2008年08月03日
真田昌幸 記事一覧
真田昌幸---記事一覧

● 『幸運の持ち主』
● 『表裏比興の雄』
● 『第一次上田合戦 真田昌幸の計略』
● 『犬伏しの別れ 真田昌幸の決断』
● 『第二次上田合戦 真田昌幸の気概』
● 『最後の策』
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タグ :真田昌幸
2008年04月20日
真田昌幸 最後の策
真田信幸の助命嘆願により命を助けられた真田昌幸と幸村親子。
高野山は九度山に幽閉となる。
昌幸と幸村は家臣16名と妻子をともない九度山へ向かった。
まず、高野山蓮華定院に寄り、それから麓の九度山に落ち着いた。
時に昌幸54歳、幸村34歳のこと。
九度山での生活は罪人の閉居生活とはいえ自由なものであった。山狩りや、川狩りを楽しむことも出来た。
しかし、昌幸以下の大世帯が生活するのは資金的にはかなり苦しいものだったようである。
九度山に移った昌幸達に生活資金を生み出す力はない。
生活費は国許の仕送りに頼らざるを得ない、それと蓮華定院からの僅かばかりの年貢と、和歌山城主・浅野長晟から毎年50石を送られていたに過ぎない。
昌幸達はたびたび国許に金子を無心している。
このような状態だった為、とても挙兵に備えて武器弾薬を揃えること等、不可能であろう。
国許の上田からは小松殿や旧臣たちから鮭・白布・扇子など金品も多く届けられ書状も頻繁にやり取りされていた。
そんな苦しい状況の中、昌幸は下山の夢を見ていた。
1603年(慶長8年)昌幸は信綱寺の住職に手紙で「内府様は当夏中に関東へ下向されるそうですが、私のことを本多佐渡守が御披露くださるでしょう。下山したらお目にかかりましょう」等といった内容のこと言っている。
配流してわずか2年ばかりの話である。

昌幸の想いとは裏腹に歳月ばかりが過ぎていく。
配流期間が長くなると昌幸は次第に気力も体力も弱くなってきており、慶長15年くらいの手紙には昨年から病に伏せがちで今年も容態はよろしくないとか、娘婿の小山田家の小宰相なる女性に病のために食事もできないなど語っている。
昌幸は親として子に懇願することの抵抗もあったのだろう信之宛の手紙はない。
だがたった1通だけ昌幸が信之に宛てた手紙がある。
それは幸村の代筆で
そちらの様子を長らく承らないので、青木半左衛門を使者として下します。
おかわりないか承りたい。こちらは変わったこともないから御安心ください。しかし、この一両年は年をしたため、気根がくたびれました。
万事、こちらの様子お察しください。
追伸
珍しくもありませんが、派璃の盆一つ、同じく灯盞二つ進上いたします。書状のついでです。
次に左衛門佐が慮外ながら言伝申し入れます。
先書に申し上げましたように、ここもと長々の御山居、よろず、御不自由、御推量ください。
我等手前などはなおさら大くたびれ者になりました。御想像以上です。
幸村ならではこその気兼ねない兄への文面なのだろう。
こうして昌幸は九度山にて困窮する生活の中、迫りくる老病のなかで赦免という一縷の望みだけを頼りに生きていた。
そこには豊臣秀吉をして「表裏比興の者」といわしめた姿はなかった。
1611年(慶長16年)6月4日、真田昌幸は九度山にて死去する。享年65歳であった。
昌幸は死に臨んで幸村に「あと3年命が延びぬのが残念だ。3年のうちに必ず事が起きる。其のときは真っ先に馳せ参じ、必ず徳川を滅ぼしてみせようものを」と語っていた。
そして真田昌幸の予言とおり昌幸の死後、3年後、江戸と大坂は手切れとなるのだ。
真田幸村最後の華が咲く大坂の陣が吹き荒れる。
幸村は臨終の再、父 昌幸が語った最後の策を提案するのである。
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高野山は九度山に幽閉となる。
昌幸と幸村は家臣16名と妻子をともない九度山へ向かった。
まず、高野山蓮華定院に寄り、それから麓の九度山に落ち着いた。
時に昌幸54歳、幸村34歳のこと。
九度山での生活は罪人の閉居生活とはいえ自由なものであった。山狩りや、川狩りを楽しむことも出来た。
しかし、昌幸以下の大世帯が生活するのは資金的にはかなり苦しいものだったようである。
九度山に移った昌幸達に生活資金を生み出す力はない。
生活費は国許の仕送りに頼らざるを得ない、それと蓮華定院からの僅かばかりの年貢と、和歌山城主・浅野長晟から毎年50石を送られていたに過ぎない。
昌幸達はたびたび国許に金子を無心している。
このような状態だった為、とても挙兵に備えて武器弾薬を揃えること等、不可能であろう。
国許の上田からは小松殿や旧臣たちから鮭・白布・扇子など金品も多く届けられ書状も頻繁にやり取りされていた。
そんな苦しい状況の中、昌幸は下山の夢を見ていた。
