2008年03月02日

毛利両川 小早川隆景

毛利両川の一人で豊臣秀吉からの信用も厚かった男 小早川隆景

1533年、毛利元就の三男として生まれ幼名は徳寿丸
毛利家と同盟関係にあった小早川興景が子を無くして病死したため、徳寿丸が竹原小早川家を継ぐことになる。若干12歳のときである。

そして元服して又四郎隆景と名乗り、「隆」は大内義隆から、「景」は義父 興景からの偏諱だった。
初陣は15歳のときで、1547年(天文16年)大内義隆が備後神辺城を攻めたときに従軍、見事な采配で神辺城の支城である龍王山砦を小早川軍単独で落とすという功績を挙げ、家臣や諸将に絶賛されるのである。

小早川隆景が継いだ竹原小早川家とは別に、竹原家の本家沼田小早川家があったが、その当主正平が戦死したことと、正平の後継ぎである小早川繁平が失明していたために下降をたどっていた。
大内義隆毛利元就と協力して繁平を廃し、隆景と繁平の妹を結婚させ、小早川家の当主としたのだ。
これ以降の小早川家は毛利一門に組み込まれ、毛利直轄の精強な水軍として活躍することになる。

小早川隆景の率いる小早川水軍は、1555年(弘元年)の厳島の戦いにおいて、陶晴賢率いる大内水軍を破り海上を封鎖、毛利軍の勝利に大いに貢献している。
このとき、乃美宗勝を通じて村上水軍を味方に引き入れるという調略でも功績を挙げている。

1571年(元亀2年)に元就が死去、毛利輝元が家督を継ぐと、吉川元春と共に輝元の補佐を務めるようになる。
元春が軍事面を担当し、隆景は水軍の情報収集力を活かし主に政務・外交面を担当することとなったのです。

基本的に毛利の血は傑物が多いのか吉川元春小早川隆景穂井田元清毛利秀包など文武両道の者が多い。
しかも団結力も固いので毛利元就亡き後も輝元をしっかりと支え勢力を伸ばしていく。

しかし、中央の勢力図は大きく変わってきていた。
1575年 織田信長の下、中国政略に任命された羽柴秀吉が毛利領にまで迫ってくるようになるのです。

元春、隆景を筆頭に毛利勢はよく防戦する。
しかし織田家の中国方面軍司令官である羽柴秀吉の指揮のもと、織田軍の侵攻は次第に激しくなり1582年(天正10年)には清水宗治が籠る備中高松城が水攻めにより包囲される。

隆景は輝元・元春と共に毛利家の主力3万を率いて救援に向かうのだが、武田勝頼を滅ぼした織田信長の本隊が中国に向け出兵の準備を進めており、この時点で隆景は毛利家が織田家に勝てる可能性が無いことを判断するのだ。

小早川隆景安国寺恵瓊を通じて羽柴秀吉と和睦交渉を秘密裏に行っていた。

そんな中事態は一変する。

織田信長明智光秀の謀反によって殺害されるのである。
羽柴秀吉はいち早くこの情報を知り、早々に毛利と和睦をするのだ。
何も知らない毛利は和睦に応じるのである。

和睦が成立すると秀吉は速攻で京に向けて引き返していく、信長の死を知った毛利勢は秀吉追撃を企てるが、小早川隆景「誓紙の血が乾かぬうちに追撃するのは不義であり、信長の死に乗ずるのは不祥である」と主張、毛利軍が羽柴軍を追撃することは無かった。


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