2008年04月09日

直江兼続 謙信の遺風

謙信の遺風 直江兼続
太閤秀吉の死後2年、徳川家康はその本性をあらわす。
五大老の頂点にあった家康は、毛利輝元上杉景勝宇喜多秀家前田利常の四大老を理由をつけ領国に帰国させ政権を握ろうとしていた。
そして家康は邪魔な存在の者を潰す算段をする。

まず最初に餌食になったのは加賀100万石の前田利長であった。

前田利家亡き後、その跡を継いだ利長だったが、母、芳春院から見れば家康には対抗できる器量がないと見たのだろう。
自らを質として江戸に赴くことにより加賀を魔手から解き放った。

次に家康が目を付けたのは上杉景勝であった。
上杉謙信公以来の武門の誉れをもつ上杉家が邪魔であった。
上杉家は筋の通らないこと断固拒否し、独自の家風、政治外交を貫いていくことを家風としている。
よって家康の脅しなどには屈することはなかった。
この家風を誰よりも重視していたのは、直江兼続である。

上杉景勝が城郭、街道、などを整備し浪人を多数召抱えていることに、家康は謀反の疑いありと難癖をつけ、これを弁明したければ上洛して説明せよと言ってきた。
まったく頭の可笑しな話で、上杉は2年前に太閤から越後55万石から会津120万石に移封され、その後国許に帰っていなかったために国政を行っておらず、新しい国において早く統治し、国造りをするのは当たり前だった。


ここで出てくるのが直江兼続の痛快文書『直江状』である。

「我が主景勝が謀反の企みを持っているなどとは、真に見当違いのことである。家康殿は、我が主が大勢の家臣を召抱え、城・石垣を修築し、武具・兵糧を確保していることを謀反の理由としているが、これは当然のことである。我が主はつい最近、五十五万石から百二十万石に加増されたのであるから、大勢の家臣を召抱えるのは、国の治安を守るため当然のことであろう。更に当然、そのような状況であれば、城・石垣を修築するのも当然のことである。武具や兵糧を集めるのは、我らが東国の田舎武士だからである。上方の武士は香り高い茶器などを集めるが、我ら粗野な田舎武士は未だ戦国の世を忘れられず、それゆえに武具や兵糧を集めるのである。これは文化の違いである。
これらをもって謀反の疑い有りといい、上洛を促すのは、むしろ家康殿に他意があるとも思えるのではないか。それに讒訴する者の言葉だけを取り入れ、我が主を謀反人扱いする、更にこちらが雪で動けぬ時に上洛を促すなど、道理も通らぬではないか。
 ここは一度、こちらに人をよこし事の真相を究明すべきではないのか。もしどうしても我が主を謀反人に仕立て上げたいのならば、勝手に致すがよい。こちらとしても家康殿の傍若無人振りを見過ごしては置けぬから、我が家の武名にかけて徳川の軍をお相手いたす」


直江状----参考サイト

といった内容の文書を家康に送りつけたのである。
こんな文書を勝算もなく兼続が送るとは思えない。おそらくこの時点で石田三成との間に何らかの密約があったのではないだろうか。

かくしてこの直江状を読んだ家康は悔しがるどころか、改めて上杉景勝を筆頭とし、名参謀、直江兼続のいる上杉家を強敵とし、兼続の智謀心胆を褒めたという。

上記の参考サイトと見てもらうと分かるのだが、兼続は景勝の代わりに色々と家康に言っている。
このことからも分かるように兼続と景勝は相当強い絆で結ばれていたのであろう。

徳川家康も認めた男、直江兼続
痛快無比の直江状であった。

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この記事へのコメント
始めまして、楽しく拝見しています。1点誤りがあるかと思います。前田利常ではなく、前田利長と思います。
Posted by 蟠龍斎 at 2008年04月10日 01:23