2008年02月15日
大谷吉継 関ヶ原に咲く
佐和山の親友・石田三成に味方することを告げた大谷吉継は
7月14日 大坂城に戻っている。この頃名に名を吉隆に改めているようだ。
理由は三好義継と大谷吉継では名前の韻が同じなので縁起が悪いとい縁起担ぎだったという。
大坂城にて、西軍諸将軍議を開き家康に宣戦布告。
19日には伏見城を攻撃を開始、8月1日には伏見城を攻略し、敦賀に向けて移動していく。
三成から北陸方面の指揮を任されていたからだ。
この時点で西軍に与している北陸勢は、小松の丹羽長重、大聖寺の山口宗永、北ノ庄の青木一矩。
一方、東軍は加賀の前田利長、府中の堀尾吉晴だった。
堀尾は挟撃されることを恐れ、加賀の前田利長に救いをもとめるのだ。
前田利長はまず、南下して小松の丹羽長重を攻める。しかし、なかなか小松城が落ちないので迂回し山口崇永のこもる大聖寺城を攻める。
山口宗永は最後まで戦い抜き自刃した。
このことにより危機感を感じ始めた北ノ庄の青木一矩は大谷吉隆(吉継)に援軍を求める。
吉隆(吉継)は脇坂安治、朽木元綱、赤座直保、平塚為広、戸田重政らと共に救援に向かうのだ。
西軍は府中の堀尾を無視し素通りして、青木一矩の元へと急ぐ。

ここで大谷吉隆(吉継)の本領が発揮される。
吉隆(吉継)は前田利長にたいし、敦賀から船にて加賀を突くと偽情報を流したのだ。
これにまんまと引っかかった利長は急いで加賀へと戻っていく。その戻りしなを丹羽長重に急襲され甚大な被害をだしている。
前田を加賀に追いやった吉隆(吉継)は堀尾を降伏させて急いで関ヶ原へと向かう。
9月2日には関ヶ原山中に布陣していた。
吉隆(吉継)はここで陣を造り本体が到着するのを待つのだが、なぜ吉隆(吉継)は大垣城に入らなかったのか?疑問です。
親友の三成が一番信頼する男です、目と鼻の先の関ヶ原にて布陣しそこにいるのは何故?
おそらくなのですが、当初からの計画だったのではないでしょうか?
関ヶ原で一旦東軍を防ぎ、若し破られても佐和山、瀬田などまだ抵抗できる場所は残っている。
ここ関ヶ原におびき寄せられたのは家康だったのではないでしょうか?
その証拠が大谷吉隆(吉継)の関ヶ原での布陣であり、9月7日の毛利秀元、吉川広家、長曽我部盛親ら南宮山に布陣、9月13日の小早川秀秋の松尾山城へ入城なのではなかろうか。
結局はどちらにせよ、両軍は関ヶ原の地へと導かれていきます。

そして9月15日、朝 松平忠吉の小隊と井伊直政が宇喜多秀家隊に発砲することにより戦端はひらかれる。
西軍は総兵力のうち、戦闘を行っている兵力は3万5千ほどながら、戦局をやや優位に進めていた。
大谷隊もそんな中、奮戦している。
しかし、小早川秀秋が裏切る。
松尾山に陣取っていた小早川が一気に大谷吉隆(吉継)の側面を突き、戦況が一気に逆転していく。
これにより脇坂安治、朽木元綱、赤座直保、小川祐忠らも次々と寝返り大谷隊はほぼ壊滅状態となっていくのだ。
まずは平塚為広が小早川の側面に最後の突撃を食らわす。
そして大谷吉隆(吉継)も善戦するが多数に無勢、時間と共に将兵は減っていき、もはや壊滅は時間の問題となっていた。
吉隆(吉継)は家臣の湯浅五助に
「最早これまでである、しかしわしのこの首を絶対に見つからぬよう頼む」と言い残し自刃するのだ。
吉隆(吉継)は最後まで己の病を気にしていた。
醜くなった顔を見られたくない。そんな気後が強かったのであろう。
五助もそんな主人の気持ちを痛いほど理解しており、必至で吉隆(吉継)の首を持ちながら逃げていく。
しかし五助は首を埋めるところを藤堂仁右衛門に見られてしまうのだが、自分の首と引き換えに口止めを懇願するのだ。
藤堂仁右衛門はそれを承諾し、五助を介錯をする。
その後、家康から「湯浅五助であれば、吉継の首の行方を知っていただろう。吉継の首は手に入れたのか。」と問われるが、仁右衛門は、「たしかに知っている。知っているが五助との約束なので、死んでも言えません。強いて教えろとおっしゃるのであれば、頂いた恩賞は返上いたします。」と言い張り、
とうとう吉継の首が埋められている場所を明かさなかった。
こうして『義』の将大谷吉隆(吉継)は親友・石田三成の為、豊臣秀吉から受けた恩のために関ヶ原の地に散った。
今もなお、彼のその生き様は多くの人を魅了している。
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7月14日 大坂城に戻っている。この頃名に名を吉隆に改めているようだ。
理由は三好義継と大谷吉継では名前の韻が同じなので縁起が悪いとい縁起担ぎだったという。
大坂城にて、西軍諸将軍議を開き家康に宣戦布告。
19日には伏見城を攻撃を開始、8月1日には伏見城を攻略し、敦賀に向けて移動していく。
三成から北陸方面の指揮を任されていたからだ。
この時点で西軍に与している北陸勢は、小松の丹羽長重、大聖寺の山口宗永、北ノ庄の青木一矩。
一方、東軍は加賀の前田利長、府中の堀尾吉晴だった。
堀尾は挟撃されることを恐れ、加賀の前田利長に救いをもとめるのだ。
前田利長はまず、南下して小松の丹羽長重を攻める。しかし、なかなか小松城が落ちないので迂回し山口崇永のこもる大聖寺城を攻める。
山口宗永は最後まで戦い抜き自刃した。
このことにより危機感を感じ始めた北ノ庄の青木一矩は大谷吉隆(吉継)に援軍を求める。
吉隆(吉継)は脇坂安治、朽木元綱、赤座直保、平塚為広、戸田重政らと共に救援に向かうのだ。
西軍は府中の堀尾を無視し素通りして、青木一矩の元へと急ぐ。

