2008年03月24日
真田幸村の叔父 真田信綱
武田二十四将にその名を残す勇将、真田信綱
真田幸隆の嫡男として生まれて武田信玄に仕える。
武田家へ仕えているが初陣や出仕時期など前半生は資料が少なく不明である。
『甲陽軍鑑』によれば1561年(永禄4年)の第4次川中島の戦いでは父・幸隆と共に妻女山攻撃の別働隊に加わっていたという。

1563年(永禄6年)岩櫃城攻略くらいから真田信綱の名前は見られるようになる。
この頃には信玄は信綱を一人前の武将として扱うようになっており、信玄と共に方々に出陣していく。
1566年(永禄11年)武田信玄が今川氏真を攻め、真田信綱は最前線にて活躍し、見事今川氏真を追放。
その後信玄の小田原攻めに従軍し、背後からの北条軍の攻撃に備える役目を果たしている。
撤退時の三増峠の戦いでは弟の真田昌輝や内藤昌豊とともに殿軍を務めて戦功を挙げている。
三方原の戦いでも最前線で奮戦し武功を立てている。
徳川家康を打ち破りそのまま西上をしていた武田軍だが、信玄が陣中で病死してしまう。
信玄のあとを追うように真田幸隆も没すると信綱は正式に真田家を継ぐのだが、武田家を継いだ武田勝頼は信玄の遺言を無視し織田信長・徳川家康連合軍と長篠で対陣する。
真田信綱もこれに従軍した。
長篠城に立てこもる奥平定昌を攻めるが城は落ちずに、織田・徳川連合軍は設楽原に布陣。
信綱は山県昌景とともに撤退を主張するのだが、勝頼に聞き入れられず武田軍右翼を担うことになる。
信綱達の奮戦は凄まじく、織田対は次第に圧されていくが、武田軍も被害が甚大で戦闘継続が困難になった。
武田勝頼は撤退を命じると信綱はまたしても殿軍にて獅子奮迅の働きをするが、疲れも次第に大きくなり最後には弟・昌輝とともに討ち死にしてしまうのだ。
享年39歳であった。
真田信綱の首は家臣の白河兄弟が信綱の着用していた陣羽織に包み信綱寺に持ち帰っている。
このときの陣羽織は「血染めの陣羽織」として今もなお信綱寺に奉納されている。

信綱寺
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真田幸隆の嫡男として生まれて武田信玄に仕える。
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この頃には信玄は信綱を一人前の武将として扱うようになっており、信玄と共に方々に出陣していく。
1566年(永禄11年)武田信玄が今川氏真を攻め、真田信綱は最前線にて活躍し、見事今川氏真を追放。
その後信玄の小田原攻めに従軍し、背後からの北条軍の攻撃に備える役目を果たしている。
撤退時の三増峠の戦いでは弟の真田昌輝や内藤昌豊とともに殿軍を務めて戦功を挙げている。
三方原の戦いでも最前線で奮戦し武功を立てている。
徳川家康を打ち破りそのまま西上をしていた武田軍だが、信玄が陣中で病死してしまう。
信玄のあとを追うように真田幸隆も没すると信綱は正式に真田家を継ぐのだが、武田家を継いだ武田勝頼は信玄の遺言を無視し織田信長・徳川家康連合軍と長篠で対陣する。
真田信綱もこれに従軍した。
長篠城に立てこもる奥平定昌を攻めるが城は落ちずに、織田・徳川連合軍は設楽原に布陣。
信綱は山県昌景とともに撤退を主張するのだが、勝頼に聞き入れられず武田軍右翼を担うことになる。
信綱達の奮戦は凄まじく、織田対は次第に圧されていくが、武田軍も被害が甚大で戦闘継続が困難になった。
武田勝頼は撤退を命じると信綱はまたしても殿軍にて獅子奮迅の働きをするが、疲れも次第に大きくなり最後には弟・昌輝とともに討ち死にしてしまうのだ。
享年39歳であった。
真田信綱の首は家臣の白河兄弟が信綱の着用していた陣羽織に包み信綱寺に持ち帰っている。
このときの陣羽織は「血染めの陣羽織」として今もなお信綱寺に奉納されている。

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