竹中半兵衛
この話は 中国のあの有名な『三国志演義』になぞらえたもので、秀吉を劉備、蜂須賀小六を関羽、前野長康が張飛、そして竹中半兵衛を諸葛亮孔明になぞらえています。
「三顧の礼」云々は、おそらく潤色されたものなのでしょう。
半兵衛を孔明の再来とする書は竹中重門が記した『豊鑑』が最初だといわれています。
竹中重門とは、そう、半兵衛の息子です。
ですからあながち信用することは出来ませんが、すべてを否定するわけにも行きません。
稲葉山城をのっとり、その後あっさりと主君・斉藤龍興に城を返す様や、再三の織田の攻撃を撃破している半兵衛の功績から、秀吉が喉から手が出るほど欲していた人物だったのでしょう。
秀吉に仕えてからの半兵衛の生き方は正に孔明のようで
秀吉が黒田官兵衛に知行加増の約束をして、奉書を与えました。
しかし、秀吉はなかなか実行してくれません。黒田官兵衛は秀吉に詰め寄ります。
「いったいいつになれば加増いただけるのですか」と。
元々、黒田官兵衛の才能を見抜いていた秀吉はさの才能を恐れても居ました。
黒田官兵衛に才能と実力が備われば恐ろしいことになる。そんな不安があり、警戒もしていたのです。
半兵衛は秀吉のそんな心を見抜いており、官兵衛に対しこう言いました。
「こんな奉書があるからいけないのです。こんなものはあなたの為にはならないから棄ててしまいなさい。このような物をアテにしていてはいけません」と奉書を目の前で破って棄ててしまいます。
これにより秀吉、官兵衛の間を取り持ち、官兵衛に諭しをいれたのです。
孔明っぽいですよね。
官兵衛とちがい野心のない半兵衛。
その潔癖さが諸葛亮孔明と称される所以でもあるのでしょう。
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『軍師 Tシャツ』(メンズ・L)

木下籐吉郎が竹中半兵衛を迎えるにあたり、何度も足繁く通いようやく納得してもらえたことは書きましたね。

軍師竹中半兵衛
この話は 中国のあの有名な『三国志演義』になぞらえたもので、秀吉を劉備、蜂須賀小六を関羽、前野長康が張飛、そして竹中半兵衛を諸葛亮孔明になぞらえています。
「三顧の礼」云々は、おそらく潤色されたものなのでしょう。
半兵衛を孔明の再来とする書は竹中重門が記した『豊鑑』が最初だといわれています。
竹中重門とは、そう、半兵衛の息子です。
ですからあながち信用することは出来ませんが、すべてを否定するわけにも行きません。
稲葉山城をのっとり、その後あっさりと主君・斉藤龍興に城を返す様や、再三の織田の攻撃を撃破している半兵衛の功績から、秀吉が喉から手が出るほど欲していた人物だったのでしょう。
秀吉に仕えてからの半兵衛の生き方は正に孔明のようで
秀吉が黒田官兵衛に知行加増の約束をして、奉書を与えました。
しかし、秀吉はなかなか実行してくれません。黒田官兵衛は秀吉に詰め寄ります。
「いったいいつになれば加増いただけるのですか」と。
元々、黒田官兵衛の才能を見抜いていた秀吉はさの才能を恐れても居ました。
黒田官兵衛に才能と実力が備われば恐ろしいことになる。そんな不安があり、警戒もしていたのです。
半兵衛は秀吉のそんな心を見抜いており、官兵衛に対しこう言いました。
「こんな奉書があるからいけないのです。こんなものはあなたの為にはならないから棄ててしまいなさい。このような物をアテにしていてはいけません」と奉書を目の前で破って棄ててしまいます。
これにより秀吉、官兵衛の間を取り持ち、官兵衛に諭しをいれたのです。
孔明っぽいですよね。

官兵衛とちがい野心のない半兵衛。
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2008年01月30日
日本の諸葛亮孔明 竹中半兵衛
美濃の国が誇る名軍師、竹中半兵衛重治

半兵衛の居城・菩提山城にちょっと寄ってみた。
大垣の隣町・垂井の人で、今歴史好きな人間で竹中半兵衛を知らない人はいないくらい有名になりましたね。
竹中半兵衛は最初、美濃の斎藤龍龍に仕えるが、仕えてわずか1年で義龍が死去。
跡を継いだ斉藤龍興だったが、龍興は酒色に溺れて政務を顧みようとせず、一部の側近だけを寵愛して半兵衛や美濃三人衆を政務から遠ざけるなどであった。
半兵衛は、主君を諌めるために、たったの17人で稲葉山城を乗っ取るという神業をやってのける。
当時美濃への侵攻をしていた織田信長が何度攻めてもなかなか落ちなかった稲葉山城をたった一夜でものにしてしまったのだ。
織田信長は、美濃半国と引き換えに稲葉山城を明け渡すように半兵衛にせまるが、半兵衛はこれを拒否し、斉藤龍興に城を返し、自分は菩提山城に引きこもり隠居してしまうのだ。
潔いですなぁ~~ この潔さはまさに男ですよ。
その後、一時は北近江の浅井長政の客分として仕えるものの、羽柴秀吉の執拗な勧誘に折れ、その与力となるのだ。
このとき、半兵衛は織田信長の気性の荒さや、家臣を省みない性質を見抜いていた為織田家家臣になることを断固拒否したという。
そこで秀吉は半兵衛に自分の家臣となってもらうことを了承してもらうよう説得をするのだ。
半兵衛も秀吉の才能を見抜いていたのか、定かではないが秀吉の家臣になることを了承する。
浅井長政の攻略時にはかつて浅井家の客分だった頃の人脈を生かし、調略により浅井方武将たちを寝返らせている。
秀吉の中国遠征に同行し、宇喜多氏の備前八幡山城を調略などの活躍をあげる。
しかし、信長に対して謀反を起こした荒木村重に対して、秀吉幕僚であり、半兵衛の心友の黒田官兵衛が有岡城へ赴き帰服を呼びかけるが、捕縛され投獄されたのを、信長は孝高が裏切ったと思い、官兵衛の嫡男・松寿丸(黒田長政)の殺害を秀吉に命じるのだ。

