2008年03月26日

大谷吉継 賤ヶ岳の嘆き

大谷吉継は近江で豊臣秀吉に見出され重用されていく話は先にもしたが(ココ参照

大谷吉継のイメージはどうしても事務的なイメージが強いようで、同じ小姓の加藤清正福島正則らと比べれるとどうしても事務派に見られがちである。
しかし、その実は秀吉に「百万の軍勢を指揮させてみたい」と言わしめた力量の持ち主である。

では何故に事務方のイメージが強くなってしまったのであろうか?

まず一つには親友・石田三成の存在は切っても切れないだろう。

当時三成は秀吉の下、才能を発揮し出世街道を歩んでいた。
当然三成と親友である吉継は三成に何かと便利に使われているうちに文治方面の担当が多くなっていってしまったのだろう。
元々、文武両道をこなせる大谷吉継であるから三成の要請でこなす仕事も難なく処理してしまうので秀吉が上手に配置した者だと思われる。

2つ目には秀吉騎下の武勇派が充実していたことも起因している。

時は天正11年(1583年)中国大返しで明智光秀を討った秀吉は、清洲会議において織田家中の実験を握ろうとしていた。
これを良しと思わぬ柴田勝家は秀吉に宣戦布告。

柴田側に付く者には佐久間盛政佐々成正前田利家など織田家中の剛の者がいた。

秀吉はそんな中、大垣城に拠りまずは、岐阜城に籠もる神戸信孝を攻めていた。
岐阜城攻めは長らく降る雨のために揖斐川が増水し、難航を極めていたのだ。
これを好機と見た柴田勝家佐久間盛政を琵琶湖の湖北に出し、秀吉が築かせていた砦を攻めさせた。

秀吉側も中川清秀が奮戦するものの衆寡敵せずで砦は陥落、中川清秀も討死にしてしまう。
勢いに乗る佐久間勢は賤ヶ岳の砦を目指すのだ。
これを大垣城にて聞いた秀吉諸将は慌てるが、当の秀吉は「勝算我にあり」とし、次々と指示を出し、そして美濃街道を疾駆した。

その後を追うように加藤清正福島正則加藤嘉明片桐且元脇坂安治らが追従していく。
その中に大谷吉継の姿はなかった。

吉継は類まれな才能により、秀吉から街道沿いに松明と兵糧を用意させる役を命じられその段取りに奔走していたのだ。
そのために吉継が大垣城を出て賤ヶ岳に到着する頃には戦は峠をこえ、勝敗は羽柴軍に決していた。

先に秀吉と共に駆けていった清正達は鬼神の如く働き、賤ヶ岳の七本槍と称されるようになる。
吉継はこの事に落胆し、嘆いたという。

その後は戦において最も目立たぬ兵站を繋ぐ役目を担うことが多くなるのだが、この兵站を繋ぐことが戦においてもっとも重要なことであることを知っていた秀吉は大谷吉継に任せたのだろう。

前線で槍働きをするのは誰にでもできることである。
ましてや槍働きだけが取り得の猛者は数は揃っている。
大事な兵站を繋ぎ、前線を見殺しにしないようにすることはすべてにおいて目が行き届かないと出来ないことである。

吉継はこの目立たぬ仕事をこなしながらも、その力量を武断派にも認められるほどの存在だったのである。

三成と違い、誰からも愛されるのはそんな姿があるからだろう。
まさに仁の将、大谷吉継である。

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