1603年(慶長8年)昌幸は信綱寺の住職に手紙で「内府様は当夏中に関東へ下向されるそうですが、私のことを本多佐渡守が御披露くださるでしょう。下山したらお目にかかりましょう」等といった内容のこと言っている。
配流してわずか2年ばかりの話である。

昌幸の想いとは裏腹に歳月ばかりが過ぎていく。
配流期間が長くなると昌幸は次第に気力も体力も弱くなってきており、慶長15年くらいの手紙には昨年から病に伏せがちで今年も容態はよろしくないとか、娘婿の小山田家の小宰相なる女性に病のために食事もできないなど語っている。
昌幸は親として子に懇願することの抵抗もあったのだろう信之宛の手紙はない。
だがたった1通だけ昌幸が信之に宛てた手紙がある。
それは幸村の代筆で
そちらの様子を長らく承らないので、青木半左衛門を使者として下します。
おかわりないか承りたい。こちらは変わったこともないから御安心ください。しかし、この一両年は年をしたため、気根がくたびれました。
万事、こちらの様子お察しください。
追伸
珍しくもありませんが、派璃の盆一つ、同じく灯盞二つ進上いたします。書状のついでです。
次に左衛門佐が慮外ながら言伝申し入れます。
先書に申し上げましたように、ここもと長々の御山居、よろず、御不自由、御推量ください。
我等手前などはなおさら大くたびれ者になりました。御想像以上です。
幸村ならではこその気兼ねない兄への文面なのだろう。
こうして昌幸は九度山にて困窮する生活の中、迫りくる老病のなかで赦免という一縷の望みだけを頼りに生きていた。
そこには豊臣秀吉をして「表裏比興の者」といわしめた姿はなかった。
1611年(慶長16年)6月4日、真田昌幸は九度山にて死去する。享年65歳であった。
昌幸は死に臨んで幸村に「あと3年命が延びぬのが残念だ。3年のうちに必ず事が起きる。其のときは真っ先に馳せ参じ、必ず徳川を滅ぼしてみせようものを」と語っていた。
そして真田昌幸の予言とおり昌幸の死後、3年後、江戸と大坂は手切れとなるのだ。
真田幸村最後の華が咲く大坂の陣が吹き荒れる。
幸村は臨終の再、父 昌幸が語った最後の策を提案するのである。
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2008年04月19日
第二次上田合戦 真田昌幸の気概
上田城に戻った真田昌幸・幸村親子は早速防戦準備をする。
その間も石田三成ら西軍諸将から伝令が続々と到着する。
東軍は上杉征伐を行わず、小山にて取って返して東海道を西へ向かった。
また江戸からは将軍徳川秀忠の軍が中山道を西に向かう。

中山道を進む秀忠は、途中にある真田領を無視することはできず、中山道を外れて上田城に押寄せてくるのである。
上田城を攻める秀忠軍は総勢3万8千の大軍である。
前回の上田城攻防では7千だったが、今回は5倍の軍勢だ。対する真田は3千から5千。
秀忠はまず真田信幸を呼び、上田城に赴き降伏を呼びかけるように伝えた。
信幸は父・昌幸の元に行き降伏を説いた。昌幸は意外にもあっさり降伏を承諾するのだが、それは昌幸の戦略だった。
信幸はそんなことは分かっていたが、一応秀忠に昌幸の降伏を報告した。
秀忠は昌幸の言うことを信用し、9月3日使者を送り交渉させたが、結局講和は不調に終わる。
9月5日秀忠は攻撃を開始する。
まずは上田城の北にある戸石城を奪い取る。戸石城は昌幸がわざと守備兵を手薄にしておいたので秀忠軍は難なく戸石城に入ることが出来た。
秀忠は戸石城の守兵に真田信幸をおく。昌幸の計がこのことを読んでいたかどうかは分からないが、これにより真田は同門同士で戦うことを免れた。
9月6日、秀忠は上田城外に陣を構える。
そして兵たちに城外の稲を刈り取らせた。上田城兵はこれを妨害しようと城から打って出てきた。
徳川勢はその城兵を討とうと我先にと攻撃を開始し、部将たちの制止も聞かずに城壁近くまで押寄せていく。
城壁近くに密集した徳川勢は真田の鉄砲の餌食になる。
逃げ惑う徳川勢を城内から繰り出してきた真田幸村率いる真田騎馬隊に散々に打ちのめされる。
徳川軍は先の第1次上田合戦と同じ過ちを繰り返してしまったのだ。
本多正信は軍令違反をきびしく諌め、杉浦文勝、牧野康成の奉行・熱掃門の二将に切腹を命じた。
その後の軍議で真田を討つか、押さえを置いて西へ急ぐかが議論されるのだが、徳川家康から急ぎ来るようにとの催促の手紙が来ると秀忠軍は信濃に所領を有する者だけをおいて西へ向かった。
しかし、9月15日関ヶ原での戦いは東軍大勝利の報告を秀忠は木曾谷で受け取る。
結局上田城は堅守されたまま関ヶ原の戦いは終わるのである。
昌幸は2度まで徳川の大軍を破ったわけだが、本戦にて西軍は大敗した。
東軍に属した真田信幸が恩賞の変わりに父と弟の助命嘆願を願ったため、昌幸と幸村は死一等を減ぜられ高野山 九度山に配流の身となったのである。
