2008年01月15日
「天地人」 直江兼続その生立ち
そう言えば、直江兼続の生立ちをちゃんと書いていなかった。
いまさらだが、上杉家家臣である。
父は樋口兼豊である。樋口兼豊は長尾政景に仕えていたため、長尾政景の妻は謙信公の妹・仙桃院であり、その子は上杉景勝である。
そのため、兼続は幼い頃より、二人は血を分けた兄弟のように互いに切磋琢磨していたようです。
その兼続の生来もった利発さを見抜いた景勝の母・仙洞院は、兼続を近習として取り上げます。
兼続は幼少期より目許涼やか・堂々たる偉丈夫の男前という人物だったようで、その容貌が謙信公の目に留まったかどうかは定かではないが、謙信の小姓として近侍し、衆道の相手であったとする説が後世に多くみられているけらど、これには史的確証たるものはないようです。
そんな景勝・兼続に変化が訪れます。
天正六年(1578)、春日山城で謙信が死去。
すると、謙信は景勝の他に、北条氏康の七男氏秀を養子に迎え上杉景虎の名を授けており、この2人の間で後継者争いが起こりました。
いわゆる「御館の乱」です。
結果は上杉景勝の勝利により、上杉家当主に景勝が就くことになります。
このとき兼続は若干19歳にして景勝の参謀として大いにその知謀を発揮し、後継者争いにおいて景勝軍を勝利に導くのです。
天正9年、上杉家重臣直江信綱が毛利秀広に殺される事件が起きます。
景勝の母・仙桃院は樋口兼続(当時の兼続)を直江家の養子に推します。
これにより、兼続は直江信綱の妻・お船を娶り直江家を継承し、上杉家の執政として手腕を振るうことになっていくのです。
そしてその後の活躍は今更説明も要りませんね。
幼少の頃より結びついた絆。
その才能を見抜き、絆を確固たるものとさせていった仙桃院の目。
不思議な縁により歴史は動いていくのですね。
御館の乱発生、助太刀もとむ→→→


いまさらだが、上杉家家臣である。
父は樋口兼豊である。樋口兼豊は長尾政景に仕えていたため、長尾政景の妻は謙信公の妹・仙桃院であり、その子は上杉景勝である。
そのため、兼続は幼い頃より、二人は血を分けた兄弟のように互いに切磋琢磨していたようです。
その兼続の生来もった利発さを見抜いた景勝の母・仙洞院は、兼続を近習として取り上げます。
兼続は幼少期より目許涼やか・堂々たる偉丈夫の男前という人物だったようで、その容貌が謙信公の目に留まったかどうかは定かではないが、謙信の小姓として近侍し、衆道の相手であったとする説が後世に多くみられているけらど、これには史的確証たるものはないようです。
そんな景勝・兼続に変化が訪れます。
天正六年(1578)、春日山城で謙信が死去。
すると、謙信は景勝の他に、北条氏康の七男氏秀を養子に迎え上杉景虎の名を授けており、この2人の間で後継者争いが起こりました。
いわゆる「御館の乱」です。
結果は上杉景勝の勝利により、上杉家当主に景勝が就くことになります。
このとき兼続は若干19歳にして景勝の参謀として大いにその知謀を発揮し、後継者争いにおいて景勝軍を勝利に導くのです。
天正9年、上杉家重臣直江信綱が毛利秀広に殺される事件が起きます。
景勝の母・仙桃院は樋口兼続(当時の兼続)を直江家の養子に推します。
これにより、兼続は直江信綱の妻・お船を娶り直江家を継承し、上杉家の執政として手腕を振るうことになっていくのです。
そしてその後の活躍は今更説明も要りませんね。
幼少の頃より結びついた絆。
その才能を見抜き、絆を確固たるものとさせていった仙桃院の目。
不思議な縁により歴史は動いていくのですね。
御館の乱発生、助太刀もとむ→→→
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