2008年01月30日
日本の諸葛亮孔明 竹中半兵衛
美濃の国が誇る名軍師、竹中半兵衛重治

半兵衛の居城・菩提山城にちょっと寄ってみた。
大垣の隣町・垂井の人で、今歴史好きな人間で竹中半兵衛を知らない人はいないくらい有名になりましたね。
竹中半兵衛は最初、美濃の斎藤龍龍に仕えるが、仕えてわずか1年で義龍が死去。
跡を継いだ斉藤龍興だったが、龍興は酒色に溺れて政務を顧みようとせず、一部の側近だけを寵愛して半兵衛や美濃三人衆を政務から遠ざけるなどであった。
半兵衛は、主君を諌めるために、たったの17人で稲葉山城を乗っ取るという神業をやってのける。
当時美濃への侵攻をしていた織田信長が何度攻めてもなかなか落ちなかった稲葉山城をたった一夜でものにしてしまったのだ。
織田信長は、美濃半国と引き換えに稲葉山城を明け渡すように半兵衛にせまるが、半兵衛はこれを拒否し、斉藤龍興に城を返し、自分は菩提山城に引きこもり隠居してしまうのだ。
潔いですなぁ~~ この潔さはまさに男ですよ。
その後、一時は北近江の浅井長政の客分として仕えるものの、羽柴秀吉の執拗な勧誘に折れ、その与力となるのだ。
このとき、半兵衛は織田信長の気性の荒さや、家臣を省みない性質を見抜いていた為織田家家臣になることを断固拒否したという。
そこで秀吉は半兵衛に自分の家臣となってもらうことを了承してもらうよう説得をするのだ。
半兵衛も秀吉の才能を見抜いていたのか、定かではないが秀吉の家臣になることを了承する。
浅井長政の攻略時にはかつて浅井家の客分だった頃の人脈を生かし、調略により浅井方武将たちを寝返らせている。
秀吉の中国遠征に同行し、宇喜多氏の備前八幡山城を調略などの活躍をあげる。
しかし、信長に対して謀反を起こした荒木村重に対して、秀吉幕僚であり、半兵衛の心友の黒田官兵衛が有岡城へ赴き帰服を呼びかけるが、捕縛され投獄されたのを、信長は孝高が裏切ったと思い、官兵衛の嫡男・松寿丸(黒田長政)の殺害を秀吉に命じるのだ。

しかし半兵衛は秀吉に偽の松寿丸の首を進呈させ、松寿丸を自らの菩提山城にて匿い命を助けたのである。
その後、救出された官兵衛の姿を見た秀吉は青ざめ、己がしたことを後悔した。しかし実際は半兵衛が松寿丸を匿っており秀吉はこのことを非常に感謝した。
また秀吉だけでなく当事者の官兵衛も、半兵衛の器量、心眼に感服し感謝をし、竹中家の家紋を貰い受けている。
天正7年(1579年)4月、播磨三木城の包囲中に病に倒れた半兵衛は、秀吉から京都で療養する暇を貰い受けるが、自らの死期を悟った半兵衛は「陣中で死ぬこそ武士の本望」とし6月13日望み通り平山の陣中で没した。享年36である。
竹中半兵衛の戦の仕方は 最小限の犠牲で最大限の効果をだす!が基本のようで、調略などを駆使し、流す血はなるべく少なくしていたように見える。
後年、黒田官兵衛と共に「両兵衛」・「二兵衛」と称され、中国の漢王朝創設に活躍した陳平に例えられている。信長の軍勢を寡勢で何度も破ったことから、軍略の天才として、「今楠木」と称された。『武功夜話』によると、「その才温雅にして慈眼あり学才あって軍書に詳しい」とあり、戦場では常に「泰然自若の構え」で敵と対したと記されている。
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半兵衛の居城・菩提山城にちょっと寄ってみた。
大垣の隣町・垂井の人で、今歴史好きな人間で竹中半兵衛を知らない人はいないくらい有名になりましたね。
竹中半兵衛は最初、美濃の斎藤龍龍に仕えるが、仕えてわずか1年で義龍が死去。
跡を継いだ斉藤龍興だったが、龍興は酒色に溺れて政務を顧みようとせず、一部の側近だけを寵愛して半兵衛や美濃三人衆を政務から遠ざけるなどであった。
半兵衛は、主君を諌めるために、たったの17人で稲葉山城を乗っ取るという神業をやってのける。
当時美濃への侵攻をしていた織田信長が何度攻めてもなかなか落ちなかった稲葉山城をたった一夜でものにしてしまったのだ。
織田信長は、美濃半国と引き換えに稲葉山城を明け渡すように半兵衛にせまるが、半兵衛はこれを拒否し、斉藤龍興に城を返し、自分は菩提山城に引きこもり隠居してしまうのだ。
潔いですなぁ~~ この潔さはまさに男ですよ。

その後、一時は北近江の浅井長政の客分として仕えるものの、羽柴秀吉の執拗な勧誘に折れ、その与力となるのだ。
このとき、半兵衛は織田信長の気性の荒さや、家臣を省みない性質を見抜いていた為織田家家臣になることを断固拒否したという。
そこで秀吉は半兵衛に自分の家臣となってもらうことを了承してもらうよう説得をするのだ。
半兵衛も秀吉の才能を見抜いていたのか、定かではないが秀吉の家臣になることを了承する。
浅井長政の攻略時にはかつて浅井家の客分だった頃の人脈を生かし、調略により浅井方武将たちを寝返らせている。
秀吉の中国遠征に同行し、宇喜多氏の備前八幡山城を調略などの活躍をあげる。
しかし、信長に対して謀反を起こした荒木村重に対して、秀吉幕僚であり、半兵衛の心友の黒田官兵衛が有岡城へ赴き帰服を呼びかけるが、捕縛され投獄されたのを、信長は孝高が裏切ったと思い、官兵衛の嫡男・松寿丸(黒田長政)の殺害を秀吉に命じるのだ。

しかし半兵衛は秀吉に偽の松寿丸の首を進呈させ、松寿丸を自らの菩提山城にて匿い命を助けたのである。
その後、救出された官兵衛の姿を見た秀吉は青ざめ、己がしたことを後悔した。しかし実際は半兵衛が松寿丸を匿っており秀吉はこのことを非常に感謝した。
また秀吉だけでなく当事者の官兵衛も、半兵衛の器量、心眼に感服し感謝をし、竹中家の家紋を貰い受けている。
天正7年(1579年)4月、播磨三木城の包囲中に病に倒れた半兵衛は、秀吉から京都で療養する暇を貰い受けるが、自らの死期を悟った半兵衛は「陣中で死ぬこそ武士の本望」とし6月13日望み通り平山の陣中で没した。享年36である。
竹中半兵衛の戦の仕方は 最小限の犠牲で最大限の効果をだす!が基本のようで、調略などを駆使し、流す血はなるべく少なくしていたように見える。
後年、黒田官兵衛と共に「両兵衛」・「二兵衛」と称され、中国の漢王朝創設に活躍した陳平に例えられている。信長の軍勢を寡勢で何度も破ったことから、軍略の天才として、「今楠木」と称された。『武功夜話』によると、「その才温雅にして慈眼あり学才あって軍書に詳しい」とあり、戦場では常に「泰然自若の構え」で敵と対したと記されている。
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