上田城をでるとき昌幸は「さても残念だ。家康をこそこの様にしてやろうと思ったのに」と悔し涙を流したと言う。
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その間も石田三成ら西軍諸将から伝令が続々と到着する。
東軍は上杉征伐を行わず、小山にて取って返して東海道を西へ向かった。
また江戸からは将軍徳川秀忠の軍が中山道を西に向かう。

中山道を進む秀忠は、途中にある真田領を無視することはできず、中山道を外れて上田城に押寄せてくるのである。
上田城を攻める秀忠軍は総勢3万8千の大軍である。
前回の上田城攻防では7千だったが、今回は5倍の軍勢だ。対する真田は3千から5千。
秀忠はまず真田信幸を呼び、上田城に赴き降伏を呼びかけるように伝えた。
信幸は父・昌幸の元に行き降伏を説いた。昌幸は意外にもあっさり降伏を承諾するのだが、それは昌幸の戦略だった。
信幸はそんなことは分かっていたが、一応秀忠に昌幸の降伏を報告した。
秀忠は昌幸の言うことを信用し、9月3日使者を送り交渉させたが、結局講和は不調に終わる。
9月5日秀忠は攻撃を開始する。
まずは上田城の北にある戸石城を奪い取る。戸石城は昌幸がわざと守備兵を手薄にしておいたので秀忠軍は難なく戸石城に入ることが出来た。
秀忠は戸石城の守兵に真田信幸をおく。昌幸の計がこのことを読んでいたかどうかは分からないが、これにより真田は同門同士で戦うことを免れた。
9月6日、秀忠は上田城外に陣を構える。
そして兵たちに城外の稲を刈り取らせた。上田城兵はこれを妨害しようと城から打って出てきた。
徳川勢はその城兵を討とうと我先にと攻撃を開始し、部将たちの制止も聞かずに城壁近くまで押寄せていく。
城壁近くに密集した徳川勢は真田の鉄砲の餌食になる。
逃げ惑う徳川勢を城内から繰り出してきた真田幸村率いる真田騎馬隊に散々に打ちのめされる。
徳川軍は先の第1次上田合戦と同じ過ちを繰り返してしまったのだ。
本多正信は軍令違反をきびしく諌め、杉浦文勝、牧野康成の奉行・熱掃門の二将に切腹を命じた。
その後の軍議で真田を討つか、押さえを置いて西へ急ぐかが議論されるのだが、徳川家康から急ぎ来るようにとの催促の手紙が来ると秀忠軍は信濃に所領を有する者だけをおいて西へ向かった。
しかし、9月15日関ヶ原での戦いは東軍大勝利の報告を秀忠は木曾谷で受け取る。
結局上田城は堅守されたまま関ヶ原の戦いは終わるのである。
昌幸は2度まで徳川の大軍を破ったわけだが、本戦にて西軍は大敗した。
東軍に属した真田信幸が恩賞の変わりに父と弟の助命嘆願を願ったため、昌幸と幸村は死一等を減ぜられ高野山 九度山に配流の身となったのである。
上田城をでるとき昌幸は「さても残念だ。家康をこそこの様にしてやろうと思ったのに」と悔し涙を流したと言う。
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2008年04月18日
犬伏の別れ 真田昌幸の決断
1598年(慶長3年)平穏な日々が過ぎていた真田昌幸に更なる試練を思わせることがおきる。
太閤 豊臣秀吉が死去する。
秀吉の遺言に従い、五大老と五奉行により政治は行われていた。
真田昌幸も伏見いたが、この時期には家康のもとに仕えていた。
ここから徳川家康の専横がはじまる。
まず、無断で伊達政宗や蜂須賀家政、池田輝政等と婚姻政策をする。そして豊臣秀頼の後見人・前田利家が死去すると家康は他の四大老を理由をつけ自国に帰らせるのだ。
そして一人京に残り、豊臣恩顧の大名を個別に屈服させていく。
前田利長、細川忠興など謀反の志ありとして咎め人質をとっていく、そんな中、上杉景勝だけは家康に反旗を翻し抗う姿勢をみせたのだ。
こうして徳川家康は上杉討伐の兵を挙げることになった。
真田昌幸も当然ながら自国に戻り上杉征伐に参加すべく準備を整えて、味方に合流すべく進んでいた。
嫡男・真田信幸に合流しようと犬伏まで着たときに密書を持ったものが昌幸を訪ねてくる。
差出人は・・・石田三成であった。
密書の内容は太閤の遺命を破る家康の弾劾と、不忠の家康を誅するといった内容であった。
一読した昌幸は、躊躇なく家康に反することを決意する。
もともと過去の成行上、家康の麾下になってはいるけれども、家康の家臣になった覚えはない。
どちらかといえば豊臣派である。
昌幸はどうしても家康になじめないし、何より油断ならぬ相手と思っていた。
昌幸は急遽信幸を呼び、親子3人で協議した。
まず密書を信幸、真田幸村にみせ各々の意見を言わせた。
信幸は当然、親徳川であり、妻の小松殿は家康の四天王の一人・本多忠勝である。
一読するなり、ここはこのまま東軍に属しましょうとする。
一方幸村は、秀吉から豊臣の姓まで許された男であり、妻には同じ西軍の大谷吉継の娘である。