ここで大谷吉隆(吉継)の本領が発揮される。
吉隆(吉継)は前田利長にたいし、敦賀から船にて加賀を突くと偽情報を流したのだ。
これにまんまと引っかかった利長は急いで加賀へと戻っていく。その戻りしなを丹羽長重に急襲され甚大な被害をだしている。
前田を加賀に追いやった吉隆(吉継)は堀尾を降伏させて急いで関ヶ原へと向かう。
9月2日には関ヶ原山中に布陣していた。
吉隆(吉継)はここで陣を造り本体が到着するのを待つのだが、なぜ吉隆(吉継)は大垣城に入らなかったのか?疑問です。
親友の三成が一番信頼する男です、目と鼻の先の関ヶ原にて布陣しそこにいるのは何故?
おそらくなのですが、当初からの計画だったのではないでしょうか?
関ヶ原で一旦東軍を防ぎ、若し破られても佐和山、瀬田などまだ抵抗できる場所は残っている。
ここ関ヶ原におびき寄せられたのは家康だったのではないでしょうか?
その証拠が大谷吉隆(吉継)の関ヶ原での布陣であり、9月7日の毛利秀元、吉川広家、長曽我部盛親ら南宮山に布陣、9月13日の小早川秀秋の松尾山城へ入城なのではなかろうか。
結局はどちらにせよ、両軍は関ヶ原の地へと導かれていきます。

そして9月15日、朝 松平忠吉の小隊と井伊直政が宇喜多秀家隊に発砲することにより戦端はひらかれる。
西軍は総兵力のうち、戦闘を行っている兵力は3万5千ほどながら、戦局をやや優位に進めていた。
大谷隊もそんな中、奮戦している。
しかし、小早川秀秋が裏切る。
松尾山に陣取っていた小早川が一気に大谷吉隆(吉継)の側面を突き、戦況が一気に逆転していく。
これにより脇坂安治、朽木元綱、赤座直保、小川祐忠らも次々と寝返り大谷隊はほぼ壊滅状態となっていくのだ。
まずは平塚為広が小早川の側面に最後の突撃を食らわす。
そして大谷吉隆(吉継)も善戦するが多数に無勢、時間と共に将兵は減っていき、もはや壊滅は時間の問題となっていた。
吉隆(吉継)は家臣の湯浅五助に
「最早これまでである、しかしわしのこの首を絶対に見つからぬよう頼む」と言い残し自刃するのだ。
吉隆(吉継)は最後まで己の病を気にしていた。
醜くなった顔を見られたくない。そんな気後が強かったのであろう。
五助もそんな主人の気持ちを痛いほど理解しており、必至で吉隆(吉継)の首を持ちながら逃げていく。
しかし五助は首を埋めるところを藤堂仁右衛門に見られてしまうのだが、自分の首と引き換えに口止めを懇願するのだ。
藤堂仁右衛門はそれを承諾し、五助を介錯をする。
その後、家康から「湯浅五助であれば、吉継の首の行方を知っていただろう。吉継の首は手に入れたのか。」と問われるが、仁右衛門は、「たしかに知っている。知っているが五助との約束なので、死んでも言えません。強いて教えろとおっしゃるのであれば、頂いた恩賞は返上いたします。」と言い張り、
とうとう吉継の首が埋められている場所を明かさなかった。
こうして『義』の将大谷吉隆(吉継)は親友・石田三成の為、豊臣秀吉から受けた恩のために関ヶ原の地に散った。
今もなお、彼のその生き様は多くの人を魅了している。
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