2008年01月07日

蒲生氏郷 織田信長が認めた男 

織田信長が認めた男として茶々の父親である浅井長政を上げたが、もう一人。
信長の娘、冬姫を娶った蒲生氏郷がいる。


蒲生氏郷は近江蒲生郡日野に生まれの人で、父は蒲生賢秀である。

当時は近江の大名 六角氏に属していたが、六角義治織田信長に敗れると、蒲生賢秀は信長に帰順する。
氏郷はこのとき、人質として岐阜城へ送られるのだ。

この岐阜城行きが氏郷の人生を大きく発展させることになる。
信長は、この人質としてやってきた氏郷の才を見抜き、惚れこんだ。そして自らの娘・冬姫を娶らすのである。これにより織田一門衆となった氏郷は各地の戦線で活躍し信長の期待に応えていく。

しかし、1582年、本能寺の変が起こる。信長が死んだことを知ると、氏郷は安土城にいた信長の妻子を保護し、父とともに居城・日野城へ走って明智光秀に対して対抗姿勢を示した。

その後は羽柴秀吉仕え、小牧・長久手の戦い・九州征伐・小田原征伐などに従軍し、ここでも活躍をしていく。
秀吉も信長同様に氏郷の才能に一目おき、また織田一門衆として格別の扱いだったようです。

その後、伊勢松阪より陸奥会津に移封され42万石(のちに92万石)の大領を与えられ、伊達政宗徳川家康の押さえを任せている。

蒲生氏郷は戦だけではなく、利休七哲の一人として数えられたり 和歌などにも秀でていました。
また、高山右近とも親交が深く、キリシタンとなり、レオンという洗礼名まで持っている。
ローマにも度々使いを送り、ローマ教皇から感謝の手紙なども受けているほどだ。

文禄の役で、九州肥前名護屋で在陣していた氏郷は、病に倒れ、京都の蒲生邸において40歳という若さで亡くなってしまう。
この時代に若くして亡くなると毒殺のウワサがでるが、氏郷に関しても例外でなく、そんなウワサはある。しかし、その事実はなく単なるウワサの域である。

辞世の句は
「かぎりあれば 吹かねと花は 散るものを 心短き 春の山風」

武勇を尊び、一方で文人としての教養も身につけていた蒲生氏郷
人間として信義を重んじ、義理をわきまえた武将だった。


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タグ :蒲生氏郷

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