幸村の答えは「父上に従います」だった。
幸村には昌幸の結論が分かっていたのだろう。静かにそう答えた。
そうすると信幸は父・昌幸に「して、父上のお考えはいかに」と問う。
昌幸はゆっくり語り始める。
「わしはここでもう一博打打ちたいと思う。」
信幸が必死で説得するが、昌幸の考えは変わらない。
「信幸よ、お前が東軍につき、我々が西軍に与すれば、いずれが勝っても真田の名は残る。勝ったほうが負けたほうの助命嘆願もできるではないか」そう言うと早速陣払いの準備に取り掛かった。
犬伏で親子袂を分かち合った昌幸は上田に戻る。
途中、信幸の沼田城を無血占領できれば有利だと考え沼田城に押寄せる。
ところが、沼田城は城門を堅く閉じ入城することさえままならない。
昌幸が沼田により前に、信幸からの伝令が昌幸が寝返ったことを伝えていたのである。
信幸は父・昌幸であれば必ず帰りしなに沼田を攻めに来ると読んでいたのだ。
真田昌幸もさすがに同門同士での争いはしたくなく、おとなしく上田城に引き上げていった。
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謀将真田昌幸 上



謀将真田昌幸 下
太閤 豊臣秀吉が死去する。
秀吉の遺言に従い、五大老と五奉行により政治は行われていた。
真田昌幸も伏見いたが、この時期には家康のもとに仕えていた。
ここから徳川家康の専横がはじまる。
まず、無断で伊達政宗や蜂須賀家政、池田輝政等と婚姻政策をする。そして豊臣秀頼の後見人・前田利家が死去すると家康は他の四大老を理由をつけ自国に帰らせるのだ。
そして一人京に残り、豊臣恩顧の大名を個別に屈服させていく。
前田利長、細川忠興など謀反の志ありとして咎め人質をとっていく、そんな中、上杉景勝だけは家康に反旗を翻し抗う姿勢をみせたのだ。
こうして徳川家康は上杉討伐の兵を挙げることになった。
真田昌幸も当然ながら自国に戻り上杉征伐に参加すべく準備を整えて、味方に合流すべく進んでいた。
嫡男・真田信幸に合流しようと犬伏まで着たときに密書を持ったものが昌幸を訪ねてくる。
差出人は・・・石田三成であった。
密書の内容は太閤の遺命を破る家康の弾劾と、不忠の家康を誅するといった内容であった。
一読した昌幸は、躊躇なく家康に反することを決意する。
もともと過去の成行上、家康の麾下になってはいるけれども、家康の家臣になった覚えはない。
どちらかといえば豊臣派である。
昌幸はどうしても家康になじめないし、何より油断ならぬ相手と思っていた。
昌幸は急遽信幸を呼び、親子3人で協議した。
まず密書を信幸、真田幸村にみせ各々の意見を言わせた。
信幸は当然、親徳川であり、妻の小松殿は家康の四天王の一人・本多忠勝である。
一読するなり、ここはこのまま東軍に属しましょうとする。
一方幸村は、秀吉から豊臣の姓まで許された男であり、妻には同じ西軍の大谷吉継の娘である。
幸村の答えは「父上に従います」だった。
幸村には昌幸の結論が分かっていたのだろう。静かにそう答えた。
そうすると信幸は父・昌幸に「して、父上のお考えはいかに」と問う。
昌幸はゆっくり語り始める。
「わしはここでもう一博打打ちたいと思う。」
信幸が必死で説得するが、昌幸の考えは変わらない。
「信幸よ、お前が東軍につき、我々が西軍に与すれば、いずれが勝っても真田の名は残る。勝ったほうが負けたほうの助命嘆願もできるではないか」そう言うと早速陣払いの準備に取り掛かった。
犬伏で親子袂を分かち合った昌幸は上田に戻る。
途中、信幸の沼田城を無血占領できれば有利だと考え沼田城に押寄せる。
ところが、沼田城は城門を堅く閉じ入城することさえままならない。
昌幸が沼田により前に、信幸からの伝令が昌幸が寝返ったことを伝えていたのである。
信幸は父・昌幸であれば必ず帰りしなに沼田を攻めに来ると読んでいたのだ。
真田昌幸もさすがに同門同士での争いはしたくなく、おとなしく上田城に引き上げていった。
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謀将真田昌幸 上

謀将真田昌幸 下
2008年04月17日
第1次上田合戦 真田昌幸の計略
上杉に鞍替えした真田昌幸に憤慨した徳川家康は天正13年8月、鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉ら7千あまりの軍を送り出した。
これに対し真田昌幸は当初、神川に陣取り迎え撃とうとするが、上田城に籠もることを選択する。
真田信幸を戸石城にいれ、矢沢頼綱をとりでにいれて城下町には諸所に柵を設け待ち構えることにした。
徳川勢は大軍の驕りもあったのか、無策で城下になだれ込んできた。
しかし、上田城下は柵等により狭くなっており、徳川勢がひしめいているところを真田勢が鉄砲を打ち込んだことにより大きな損害を出したのだ。