しかし半兵衛は秀吉に偽の松寿丸の首を進呈させ、松寿丸を自らの菩提山城にて匿い命を助けたのである。
その後、救出された官兵衛の姿を見た秀吉は青ざめ、己がしたことを後悔した。しかし実際は半兵衛が松寿丸を匿っており秀吉はこのことを非常に感謝した。
また秀吉だけでなく当事者の官兵衛も、半兵衛の器量、心眼に感服し感謝をし、竹中家の家紋を貰い受けている。
天正7年(1579年)4月、播磨三木城の包囲中に病に倒れた半兵衛は、秀吉から京都で療養する暇を貰い受けるが、自らの死期を悟った半兵衛は「陣中で死ぬこそ武士の本望」とし6月13日望み通り平山の陣中で没した。享年36である。
竹中半兵衛の戦の仕方は 最小限の犠牲で最大限の効果をだす!が基本のようで、調略などを駆使し、流す血はなるべく少なくしていたように見える。
後年、黒田官兵衛と共に「両兵衛」・「二兵衛」と称され、中国の漢王朝創設に活躍した陳平に例えられている。信長の軍勢を寡勢で何度も破ったことから、軍略の天才として、「今楠木」と称された。『武功夜話』によると、「その才温雅にして慈眼あり学才あって軍書に詳しい」とあり、戦場では常に「泰然自若の構え」で敵と対したと記されている。
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半兵衛の居城・菩提山城にちょっと寄ってみた。
大垣の隣町・垂井の人で、今歴史好きな人間で竹中半兵衛を知らない人はいないくらい有名になりましたね。
竹中半兵衛は最初、美濃の斎藤龍龍に仕えるが、仕えてわずか1年で義龍が死去。
跡を継いだ斉藤龍興だったが、龍興は酒色に溺れて政務を顧みようとせず、一部の側近だけを寵愛して半兵衛や美濃三人衆を政務から遠ざけるなどであった。
半兵衛は、主君を諌めるために、たったの17人で稲葉山城を乗っ取るという神業をやってのける。
当時美濃への侵攻をしていた織田信長が何度攻めてもなかなか落ちなかった稲葉山城をたった一夜でものにしてしまったのだ。
織田信長は、美濃半国と引き換えに稲葉山城を明け渡すように半兵衛にせまるが、半兵衛はこれを拒否し、斉藤龍興に城を返し、自分は菩提山城に引きこもり隠居してしまうのだ。
潔いですなぁ~~ この潔さはまさに男ですよ。

その後、一時は北近江の浅井長政の客分として仕えるものの、羽柴秀吉の執拗な勧誘に折れ、その与力となるのだ。
このとき、半兵衛は織田信長の気性の荒さや、家臣を省みない性質を見抜いていた為織田家家臣になることを断固拒否したという。
そこで秀吉は半兵衛に自分の家臣となってもらうことを了承してもらうよう説得をするのだ。
半兵衛も秀吉の才能を見抜いていたのか、定かではないが秀吉の家臣になることを了承する。
浅井長政の攻略時にはかつて浅井家の客分だった頃の人脈を生かし、調略により浅井方武将たちを寝返らせている。
秀吉の中国遠征に同行し、宇喜多氏の備前八幡山城を調略などの活躍をあげる。
しかし、信長に対して謀反を起こした荒木村重に対して、秀吉幕僚であり、半兵衛の心友の黒田官兵衛が有岡城へ赴き帰服を呼びかけるが、捕縛され投獄されたのを、信長は孝高が裏切ったと思い、官兵衛の嫡男・松寿丸(黒田長政)の殺害を秀吉に命じるのだ。

しかし半兵衛は秀吉に偽の松寿丸の首を進呈させ、松寿丸を自らの菩提山城にて匿い命を助けたのである。
その後、救出された官兵衛の姿を見た秀吉は青ざめ、己がしたことを後悔した。しかし実際は半兵衛が松寿丸を匿っており秀吉はこのことを非常に感謝した。
また秀吉だけでなく当事者の官兵衛も、半兵衛の器量、心眼に感服し感謝をし、竹中家の家紋を貰い受けている。
天正7年(1579年)4月、播磨三木城の包囲中に病に倒れた半兵衛は、秀吉から京都で療養する暇を貰い受けるが、自らの死期を悟った半兵衛は「陣中で死ぬこそ武士の本望」とし6月13日望み通り平山の陣中で没した。享年36である。
竹中半兵衛の戦の仕方は 最小限の犠牲で最大限の効果をだす!が基本のようで、調略などを駆使し、流す血はなるべく少なくしていたように見える。
後年、黒田官兵衛と共に「両兵衛」・「二兵衛」と称され、中国の漢王朝創設に活躍した陳平に例えられている。信長の軍勢を寡勢で何度も破ったことから、軍略の天才として、「今楠木」と称された。『武功夜話』によると、「その才温雅にして慈眼あり学才あって軍書に詳しい」とあり、戦場では常に「泰然自若の構え」で敵と対したと記されている。
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