2008年01月10日

直江兼続 石田三成との策謀

直江兼続石田三成との関係ってどうだったの?

戦国無双2の中では幸村を含め、兼続、三成と『義』を合言葉に『親友』で繋がっている。

実際はどうっだったの?

子どもに聞かれてしまう。。。説明すると長くなるよ・・・ちゃんと話し聞ける?

関ヶ原の戦いに向かうまでの過程はいまさら話をするまでもないですよね。

上杉征伐へ向かう徳川家康軍の背後を突き、上杉軍と挟撃をする?段取りだったと言われています。

または家康が三成潰しをするために、三成と親交があり当時力を持っていた直江兼続属する上杉景勝を利用し、三成を穴の中から引っ張り出した。ってなことも言われてる。

確かに上杉軍が当時の状況からして単独で戦に望むとは考えにくいところもある。
出羽の最上奥州の伊達陸奥の南部、など周りは東軍だらけ。
いくら兼続でも、背後に敵、前方からは10万を越す大群を相手にはしないだろう。

隣国で上杉の援軍となりうるのは常陸の佐竹義宣くらいなもんですよね。

そうなるとやはり三成と兼続の共謀説が持ち上がる。

では石田三成直江兼続、どこでどう親交を持つようになったのか?

三成と兼続は、天正十一年 (1583) くらいに初めて出会っているのではないだろうか。
本能寺の変後に豊臣秀吉と上杉景勝の間で和睦が結ばれる。この使者として大坂に出向いたのが直江兼続であった。
慶長三年 (1598) に景勝が越後から会津に加増移封された時に豊臣方から派遣されたのも三成でった。このんため三成、兼続はお互いに執務をとる立場上よく顔を合わせていたものと思われる。
そして同年齢であり、共に主君に信頼される能吏という点でも気が合ったのであろう。
直江兼続は、慶長三年の九月から約一年間、伏見において政務にあたっていたということもあるので、おそらくはこのときに何らかの話が合ったのではないだろうか。
慶長4年の3月から三成は佐和山城にて蟄居しており、密謀をする時間的余裕はあったものと思われる。

このあたりからも密謀説は頷ける話です。

しかし結果は周知の通り、西軍惨敗で終わります。

しかし、当時の状況、会戦後の関ヶ原へ向かうまでの両陣営の政略、全国の大名の動きから見ても家康有利な状況はわかり、その中で敢えて戦うことを望んだ兼続は、やはり何か三成との親交だけでなく、勝てる計略があったのではないだろうかとボクは思うのです。

豊臣第一という『義』は1番だったのでしょう。

直江の義とくと見よ!
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