退却する徳川勢に迷路のようになって入り組んでいる上田城下でいたるところから真田の伏兵に死傷者は続出した。
『三河物語』には平岩親吉や鳥居元忠は呼んでも返事もせず、保科正直は震え上がっていたという。大久保忠世は「味方はみな腰が抜けはて、敵の前に出ようとする者は誰一人としていない」と怒ったと記録している。
真田勢は退却しようとする徳川勢に矢玉を浴びせかけていく、追い詰められた徳川勢は神川に追い落とされる者も出る始末であった。
こうして上田城の戦いは真田の勝利で終わった。
徳川勢は一旦、佐久・諏訪方面を固め再攻の機会を窺っていたが、11月に家康の重臣・石川数正が豊臣秀吉に寝返ったために徳川家は真田攻めどころの話ではなくなり急いで諸将を呼び戻したのである。
天下の豊臣秀吉でさえ小牧・長久手で勝てなかった徳川軍を小国の真田が打ち破ったのだから真田の武名は天下に聞こえることとなったのは言うまでもない。
徳川に勝って意気揚々としていた昌幸だったがビックリするようなことが起こる。
秀吉が家康と和解してしまうのだ。
僅か7ヶ月前までは「来年の正月までには徳川を討つ」と言っていた秀吉が今度は「真田を成敗するために軍勢を出すと言うことだが、家康のためにもなることだし、必ず真田を討ち果たすことが大切だ。家康は大坂に来なくてもいいから自分で行って真田の首を刎ねるべきだ」と言っているのである。
また秀吉の騎下の奉行、石田三成や増田長盛らが上杉景勝宛てに「真田は表裏比興の者だから成敗を加えられる事となった。家康も出陣するだろから、あなたの方から真田を助けることのないように」などと命じているのである。
昌幸を比興というが、これを考えると秀吉のほうが余程比興だし、昌幸のことは言えないだろうに。
その後まもなく秀吉は上杉景勝に「真田を成敗するのはひとまず中止にする」と伝えているのだ。
秀吉はその後も真田を利用する。
小田原の北条との戦のきっかけを作るのに名胡桃城を利用するのである。
秀吉は真田の沼田領を北条に与え上洛する意図を伝えるのだが、このさい何故か名胡桃城だけを真田のもとしている。
これは北条の沼田領有を有名無実にする魂胆であった。
北条は名胡桃城を攻めこれを奪うのだ。秀吉はこの名胡桃城の攻略を不法なものとして北条征伐を決定することになる。
小田原征伐後、秀吉は関東を家康に任せることにする。
これに伴い家康の下にいた小笠原貞慶、木曾義昌ら信濃の大名はみなともに関東に移封となったが、真田昌幸のみが本領をそのままとし、それに沼田領を正式に与えられた。
真田のみが別格扱いだったようである。家康の支配下の信濃において真田だけは秀吉の直属扱いだったのだ。
こうして真田家は秀吉天下統一の下、平穏な日々が送れるかと思っていた。
しかし、それは長くは続かなかったのだ。
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これに対し真田昌幸は当初、神川に陣取り迎え撃とうとするが、上田城に籠もることを選択する。
真田信幸を戸石城にいれ、矢沢頼綱をとりでにいれて城下町には諸所に柵を設け待ち構えることにした。
徳川勢は大軍の驕りもあったのか、無策で城下になだれ込んできた。
しかし、上田城下は柵等により狭くなっており、徳川勢がひしめいているところを真田勢が鉄砲を打ち込んだことにより大きな損害を出したのだ。
退却する徳川勢に迷路のようになって入り組んでいる上田城下でいたるところから真田の伏兵に死傷者は続出した。
『三河物語』には平岩親吉や鳥居元忠は呼んでも返事もせず、保科正直は震え上がっていたという。大久保忠世は「味方はみな腰が抜けはて、敵の前に出ようとする者は誰一人としていない」と怒ったと記録している。
真田勢は退却しようとする徳川勢に矢玉を浴びせかけていく、追い詰められた徳川勢は神川に追い落とされる者も出る始末であった。
こうして上田城の戦いは真田の勝利で終わった。
徳川勢は一旦、佐久・諏訪方面を固め再攻の機会を窺っていたが、11月に家康の重臣・石川数正が豊臣秀吉に寝返ったために徳川家は真田攻めどころの話ではなくなり急いで諸将を呼び戻したのである。
天下の豊臣秀吉でさえ小牧・長久手で勝てなかった徳川軍を小国の真田が打ち破ったのだから真田の武名は天下に聞こえることとなったのは言うまでもない。
徳川に勝って意気揚々としていた昌幸だったがビックリするようなことが起こる。
秀吉が家康と和解してしまうのだ。
僅か7ヶ月前までは「来年の正月までには徳川を討つ」と言っていた秀吉が今度は「真田を成敗するために軍勢を出すと言うことだが、家康のためにもなることだし、必ず真田を討ち果たすことが大切だ。家康は大坂に来なくてもいいから自分で行って真田の首を刎ねるべきだ」と言っているのである。
