2008年02月14日

大谷吉継 親友・石田三成のために

1600年(慶長5年)、大谷吉継は、徳川家康上杉景勝に謀反の嫌疑があると主張し、上方に兵を率い、上杉討伐に向かう軍に従うべく領国の敦賀を出発した。

元々家康とも懇意にしていた吉継。(敵を作らない人柄のせい?)

敦賀を出て北国街道をおりて、佐和山城の横を通りながら美濃の垂井までやってくる。
なぜ吉継はそのまま北国街道を上がって行かなかったのか?

そこには吉継が親友・石田三成との関係があった。
その当時、三成は失脚中で佐和山城にて謹慎していた。
吉継は三成のことを思い、三成の嫡男・石田重家を自らの軍中に従軍させ家康の心象を良くしようととしたのである。
垂井にてか石田重家を待っていた吉継の元に佐和山から使者・樫原彦右衛門がくる
至急佐和山まで来て欲しいということであった。

大谷吉継は佐和山城に赴く、そこで吉継を待っていたのは驚くべき知らせであった。

「豊臣家の威光を軽視し、傍若無人な振る舞いの数々の家康を討ちたい。是非力を貸して欲しい」三成の口から思ってもいない言葉を聞かされた。

家康の武将としての力量、財力、兵力を共に評価していた吉継。
親家康派だった吉継は必死で三成を諌めます。
「貴殿と家康公では力量がまったく違いすぎる、時世の流れなのだ仕方あるまい」
三日三晩説得をしますが三成の意思は変わりませんでした。

垂井の陣場に戻り悩む吉継。
「勝敗は決するまでは分らない。自分を可愛がってくれた秀吉のため、親友・三成のために残りのわが人生を掛けてみるか!節義に生きる他なし!」

そう決断し、佐和山の三成を再度訪れます。

ここでもう一度三成に意思を確かめ、その意志の固さを確認し共に戦うことを誓います。

このとき吉継は三成に対して
「貴殿は諸人に対して横柄なところがあり、評判も良くない。人の上に立って事を成そうとするときは世の人気を得なければならないものだ。この度の大事も毛利輝元殿と宇喜多秀家殿を上に立て、貴殿はその下について事を進めるようにしなければ上手くいかないだろう」と手厳しく諫めたのだ。

そして大谷吉継は人生最大の見せ場に向かい進んでいくことになる。

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