2008年03月10日
真田幸村と妻 竹林院
真田幸村が大坂の豊臣秀吉のところにいる間に、秀吉の仲介もあり大谷吉継の娘(竹林院)を娶っている。

これには真田幸村が大阪に出仕している折、幸村の器量を見定めた吉継の方からの話であったといわれているが、その実は、おそらく、真田信幸が徳川家康の臣 本多忠勝の娘を娶っていたので、関東の火薬庫 真田領を自陣に取り込めるためにも幸村の室を豊臣側のものから出させる必要があったのではないか?
そこで白羽の矢がたったのが大谷吉継だったのだろう。
大谷吉継に関してはココを参照して欲しい。
節義を貫く!大谷吉継
大谷吉継 親友・石田三成のために
大谷吉継 関ヶ原に咲く
大谷吉継は豊臣の中でも文武両道の人。
秀吉をもって「百万の大軍を預けてみたい」と言わせた御仁である。
そのような秀吉子飼の武将の娘であるので、秀吉の政治的な婚姻だっただろう。
こうして真田幸村は大谷吉継の娘(竹林院)と結婚する。
関ヶ原において父 真田昌幸とともに西軍につくことになるのは西軍に義父 大谷吉継がいることも大きな要因であることは間違いないと思う。
みなさんもご周知の通り大谷吉継は関ヶ原にて散る。共に関ヶ原に参陣していた息子の大谷吉治は関ヶ原を脱出し生き残る。
そして1614年の大坂の陣にて真田幸村と再会、幸村の寄騎として奮戦し、ともに散っていく。
話を戻し、真田幸村は正室 竹林院との間に2男3女を儲けたと言われている。
大谷吉継の娘(竹林院)が真田幸村の正室であることには間違いはないが、竹林院を娶る以前に幸村は妻を娶っている形跡がある。
『真田家系譜稿』によると堀田作兵衛興重の娘を娶っているようである。
二人の間には2女が生まれている。
しかし、その後この名前は見えなくなるので、離縁したか、死別したか?
もしかすると大谷吉継の娘(竹林院)を娶ることで、家柄的に離縁されたのかもしれない。
ちなみにこの堀田興重は大坂の陣のさい、信州より大坂に駆けつけ、幸村と共に戦死している。
幸村には側室もおり、一人は高梨内記の娘で、もう一人は関白 羽柴秀次の娘と言われている。
高梨内記の娘については、高梨は真田家の家臣でもあり、幸村が信州にいるころから目を付けていたのかもしれない。
関白 羽柴秀次の娘のついてはあまり詳しい経緯は分からないが、間に1男1女を儲けている。
竹林院は長子 大助幸昌が出立するに際し「生き長らえて逢いたいのは山々なれど、かまえてその様には思わず、父幸村と生死をともにせよ」といって送り出している。
大阪の陣後、竹林院は七女のかね夫婦と京都に住み、ひっそりと余生を送ったとされている。
真田幸昌(大助)は父 真田幸村とともに大坂に参陣、母 竹林院の教え「父 幸村と生死をともにせよ」通り、大坂落城とともに自刃している。
真田守信(大八)は西村孫之進と我妻佐渡守に守られて落ち延び、姉 阿梅とともに片倉重長に保護された。
その後、片倉家の家臣として召し抱えられ、真田守信を称し、現在も存続している。
真田幸信は大坂の陣の2ヶ月後に京都で生まれている。母は羽柴秀次で戦を避けて京都にいたものと見られる。
その後は真田姓を名乗るのを憚り、外祖父秀次の旧姓である三好姓を称し、姉の御田姫の嫁ぎ先である出羽亀田藩主岩城宣隆の許に引き取られ、元服すると三好幸信と名乗るようになる。
真田之親は出自は不明。おそらく真田幸村が九度山に居た際に地元の百姓の娘?を身篭らせたのではないだろうか。
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これには真田幸村が大阪に出仕している折、幸村の器量を見定めた吉継の方からの話であったといわれているが、その実は、おそらく、真田信幸が徳川家康の臣 本多忠勝の娘を娶っていたので、関東の火薬庫 真田領を自陣に取り込めるためにも幸村の室を豊臣側のものから出させる必要があったのではないか?
そこで白羽の矢がたったのが大谷吉継だったのだろう。
大谷吉継に関してはココを参照して欲しい。
節義を貫く!大谷吉継
大谷吉継 親友・石田三成のために
大谷吉継 関ヶ原に咲く
大谷吉継は豊臣の中でも文武両道の人。
秀吉をもって「百万の大軍を預けてみたい」と言わせた御仁である。
そのような秀吉子飼の武将の娘であるので、秀吉の政治的な婚姻だっただろう。
こうして真田幸村は大谷吉継の娘(竹林院)と結婚する。
関ヶ原において父 真田昌幸とともに西軍につくことになるのは西軍に義父 大谷吉継がいることも大きな要因であることは間違いないと思う。
みなさんもご周知の通り大谷吉継は関ヶ原にて散る。共に関ヶ原に参陣していた息子の大谷吉治は関ヶ原を脱出し生き残る。
そして1614年の大坂の陣にて真田幸村と再会、幸村の寄騎として奮戦し、ともに散っていく。
話を戻し、真田幸村は正室 竹林院との間に2男3女を儲けたと言われている。
大谷吉継の娘(竹林院)が真田幸村の正室であることには間違いはないが、竹林院を娶る以前に幸村は妻を娶っている形跡がある。
『真田家系譜稿』によると堀田作兵衛興重の娘を娶っているようである。
二人の間には2女が生まれている。
しかし、その後この名前は見えなくなるので、離縁したか、死別したか?
もしかすると大谷吉継の娘(竹林院)を娶ることで、家柄的に離縁されたのかもしれない。
ちなみにこの堀田興重は大坂の陣のさい、信州より大坂に駆けつけ、幸村と共に戦死している。
幸村には側室もおり、一人は高梨内記の娘で、もう一人は関白 羽柴秀次の娘と言われている。
高梨内記の娘については、高梨は真田家の家臣でもあり、幸村が信州にいるころから目を付けていたのかもしれない。
関白 羽柴秀次の娘のついてはあまり詳しい経緯は分からないが、間に1男1女を儲けている。
竹林院は長子 大助幸昌が出立するに際し「生き長らえて逢いたいのは山々なれど、かまえてその様には思わず、父幸村と生死をともにせよ」といって送り出している。
大阪の陣後、竹林院は七女のかね夫婦と京都に住み、ひっそりと余生を送ったとされている。
真田幸昌(大助)は父 真田幸村とともに大坂に参陣、母 竹林院の教え「父 幸村と生死をともにせよ」通り、大坂落城とともに自刃している。
真田守信(大八)は西村孫之進と我妻佐渡守に守られて落ち延び、姉 阿梅とともに片倉重長に保護された。
その後、片倉家の家臣として召し抱えられ、真田守信を称し、現在も存続している。
真田幸信は大坂の陣の2ヶ月後に京都で生まれている。母は羽柴秀次で戦を避けて京都にいたものと見られる。
その後は真田姓を名乗るのを憚り、外祖父秀次の旧姓である三好姓を称し、姉の御田姫の嫁ぎ先である出羽亀田藩主岩城宣隆の許に引き取られ、元服すると三好幸信と名乗るようになる。
真田之親は出自は不明。おそらく真田幸村が九度山に居た際に地元の百姓の娘?を身篭らせたのではないだろうか。
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