また秀吉の騎下の奉行、石田三成や増田長盛らが上杉景勝宛てに「真田は表裏比興の者だから成敗を加えられる事となった。家康も出陣するだろから、あなたの方から真田を助けることのないように」などと命じているのである。
昌幸を比興というが、これを考えると秀吉のほうが余程比興だし、昌幸のことは言えないだろうに。
その後まもなく秀吉は上杉景勝に「真田を成敗するのはひとまず中止にする」と伝えているのだ。
秀吉はその後も真田を利用する。
小田原の北条との戦のきっかけを作るのに名胡桃城を利用するのである。
秀吉は真田の沼田領を北条に与え上洛する意図を伝えるのだが、このさい何故か名胡桃城だけを真田のもとしている。
これは北条の沼田領有を有名無実にする魂胆であった。
北条は名胡桃城を攻めこれを奪うのだ。秀吉はこの名胡桃城の攻略を不法なものとして北条征伐を決定することになる。
小田原征伐後、秀吉は関東を家康に任せることにする。
これに伴い家康の下にいた小笠原貞慶、木曾義昌ら信濃の大名はみなともに関東に移封となったが、真田昌幸のみが本領をそのままとし、それに沼田領を正式に与えられた。
真田のみが別格扱いだったようである。家康の支配下の信濃において真田だけは秀吉の直属扱いだったのだ。
こうして真田家は秀吉天下統一の下、平穏な日々が送れるかと思っていた。
しかし、それは長くは続かなかったのだ。
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2008年04月16日
表裏比興の雄 真田昌幸
新府城にて武田家最後の軍議が行われ、真田昌幸は武田勝頼とともにその軍議に参加していた。
その席で昌幸は岩櫃城に遁れるようすすめた。
「我が自城 岩櫃にお退きになれば安心かと存じます。内藤修理亮は箕輪城におりますし、武田信豊様は小諸城にお移りいただければ岩櫃からの交通の便もよく、3年や5年の兵糧は用意できます。」
この意見に内藤修理亮、武田信豊も賛同し軍議はまとまった。
そこで昌幸は急いで城に帰り、迎え入れる準備を行うのであった。
しかしその後、小山田信茂が居城の岩殿城へ迎え入れると言い出し、長坂釣閑が「真田は譜代の家臣ではありません。ここは小山田の岩殿城のほうがよろしいかと存じます」と勝頼に進言したために勝頼一行は岩殿へ向かうことになる。
岩殿へ向かう勝頼に耳を疑うような知らせが入る。小山田信茂謀反。
急遽道を変え天目山に向かうが、武運尽き天目山にて武田勝頼はじめ武田家は自刃するのである。天正10年3月のことであった。
この変報を聞いた昌幸は悔しがり「私がついていたら小山田の計略など見破ったものを・・・誠に不本意である」と嘆いた。
そんな昌幸であったが、武田家が衰退するのを見通していたのか、勝頼が自刃する少し前に北条家に帰順の手紙を送っている。
表裏比興の雄 真田昌幸の片鱗が見え始めた瞬間である。
北条に恭順の意を示しながらも昌幸は4月には織田信長に馬を送り臣従に意を表しているのだ。
しかし、6月その信長が本能寺の変で急死してしまう。
信長が死ぬと徳川家康が誰憚る事無く甲斐の切り取りにでる。
家康は武田の旧臣たちを取り込んでいく、昌幸の弟・真田信尹も早くから家康に属しており、信尹が熱心に昌幸を口説いたようだ。9月には昌幸は家康に臣従することになる。
翌年天正11年に昌幸は上田城を築城し移る。上田城を築いたことにより真田家は中世の豪族的なものから、近世の大名的な立場に変貌していったのだ。

そのように変貌した真田は三方を上杉・北条・徳川の有力大名に囲まれ厳しい状況であった。
家康に属していた昌幸だったが、天正13年家康は、羽柴秀吉と小牧・長久手で戦うために背後の北条と同盟を」結ぶ。
これによって真田家は上杉を頼らなくてはいけない状況に追い込まれた。
上杉の後ろには秀吉がおり、昌幸にとっても頼りがいはあったであろう。
家康は北条と和議を結ぶにあたり、真田領の沼田を北条に引き渡せと言ってきたのだ。
昌幸はこれに対し「沼田は家康様からいただいたものでなく、真田の手柄で取ったものです。此度御忠節申し上げたのですから、新たに恩賞を与えられるべきですのに、その沙汰もない上に沼田城を差し出せとは思いもよらぬことです」と反論したのだ。
こうして昌幸は上杉景勝を頼っていく。上杉景勝も真田の力は是非とも欲しいところだったので大いに歓迎している。
家康はそんな昌幸の行動に怒り、真田征伐の軍勢を向けることになるのである。
これを迎える真田昌幸の軍略が徳川の大軍に牙を剥くことになる。
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「我が自城 岩櫃にお退きになれば安心かと存じます。内藤修理亮は箕輪城におりますし、武田信豊様は小諸城にお移りいただければ岩櫃からの交通の便もよく、3年や5年の兵糧は用意できます。」
