2008年03月27日
鎮西一の将 立花宗茂
「その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一。」と呼ばれた立花宗茂。
そもそもいつからそう呼ばれるようになったのか。

それは宗茂が豊臣秀吉と出会ってからであろう。
秀吉と宗茂が出会うのは島津義久を筆頭とする島津軍が龍造寺隆信を降し大友領に攻めてきたころである。
勢います島津勢は肥前からは島津義弘率いる4万の軍勢、日向方面からは島津家久率いる5000の軍勢が進んでおり、これに困った大友宗麟は天下人に近づいていた豊臣秀吉に援軍を請うことにする。
肥前から進攻していた島津義弘軍は肥後、筑後を落とし筑前に迫まり、これに対し大友家は筑前岩屋城に大友家の勇将・高橋紹運が籠もっており島津軍を迎え撃とうとしていた。
このとき立花宗茂は父・紹運に立花城へ撤退することを進めるのだが、紹運はこれを拒否。
結局7月27日高橋紹運以下城兵、763名全員が壮絶な討死を遂げる。(ココを参照して)

岩屋城において甚大な被害を出した島津軍であったが、勢いはついており、そのまま宗茂の籠もる立花山城へと押寄せ、包囲し降伏を勧告してくるのだ。
宗茂は城兵1500あまり、対する島津軍は4万、どう見ても勝算はない
しかし立花宗茂は即座に言い放つ
「降伏するわけにはいきません。我が父・紹運は大友家のため、我らのために島津殿と干戈を交え岩屋にて義死したのです。弔い合戦は望むところ、潔く討死にする所存なれば早々にこの立花山城を攻められるが宜しかろう。弓矢鉄砲にて会釈いたす。」
しかし島津軍は先の岩屋城の戦いで疲弊していたし、立花山城は岩屋城よりも要害堅固であり、まもる立花宗茂は高橋紹運の実子であり、あの立花道雪を義父にもつ、衰勢の大友氏に見切りをつける武将が多い中、節義を貫き通してきた2将の薫陶を受けて育ってきた男である。
島津義弘は慎重になっていた。
無為に包囲を続けている間に豊臣の援軍先発隊が九州に上陸した。
危機を感じた島津軍は8月23日立花山城の包囲を解き撤退を開始、これを見た宗茂はすぐさま島津軍を追撃し敵兵を討ち取っていく。
25日には父の岩屋城を奪取、続いて宝満城を奪い返し筑前を奪還する。
この時期まだ大坂にいた秀吉は甚く宗茂の戦功に悦び、「九州之一物」と絶賛、その後の秀吉の九州平定でも活躍した宗茂は柳川13万石に封じられることになる。
九州平定後の小田原の陣の折も諸大名居並ぶ中、秀吉は「東の本多平八、西の立花左近、東西一対の武将」とその名将ぶりを褒め称えた。
それ以後、立花宗茂「その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一。」と言われるようになったのです。
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それは宗茂が豊臣秀吉と出会ってからであろう。
秀吉と宗茂が出会うのは島津義久を筆頭とする島津軍が龍造寺隆信を降し大友領に攻めてきたころである。
勢います島津勢は肥前からは島津義弘率いる4万の軍勢、日向方面からは島津家久率いる5000の軍勢が進んでおり、これに困った大友宗麟は天下人に近づいていた豊臣秀吉に援軍を請うことにする。
肥前から進攻していた島津義弘軍は肥後、筑後を落とし筑前に迫まり、これに対し大友家は筑前岩屋城に大友家の勇将・高橋紹運が籠もっており島津軍を迎え撃とうとしていた。
このとき立花宗茂は父・紹運に立花城へ撤退することを進めるのだが、紹運はこれを拒否。
結局7月27日高橋紹運以下城兵、763名全員が壮絶な討死を遂げる。(ココを参照して)

岩屋城において甚大な被害を出した島津軍であったが、勢いはついており、そのまま宗茂の籠もる立花山城へと押寄せ、包囲し降伏を勧告してくるのだ。
宗茂は城兵1500あまり、対する島津軍は4万、どう見ても勝算はない
しかし立花宗茂は即座に言い放つ
「降伏するわけにはいきません。我が父・紹運は大友家のため、我らのために島津殿と干戈を交え岩屋にて義死したのです。弔い合戦は望むところ、潔く討死にする所存なれば早々にこの立花山城を攻められるが宜しかろう。弓矢鉄砲にて会釈いたす。」
しかし島津軍は先の岩屋城の戦いで疲弊していたし、立花山城は岩屋城よりも要害堅固であり、まもる立花宗茂は高橋紹運の実子であり、あの立花道雪を義父にもつ、衰勢の大友氏に見切りをつける武将が多い中、節義を貫き通してきた2将の薫陶を受けて育ってきた男である。
島津義弘は慎重になっていた。
無為に包囲を続けている間に豊臣の援軍先発隊が九州に上陸した。
危機を感じた島津軍は8月23日立花山城の包囲を解き撤退を開始、これを見た宗茂はすぐさま島津軍を追撃し敵兵を討ち取っていく。
25日には父の岩屋城を奪取、続いて宝満城を奪い返し筑前を奪還する。
この時期まだ大坂にいた秀吉は甚く宗茂の戦功に悦び、「九州之一物」と絶賛、その後の秀吉の九州平定でも活躍した宗茂は柳川13万石に封じられることになる。
九州平定後の小田原の陣の折も諸大名居並ぶ中、秀吉は「東の本多平八、西の立花左近、東西一対の武将」とその名将ぶりを褒め称えた。
それ以後、立花宗茂「その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一。」と言われるようになったのです。
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