2008年03月12日
川中島の戦い 真田幸隆出陣
真田幸隆が戸石城を落とすことにより、勢いを失っていった村上義清。
真田幸隆はこの好機を逃がす事無く、村上義清征伐の計略を進めるのだ。
この幸隆の計略の効果もあり、武田晴信は1553年(天文22年)葛尾城を落城させ、村上義清を追い出す。村上は越後の長尾景虎を頼り逃げていくのである。

村上からの助けを求められた長尾景虎は早速、信濃に兵を繰り出す。
武田、長尾両軍は川中島にて激突することになる。第1次川中島の戦い である。
当然ながら真田幸隆も出陣している。
真田はその後も越後勢の最前線である真田本城を本拠地とし、戸石城番を兼ねるのだ。
1555年善光寺の栗田鶴寿が武田方に寝返り、善光寺平の大半が武田氏の勢力下になったことにより、長尾景虎は善光寺奪回のため出陣。第2次川中島の戦い である。
200日余におよぶ長期にわたり対陣であったが決着はつかず、駿河の今川義元の仲介で和睦両軍ともに兵を収めている。
しかし、1557年(弘治3年)武田は和睦を破るのだ。第3次川中島の戦い である。
武田晴信は真田幸隆に雨飾城を攻略させ、その後も小山田昌辰とともに城番を務めている。
結局大きな戦い等もなく両軍ともに兵を引き上げていくのである。
このあと川中島一帯をほぼ手中にした武田は海津城を築く。
そしてこの海津城を中心に1561年 第4次川中島の戦い が繰り広げられる。
両軍の睨み合いが続き膠着状態になりつつあったとき、山本勘介が兵を二手に分ける、大規模な別働隊の編成を献策した。
この別働隊に妻女山の上杉軍を攻撃させ、上杉軍が勝っても負けても山を下るから、これを平野部に布陣した本隊が待ち伏せし、別働隊と挟撃して殲滅する作戦である。
世に言う「啄木鳥戦法」である。
真田幸隆はその別働隊のほうで活躍するのだ。
しかし、海津城の雰囲気を微妙に察知した上杉謙信は妻女山を下り、信玄の目の前に陣を敷く。
朝靄の中、気がつくと武田軍の目の前に上杉軍が迫っていた。
準備が出来ていない武田と、準備万端の上杉では戦にならず、武田方は武田信繁、山本勘介などが討死にしていく。
一方、真田幸隆を初めとする別働隊は妻女山に行ってみて驚く。そこには誰も居ないのだ。
そうこうしていると川中島のほうで喊声が聞こえる。
幸隆は急いで妻女山を下り、千曲川を越え上杉軍の背後から攻めかかるのだ。
挟み撃ちにされては上杉軍もたまらない。上杉謙信はそのまま兵を善光寺まで推し進め合戦は終了する。
結果的には武田は多くの将を失ったが、川中島一帯はほぼ武田の勢力圏になった。
信玄は幸隆を今度はかつての逃亡先の上州調略に送り込む。
1563年幸隆にとっては苦しい戦いがおこる。
岩櫃城主 斉藤憲広が上杉方に寝返ったため、真田幸隆は岩櫃城攻略の総大将に任じられ岩櫃城を攻略する。
このいわ櫃城には妻の実父、羽尾幸全も籠もっており、幸隆はかつて庇護してくれた恩人おも殺害せねばならなくなった。
ここでも幸隆は得意の調略で内応者を作り、城を内部から破壊し岩櫃城を陥落させた。
翌1564年 五度武田、上杉両軍は川中島で激突する。第5次川中島の戦い である。
結局この戦いも大きな戦はなく、2ヶ月間の対陣ののち両軍ともに兵を引き上げていく。
以後、信玄は東海道や美濃、上野方面に向かって勢力を拡大し、謙信は関東出兵に力を注ぎ、川中島で大きな戦いが行われることはなかった。
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真田幸隆はこの好機を逃がす事無く、村上義清征伐の計略を進めるのだ。
この幸隆の計略の効果もあり、武田晴信は1553年(天文22年)葛尾城を落城させ、村上義清を追い出す。村上は越後の長尾景虎を頼り逃げていくのである。

村上からの助けを求められた長尾景虎は早速、信濃に兵を繰り出す。
武田、長尾両軍は川中島にて激突することになる。第1次川中島の戦い である。
当然ながら真田幸隆も出陣している。
真田はその後も越後勢の最前線である真田本城を本拠地とし、戸石城番を兼ねるのだ。
1555年善光寺の栗田鶴寿が武田方に寝返り、善光寺平の大半が武田氏の勢力下になったことにより、長尾景虎は善光寺奪回のため出陣。第2次川中島の戦い である。
200日余におよぶ長期にわたり対陣であったが決着はつかず、駿河の今川義元の仲介で和睦両軍ともに兵を収めている。
しかし、1557年(弘治3年)武田は和睦を破るのだ。第3次川中島の戦い である。
武田晴信は真田幸隆に雨飾城を攻略させ、その後も小山田昌辰とともに城番を務めている。
結局大きな戦い等もなく両軍ともに兵を引き上げていくのである。
このあと川中島一帯をほぼ手中にした武田は海津城を築く。
そしてこの海津城を中心に1561年 第4次川中島の戦い が繰り広げられる。
両軍の睨み合いが続き膠着状態になりつつあったとき、山本勘介が兵を二手に分ける、大規模な別働隊の編成を献策した。
この別働隊に妻女山の上杉軍を攻撃させ、上杉軍が勝っても負けても山を下るから、これを平野部に布陣した本隊が待ち伏せし、別働隊と挟撃して殲滅する作戦である。
世に言う「啄木鳥戦法」である。
真田幸隆はその別働隊のほうで活躍するのだ。
しかし、海津城の雰囲気を微妙に察知した上杉謙信は妻女山を下り、信玄の目の前に陣を敷く。
朝靄の中、気がつくと武田軍の目の前に上杉軍が迫っていた。
準備が出来ていない武田と、準備万端の上杉では戦にならず、武田方は武田信繁、山本勘介などが討死にしていく。
一方、真田幸隆を初めとする別働隊は妻女山に行ってみて驚く。そこには誰も居ないのだ。
そうこうしていると川中島のほうで喊声が聞こえる。
幸隆は急いで妻女山を下り、千曲川を越え上杉軍の背後から攻めかかるのだ。
挟み撃ちにされては上杉軍もたまらない。上杉謙信はそのまま兵を善光寺まで推し進め合戦は終了する。
結果的には武田は多くの将を失ったが、川中島一帯はほぼ武田の勢力圏になった。
信玄は幸隆を今度はかつての逃亡先の上州調略に送り込む。
1563年幸隆にとっては苦しい戦いがおこる。
岩櫃城主 斉藤憲広が上杉方に寝返ったため、真田幸隆は岩櫃城攻略の総大将に任じられ岩櫃城を攻略する。
このいわ櫃城には妻の実父、羽尾幸全も籠もっており、幸隆はかつて庇護してくれた恩人おも殺害せねばならなくなった。
ここでも幸隆は得意の調略で内応者を作り、城を内部から破壊し岩櫃城を陥落させた。
翌1564年 五度武田、上杉両軍は川中島で激突する。第5次川中島の戦い である。
結局この戦いも大きな戦はなく、2ヶ月間の対陣ののち両軍ともに兵を引き上げていく。
以後、信玄は東海道や美濃、上野方面に向かって勢力を拡大し、謙信は関東出兵に力を注ぎ、川中島で大きな戦いが行われることはなかった。
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