この意見に内藤修理亮、武田信豊も賛同し軍議はまとまった。
そこで昌幸は急いで城に帰り、迎え入れる準備を行うのであった。
しかしその後、小山田信茂が居城の岩殿城へ迎え入れると言い出し、長坂釣閑が「真田は譜代の家臣ではありません。ここは小山田の岩殿城のほうがよろしいかと存じます」と勝頼に進言したために勝頼一行は岩殿へ向かうことになる。
岩殿へ向かう勝頼に耳を疑うような知らせが入る。小山田信茂謀反。
急遽道を変え天目山に向かうが、武運尽き天目山にて武田勝頼はじめ武田家は自刃するのである。天正10年3月のことであった。
この変報を聞いた昌幸は悔しがり「私がついていたら小山田の計略など見破ったものを・・・誠に不本意である」と嘆いた。
そんな昌幸であったが、武田家が衰退するのを見通していたのか、勝頼が自刃する少し前に北条家に帰順の手紙を送っている。
表裏比興の雄 真田昌幸の片鱗が見え始めた瞬間である。
北条に恭順の意を示しながらも昌幸は4月には織田信長に馬を送り臣従に意を表しているのだ。
しかし、6月その信長が本能寺の変で急死してしまう。
信長が死ぬと徳川家康が誰憚る事無く甲斐の切り取りにでる。
家康は武田の旧臣たちを取り込んでいく、昌幸の弟・真田信尹も早くから家康に属しており、信尹が熱心に昌幸を口説いたようだ。9月には昌幸は家康に臣従することになる。
翌年天正11年に昌幸は上田城を築城し移る。上田城を築いたことにより真田家は中世の豪族的なものから、近世の大名的な立場に変貌していったのだ。

そのように変貌した真田は三方を上杉・北条・徳川の有力大名に囲まれ厳しい状況であった。
家康に属していた昌幸だったが、天正13年家康は、羽柴秀吉と小牧・長久手で戦うために背後の北条と同盟を」結ぶ。
これによって真田家は上杉を頼らなくてはいけない状況に追い込まれた。
上杉の後ろには秀吉がおり、昌幸にとっても頼りがいはあったであろう。
家康は北条と和議を結ぶにあたり、真田領の沼田を北条に引き渡せと言ってきたのだ。
昌幸はこれに対し「沼田は家康様からいただいたものでなく、真田の手柄で取ったものです。此度御忠節申し上げたのですから、新たに恩賞を与えられるべきですのに、その沙汰もない上に沼田城を差し出せとは思いもよらぬことです」と反論したのだ。
こうして昌幸は上杉景勝を頼っていく。上杉景勝も真田の力は是非とも欲しいところだったので大いに歓迎している。
家康はそんな昌幸の行動に怒り、真田征伐の軍勢を向けることになるのである。
これを迎える真田昌幸の軍略が徳川の大軍に牙を剥くことになる。
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2008年04月14日
真田昌幸 幸運の持ち主
かの徳川の大軍を2度までも破った男 真田昌幸。
いまさら説明するまでもないが、真田幸村の父である。

世の中には「運も才能のうち」等という言葉がある。実際に昌幸には「運」はあったのだろう。
昌幸はもともと真田幸隆の三男として生まれている。
そのため武藤性を与えられ武藤喜兵衛と表してしたのだが、長篠の戦いで長兄・信綱、次兄・昌輝が討ち死にしてしまうことによって真田家の家督を継ぐことになったのだ。そしてその事により武田家が滅亡した際に独立した大名となることが出来た。
これは昌幸にとっては「運」が良かったのだろう。
真田昌幸は1547年(天文16年)真田幸隆の三男として生まれた。幼名を源五郎といった。
天文22年、昌幸が9歳のとき幸隆は昌幸を甲府に送る。これは武田信玄に対する忠誠の意味もあり、人質のようなものだった。
現に昌幸の甲府行きと引き換えに真田幸隆は上田付近の所領を貰っている。
甲府へ行った昌幸はまさに「運」が良かったのだろう。
信玄の小姓となり、間近で信玄の軍略を見ることが出来、また信玄も昌幸の才能を認めたのか重用していく。
歴史的な資料をみても、信玄の傍らには昌幸の名が出ており、『甲陽軍鑑』には1561年(永禄4年)の第4次川中島の戦いのとき、土屋昌次と真田喜兵衛だけが信玄の床几の側から離れなかったと記されているほか、事あるごとに真田喜兵衛・武藤喜兵衛の名が出てくる。
『甲陽軍鑑』の記事なので確実性には薄いが、 『甲陽軍鑑』で真田を持ち上げる必要はないので、実際に昌幸は信玄の傍らで重要なポジションを担っていたことは窺われる。
しかし、1573年武田信玄が西上中に病死してしまう。
このことは武田家に仕えるすべての人の運命を変えていく、信玄公亡き後をとった武田勝頼は信玄没後のドサクサに紛れて長篠城が奪われていたものを憤慨し、これを奪還しようとする。
長篠城を囲んだ勝頼だったがなかなか攻略することが出来ず、そうこうしているうちに、織田信長・徳川家康連合軍3万が押寄せてきた。
勝頼は1万5千の兵で無謀な戦を挑む!
