2008年03月07日

川中島の激闘 上杉謙信

なんとか出家を思いとどまった長尾景虎(上杉謙信)。

そのまま1557年 第3次川中島の戦い に赴く。
しかし今回も武田軍とは睨み合いに終始し、さらに越中で一向一揆が起こったため、撤退を余儀なくされる。



1560年(永禄3年)3月には、越中に出陣し、神保長職を破って椎名康胤を援ける。
越中を平定したあと、上杉憲政を擁し関東に攻めあがります。
このとき長野業正、小山秀綱、小田氏治、那須資胤、佐竹義重、太田資正、三田綱秀、成田長泰ら旧上杉家家臣団10万の大軍で小田原城を包囲するのですが、結果は小田原城自体は、落城させることができず、1ヶ月後には鎌倉に兵を引いています。

景虎は、このとき、上杉憲政の要請もあって鶴岡八幡宮において閏3月16日、山内上杉家の家督と関東管領職を相続、名を上杉政虎と名を改めます。

1561年 関東からの帰国した、上杉政虎は早速川中島へ兵を繰り出すのです。
第4次川中島の戦いである。
この第4次川中島の戦いは大激戦となり、武田信玄の実弟である武田信繁らを討ち取ったが、上杉軍の死傷者も甚大で、結局痛み分けに終わった。

同年の11月には今度は関東にて信玄、北条氏康と激突する。
このとき上杉軍は先の川中島の損害がひどく、思うように戦えなかった。結果、成田長泰佐野昌綱にとどまらず武蔵国の同族上杉憲盛までもが北条方に降ることになってしまった。
このときから名を上杉輝虎と改めた。

1564年には5度武田信玄と激突する。第5次川中島の戦い である。
このときも60日間対峙するものの決着はつかず撤退することになっている。

1568年(永禄11年)には、先に越中を任せた椎名康胤が武田信玄と通じたため、再び越中を攻略する。
そうこうしていると今度は上杉家重臣 本庄繁長武田信玄の調略により謀反を起こすのだ。

上杉輝虎(謙信)はこれを鎮圧し、繁長の帰参を許した。また繁長と手を結んでいた出羽の大宝寺義増も輝虎に降伏し、出羽庄内地方を手にする。


1569年(永禄12年)、武田信玄を牽制するため関東管領である輝虎にとっては宿敵である北条氏康と同盟し、北条三郎氏秀を養子として迎える。

輝虎は、三郎氏秀のことを大層気に入り、景虎という自身の初名を与えるとともに、一族衆として厚遇した。
12月には法号「謙信」を称するようになった。

結局謙信は家臣の裏切りが多く、裏で武田信玄が策をめぐらして安定して戦をする環境がなかなかできていなかったようである。
それに比べて武田家臣団は結束が固く、信玄はその辺の人身掌握においては謙信より上手だったのであろうか。それとも、武田家の真田幸隆をはじめ、謀略とうが巧みな者が多くいたせいなのだろうか。

上杉家臣団に比べると武田家臣団は個々にも武辺者が多く見られる。

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