2008年03月03日
瀬戸の鷹 小早川隆景
小早川隆景の説得で羽柴秀吉軍の追撃を思いとどまった毛利勢。
小早川隆景、安国寺恵恵と秀吉の間で何らかの密約でもあったのだろうか?
後年、隆景は甥の吉川広家に対して、「羽柴との誓約を守ったからこそ、毛利家が豊臣政権下で安泰でいられる」と隆景の自慢の一つとして聞かせたと記述が残っている。
大返しで中央に戻った秀吉は、背後の憂いなく戦を仕掛ける。
先ずは山崎の戦いで明智光秀を撃破、つづく1583年(天正11年)には、賤ヶ岳の戦いにて柴田勝家を破ると、いよいよ天下は秀吉に傾いていく。
それまで日和見に徹してきた毛利もここではっきりと秀吉に従属した。
ここでも隆景の説得とうがあったのであろう。
その後、隆景は秀吉に積極的に協力し、、1585年(天正13年)の四国征伐、1586年(天正14年)の九州征伐に参加し、多大なる功績と、先の中国大返しの感謝の意を込めて、筑前・筑後・肥前1郡の37万1300石を与えられるのである。

三原城 絵図
秀吉にとっての人生の転機だった中国からの大返し。
小早川隆景に余程恩義を感じていたらしく、秀吉の隆景に対する信任は特に厚く、秀吉は外様であり、しかも陪臣である隆景に異例ともいえるほどの恩賞を与えている。また、太閤検地も毛利氏の領地のみ免除とし、さらに五大老に隆景、輝元と毛利氏から2人も迎えているのだ。
毛利家もこれで安泰かと思われたが、しかし九州征伐で兄の吉川元春と、嫡男 吉川元長が相次いで死去。これにより毛利の執政は小早川隆景一人が補佐を務めることになる。
1592年、1593年と朝鮮出兵(文禄・慶長の役)にも参加しており、立花宗茂とともに明軍を撃破している。
朝鮮の役後、秀吉は実子 秀頼が誕生したことにより、それまで後継者として養子の木下秀秋の処遇に悩んだ。
秀吉は、秀秋を毛利氏の養子に出そうと画策するのである。
隆景は、本家の後継者に他家からの養子を受け入れることに抵抗、そこで秀吉の策謀が実行に移される前に、弟である穂井田元清の子・秀元を輝元の養子として迎え入れ、自らは実子が無いため、秀吉に秀秋を養子にしたいと懇願し、これを認めさせるのだ。
秀吉も隆景の本心を見抜いてはいたが、毛利家を思うその気持ちに心を動かされ、秀秋入嗣によって小早川家を廃嫡された隆景の弟・小早川秀包を独立した大名として取り立てた。
隆景はこういった政治的な部分でも毛利を守っていたのである。
そんな隆景を豊臣秀吉は「自分以外で天下を治める者がいるとすれば、黒田如水か小早川隆景よ」と評し、また「からこの世に政治ができるのは直江と小早川であるとも」言っている。
相当な評価である。
そんな小早川隆景であったが、1595年 養子の小早川秀秋に家督を譲り隠居すると、1597年病死してしまう。享年65歳であった。
隆景の死後、支える支柱を完全に失った毛利は迷走していく、家中の対立を抑える重鎮も存在しなくなったことから、その体制は機能せず、関ヶ原の戦い前後における家中の分裂と不戦敗、防長2国への減封に繋がっていくのである。
小早川隆景と、吉川元春の両家が、本家である毛利氏を支えたことから、両家は毛利の両川と呼ばれ、宗家とともに発展して来たのだった。
もし小早川隆景があと3年生きていたら、関ヶ原の勝敗は間違いなく西軍が勝っていたのではないだろうか?
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小早川隆景、安国寺恵恵と秀吉の間で何らかの密約でもあったのだろうか?