設楽原にて織田・徳川相手に策もなく攻撃した武田軍は大敗。
山県昌景、馬場美濃守ら武田の重臣たちが尽く討死にしてしまった。
真田昌幸の兄、真田信綱、真田昌輝もこの長篠の戦いで討死にしてしまったのだ。
このために昌幸は真田家を継ぐことになる。
家督を継いだ昌幸は、父や兄の任務を継承し沼田城の攻略にあたる。
まず、昌幸は名胡桃城を改修し、ここを拠点として沼田城を攻めた。
その甲斐もあり1580年(天正8年)沼田城の金子美濃守、渡辺左近允が降伏してきた。そして1ヵ月後には沼田城主の藤田信吉も降伏し、昌幸は沼田城を手に入れるのである。
長篠の戦い以後、衰退しつつある武田家の中で昌幸は一人奮戦していたのだが、時勢の流れはどうしようもなく、武田家は滅亡に向かい進んでいく。
きっかけは木曾義昌の謀反で始まった。。。。
武田一門であった義昌は織田に寝返った、これにより伊那方面から織田勢が怒涛のように流れ込んでくるのである。
信玄公の弟・武田信廉も自城の大島城を捨て新府城に逃げてしまう。唯一仁科盛信だけが高遠城に籠もり抵抗したが、僅か半日で落城してしまっている。
ちょうどその頃、真田昌幸は武田勝頼とともに新府城におり、これから最大の危機を迎えようとしている武田家の軍議に参加するのだった。
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いまさら説明するまでもないが、真田幸村の父である。

世の中には「運も才能のうち」等という言葉がある。実際に昌幸には「運」はあったのだろう。
昌幸はもともと真田幸隆の三男として生まれている。
そのため武藤性を与えられ武藤喜兵衛と表してしたのだが、長篠の戦いで長兄・信綱、次兄・昌輝が討ち死にしてしまうことによって真田家の家督を継ぐことになったのだ。そしてその事により武田家が滅亡した際に独立した大名となることが出来た。
これは昌幸にとっては「運」が良かったのだろう。
真田昌幸は1547年(天文16年)真田幸隆の三男として生まれた。幼名を源五郎といった。
天文22年、昌幸が9歳のとき幸隆は昌幸を甲府に送る。これは武田信玄に対する忠誠の意味もあり、人質のようなものだった。
現に昌幸の甲府行きと引き換えに真田幸隆は上田付近の所領を貰っている。
甲府へ行った昌幸はまさに「運」が良かったのだろう。
信玄の小姓となり、間近で信玄の軍略を見ることが出来、また信玄も昌幸の才能を認めたのか重用していく。
歴史的な資料をみても、信玄の傍らには昌幸の名が出ており、『甲陽軍鑑』には1561年(永禄4年)の第4次川中島の戦いのとき、土屋昌次と真田喜兵衛だけが信玄の床几の側から離れなかったと記されているほか、事あるごとに真田喜兵衛・武藤喜兵衛の名が出てくる。
『甲陽軍鑑』の記事なので確実性には薄いが、 『甲陽軍鑑』で真田を持ち上げる必要はないので、実際に昌幸は信玄の傍らで重要なポジションを担っていたことは窺われる。
しかし、1573年武田信玄が西上中に病死してしまう。
このことは武田家に仕えるすべての人の運命を変えていく、信玄公亡き後をとった武田勝頼は信玄没後のドサクサに紛れて長篠城が奪われていたものを憤慨し、これを奪還しようとする。
長篠城を囲んだ勝頼だったがなかなか攻略することが出来ず、そうこうしているうちに、織田信長・徳川家康連合軍3万が押寄せてきた。
勝頼は1万5千の兵で無謀な戦を挑む!
設楽原にて織田・徳川相手に策もなく攻撃した武田軍は大敗。
山県昌景、馬場美濃守ら武田の重臣たちが尽く討死にしてしまった。
真田昌幸の兄、真田信綱、真田昌輝もこの長篠の戦いで討死にしてしまったのだ。
このために昌幸は真田家を継ぐことになる。
家督を継いだ昌幸は、父や兄の任務を継承し沼田城の攻略にあたる。
まず、昌幸は名胡桃城を改修し、ここを拠点として沼田城を攻めた。
その甲斐もあり1580年(天正8年)沼田城の金子美濃守、渡辺左近允が降伏してきた。そして1ヵ月後には沼田城主の藤田信吉も降伏し、昌幸は沼田城を手に入れるのである。
長篠の戦い以後、衰退しつつある武田家の中で昌幸は一人奮戦していたのだが、時勢の流れはどうしようもなく、武田家は滅亡に向かい進んでいく。
きっかけは木曾義昌の謀反で始まった。。。。
武田一門であった義昌は織田に寝返った、これにより伊那方面から織田勢が怒涛のように流れ込んでくるのである。
信玄公の弟・武田信廉も自城の大島城を捨て新府城に逃げてしまう。唯一仁科盛信だけが高遠城に籠もり抵抗したが、僅か半日で落城してしまっている。
ちょうどその頃、真田昌幸は武田勝頼とともに新府城におり、これから最大の危機を迎えようとしている武田家の軍議に参加するのだった。
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