2008年03月11日

真田幸村の祖父 真田幸隆

天下に名高い 真田幸村

当然ながら幸村にもご先祖様はいるわけで、その幸村のルーツ?

幸村に関わる人を紹介。

まずは真田の祖。真田幸隆

真田氏は滋野三家の中でも本家筋といわれる海野氏の直系であると称している。

この滋野三家とはなにか?
東信濃に平安末期くらいから名が見られる 海野、望月、祢津の三家である。
いずれも滋野氏を祖と称しており、信濃の名族ということになる。

滋野氏とは?
清和天皇の曾孫 善淵王が「滋野朝臣」を賜ったことから始まるらしいが、これはあまり信用できるものではない。

平安時代に滋野は信濃の介や守を務めていたらしく、その関係で信濃の諸族との絆もできるようになったために海野、望月、祢津は滋野氏を祖と称するようになったと言われている。
真田はこの海野氏の支流である。

信州の小豪族海野氏から室町末期に出た海野信濃守棟綱の子が信州真田に住み真田氏を称するようになった。これが真田幸隆である。

ただ、真田幸隆に関しても、海野棟綱の子であるとする説と、娘婿であるとする説などがあり様々である。

1541年(天文10年)甲斐の武田信虎村上義清、諏訪頼重らとともに滋野諸氏を攻める。
海野、望月、祢津は激しく抵抗するが次第に押されていき、望月、祢津は降伏し、海野棟綱真田幸隆は上州の関東管領 上杉憲政を頼り逃げていくのだ。
本来は武田信虎が進攻してきた際に援軍を求めていたのだが、当時の上杉憲政には、すでにそんな力はなかったのだ。

幸隆が逃げた先は上州吾妻郡羽尾。ここは幸隆の妻の父 羽尾幸全の領地であった。
ここで再起を図り、しばらく密かに暮らすことになる。

翌1542年(天文11年)大事件が起こる。
武田信虎が息子の武田晴信によって追放されるのだ。

真田幸隆はこれに目を付けていた。
前年の一族の四散により、幸隆は一族の居場所の確認、連絡等などの手段で甲斐、信濃の情勢を事細かに知っていたのかもしれない。
おそらくこのときには武田晴信の風評も幸隆の耳に入っていたのではないだろうか。

幸隆は父 海野棟綱に進言する。
「武田晴信に臣従し旧領を回復すべし」

しかし、父 海野棟綱がこれを許すべくもない。
「仇敵 武田と手を組むなど有り得ん、関東管領 上杉憲政様のお力を借りればよい」

時代が見えない父と情報をかき集めた幸隆の意見が違えた瞬間だった。

それ以後、海野棟綱の姿は歴史から名を消す。

ひょっとすると・・・・・抹殺されたのか?

父を追い出し、甲斐を掌握した武田晴信は、妹婿の諏訪頼重を滅ぼし、信州へ進攻していた。
晴信は信州進攻のための力として、浪人中の真田幸隆を招聘するのだ。
小豪族蠢く信州で、滋野海野氏の嫡流である真田の力があれば、小豪族を容易く取り込むことが出来ると思ったのだろう。

真田幸隆はこうして武田晴信に仕えることになる。

幸隆は晴信から東信濃の諸族を懐柔させることを任される。
同族ひしめく東信濃である、幸隆にとっては造作もない仕事だったのだろう。
見事な手腕で取り込んで行く。

こうして晴信の元、真田幸隆は力をつけていく。
1550年(天文19年)武田晴信村上義清が守る戸石城を攻めていた。
戸石は先の武田信虎の進攻の際、奪い取られた地元であり、幸隆にとっても旧領回復のための戦であった。
おそらく戸石攻めを武田晴信に提案したのは幸隆ではなかったのだろうか。
現に幸隆は善光寺南部の清野氏などを誘いの手を伸ばし、これを組入れている。

しかし結果は晴信の敗戦におわる。
村上義清が全軍あげて戸石城の援軍に来たためである。

この戦いは「戸石崩れ」といい信玄公の数少ない敗戦の一つである。
半年後、幸隆は不意に戸石城を乗っ取るのである。
おそらく自慢の調略で城内部から瓦解させたのだろう。こうして犠牲もなく戸石を奪還し旧真田領は回復することが出来のだ。

こうして真田幸隆は戸石を自城とし、嫡男 信綱、次男 昌輝、三男 昌幸 四男 信尹と男子にも恵まれ真田家安泰の道を歩き始めたのである。

村上軍来襲、援軍求む!
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