後年、隆景は甥の吉川広家に対して、「羽柴との誓約を守ったからこそ、毛利家が豊臣政権下で安泰でいられる」と隆景の自慢の一つとして聞かせたと記述が残っている。
大返しで中央に戻った秀吉は、背後の憂いなく戦を仕掛ける。
先ずは山崎の戦いで明智光秀を撃破、つづく1583年(天正11年)には、賤ヶ岳の戦いにて柴田勝家を破ると、いよいよ天下は秀吉に傾いていく。
それまで日和見に徹してきた毛利もここではっきりと秀吉に従属した。
ここでも隆景の説得とうがあったのであろう。
その後、隆景は秀吉に積極的に協力し、、1585年(天正13年)の四国征伐、1586年(天正14年)の九州征伐に参加し、多大なる功績と、先の中国大返しの感謝の意を込めて、筑前・筑後・肥前1郡の37万1300石を与えられるのである。

三原城 絵図
秀吉にとっての人生の転機だった中国からの大返し。
小早川隆景に余程恩義を感じていたらしく、秀吉の隆景に対する信任は特に厚く、秀吉は外様であり、しかも陪臣である隆景に異例ともいえるほどの恩賞を与えている。また、太閤検地も毛利氏の領地のみ免除とし、さらに五大老に隆景、輝元と毛利氏から2人も迎えているのだ。
毛利家もこれで安泰かと思われたが、しかし九州征伐で兄の吉川元春と、嫡男 吉川元長が相次いで死去。これにより毛利の執政は小早川隆景一人が補佐を務めることになる。
1592年、1593年と朝鮮出兵(文禄・慶長の役)にも参加しており、立花宗茂とともに明軍を撃破している。
朝鮮の役後、秀吉は実子 秀頼が誕生したことにより、それまで後継者として養子の木下秀秋の処遇に悩んだ。
秀吉は、秀秋を毛利氏の養子に出そうと画策するのである。
隆景は、本家の後継者に他家からの養子を受け入れることに抵抗、そこで秀吉の策謀が実行に移される前に、弟である穂井田元清の子・秀元を輝元の養子として迎え入れ、自らは実子が無いため、秀吉に秀秋を養子にしたいと懇願し、これを認めさせるのだ。
秀吉も隆景の本心を見抜いてはいたが、毛利家を思うその気持ちに心を動かされ、秀秋入嗣によって小早川家を廃嫡された隆景の弟・小早川秀包を独立した大名として取り立てた。
隆景はこういった政治的な部分でも毛利を守っていたのである。
そんな隆景を豊臣秀吉は「自分以外で天下を治める者がいるとすれば、黒田如水か小早川隆景よ」と評し、また「からこの世に政治ができるのは直江と小早川であるとも」言っている。
相当な評価である。
そんな小早川隆景であったが、1595年 養子の小早川秀秋に家督を譲り隠居すると、1597年病死してしまう。享年65歳であった。
隆景の死後、支える支柱を完全に失った毛利は迷走していく、家中の対立を抑える重鎮も存在しなくなったことから、その体制は機能せず、関ヶ原の戦い前後における家中の分裂と不戦敗、防長2国への減封に繋がっていくのである。
小早川隆景と、吉川元春の両家が、本家である毛利氏を支えたことから、両家は毛利の両川と呼ばれ、宗家とともに発展して来たのだった。
もし小早川隆景があと3年生きていたら、関ヶ原の勝敗は間違いなく西軍が勝っていたのではないだろうか?
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城名:三原城、浮城
築城年:1596年
築城者:小早川隆景
城区分:平山城
所在地:〒723-0014 広島県三原市城町
電話:
URL:http://www.tako.ne.jp/~m-kankou/meisyo
/ukishiro/index.html
コメン...
築城年:1596年
築城者:小早川隆景
城区分:平山城
所在地:〒723-0014 広島県三原市城町
電話:
URL:http://www.tako.ne.jp/~m-kankou/meisyo
/ukishiro/index.html
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三原城【日本の城ブログ】at 2008年03月19日 00:23















