2008年04月14日
真田昌幸 幸運の持ち主
かの徳川の大軍を2度までも破った男 真田昌幸。
いまさら説明するまでもないが、真田幸村の父である。

世の中には「運も才能のうち」等という言葉がある。実際に昌幸には「運」はあったのだろう。
昌幸はもともと真田幸隆の三男として生まれている。
そのため武藤性を与えられ武藤喜兵衛と表してしたのだが、長篠の戦いで長兄・信綱、次兄・昌輝が討ち死にしてしまうことによって真田家の家督を継ぐことになったのだ。そしてその事により武田家が滅亡した際に独立した大名となることが出来た。
これは昌幸にとっては「運」が良かったのだろう。
真田昌幸は1547年(天文16年)真田幸隆の三男として生まれた。幼名を源五郎といった。
天文22年、昌幸が9歳のとき幸隆は昌幸を甲府に送る。これは武田信玄に対する忠誠の意味もあり、人質のようなものだった。
現に昌幸の甲府行きと引き換えに真田幸隆は上田付近の所領を貰っている。
甲府へ行った昌幸はまさに「運」が良かったのだろう。
信玄の小姓となり、間近で信玄の軍略を見ることが出来、また信玄も昌幸の才能を認めたのか重用していく。
歴史的な資料をみても、信玄の傍らには昌幸の名が出ており、『甲陽軍鑑』には1561年(永禄4年)の第4次川中島の戦いのとき、土屋昌次と真田喜兵衛だけが信玄の床几の側から離れなかったと記されているほか、事あるごとに真田喜兵衛・武藤喜兵衛の名が出てくる。
『甲陽軍鑑』の記事なので確実性には薄いが、 『甲陽軍鑑』で真田を持ち上げる必要はないので、実際に昌幸は信玄の傍らで重要なポジションを担っていたことは窺われる。
しかし、1573年武田信玄が西上中に病死してしまう。
このことは武田家に仕えるすべての人の運命を変えていく、信玄公亡き後をとった武田勝頼は信玄没後のドサクサに紛れて長篠城が奪われていたものを憤慨し、これを奪還しようとする。
長篠城を囲んだ勝頼だったがなかなか攻略することが出来ず、そうこうしているうちに、織田信長・徳川家康連合軍3万が押寄せてきた。
勝頼は1万5千の兵で無謀な戦を挑む!
設楽原にて織田・徳川相手に策もなく攻撃した武田軍は大敗。
山県昌景、馬場美濃守ら武田の重臣たちが尽く討死にしてしまった。
真田昌幸の兄、真田信綱、真田昌輝もこの長篠の戦いで討死にしてしまったのだ。
このために昌幸は真田家を継ぐことになる。
家督を継いだ昌幸は、父や兄の任務を継承し沼田城の攻略にあたる。
まず、昌幸は名胡桃城を改修し、ここを拠点として沼田城を攻めた。
その甲斐もあり1580年(天正8年)沼田城の金子美濃守、渡辺左近允が降伏してきた。そして1ヵ月後には沼田城主の藤田信吉も降伏し、昌幸は沼田城を手に入れるのである。
長篠の戦い以後、衰退しつつある武田家の中で昌幸は一人奮戦していたのだが、時勢の流れはどうしようもなく、武田家は滅亡に向かい進んでいく。
きっかけは木曾義昌の謀反で始まった。。。。
武田一門であった義昌は織田に寝返った、これにより伊那方面から織田勢が怒涛のように流れ込んでくるのである。
信玄公の弟・武田信廉も自城の大島城を捨て新府城に逃げてしまう。唯一仁科盛信だけが高遠城に籠もり抵抗したが、僅か半日で落城してしまっている。
ちょうどその頃、真田昌幸は武田勝頼とともに新府城におり、これから最大の危機を迎えようとしている武田家の軍議に参加するのだった。
真田の武しかと見よ!
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いまさら説明するまでもないが、真田幸村の父である。

世の中には「運も才能のうち」等という言葉がある。実際に昌幸には「運」はあったのだろう。
昌幸はもともと真田幸隆の三男として生まれている。
そのため武藤性を与えられ武藤喜兵衛と表してしたのだが、長篠の戦いで長兄・信綱、次兄・昌輝が討ち死にしてしまうことによって真田家の家督を継ぐことになったのだ。そしてその事により武田家が滅亡した際に独立した大名となることが出来た。
これは昌幸にとっては「運」が良かったのだろう。
真田昌幸は1547年(天文16年)真田幸隆の三男として生まれた。幼名を源五郎といった。
天文22年、昌幸が9歳のとき幸隆は昌幸を甲府に送る。これは武田信玄に対する忠誠の意味もあり、人質のようなものだった。
現に昌幸の甲府行きと引き換えに真田幸隆は上田付近の所領を貰っている。
甲府へ行った昌幸はまさに「運」が良かったのだろう。
信玄の小姓となり、間近で信玄の軍略を見ることが出来、また信玄も昌幸の才能を認めたのか重用していく。
歴史的な資料をみても、信玄の傍らには昌幸の名が出ており、『甲陽軍鑑』には1561年(永禄4年)の第4次川中島の戦いのとき、土屋昌次と真田喜兵衛だけが信玄の床几の側から離れなかったと記されているほか、事あるごとに真田喜兵衛・武藤喜兵衛の名が出てくる。
『甲陽軍鑑』の記事なので確実性には薄いが、 『甲陽軍鑑』で真田を持ち上げる必要はないので、実際に昌幸は信玄の傍らで重要なポジションを担っていたことは窺われる。
しかし、1573年武田信玄が西上中に病死してしまう。
このことは武田家に仕えるすべての人の運命を変えていく、信玄公亡き後をとった武田勝頼は信玄没後のドサクサに紛れて長篠城が奪われていたものを憤慨し、これを奪還しようとする。
長篠城を囲んだ勝頼だったがなかなか攻略することが出来ず、そうこうしているうちに、織田信長・徳川家康連合軍3万が押寄せてきた。
勝頼は1万5千の兵で無謀な戦を挑む!
設楽原にて織田・徳川相手に策もなく攻撃した武田軍は大敗。
山県昌景、馬場美濃守ら武田の重臣たちが尽く討死にしてしまった。
真田昌幸の兄、真田信綱、真田昌輝もこの長篠の戦いで討死にしてしまったのだ。
このために昌幸は真田家を継ぐことになる。
家督を継いだ昌幸は、父や兄の任務を継承し沼田城の攻略にあたる。
まず、昌幸は名胡桃城を改修し、ここを拠点として沼田城を攻めた。
その甲斐もあり1580年(天正8年)沼田城の金子美濃守、渡辺左近允が降伏してきた。そして1ヵ月後には沼田城主の藤田信吉も降伏し、昌幸は沼田城を手に入れるのである。
長篠の戦い以後、衰退しつつある武田家の中で昌幸は一人奮戦していたのだが、時勢の流れはどうしようもなく、武田家は滅亡に向かい進んでいく。
きっかけは木曾義昌の謀反で始まった。。。。
武田一門であった義昌は織田に寝返った、これにより伊那方面から織田勢が怒涛のように流れ込んでくるのである。
信玄公の弟・武田信廉も自城の大島城を捨て新府城に逃げてしまう。唯一仁科盛信だけが高遠城に籠もり抵抗したが、僅か半日で落城してしまっている。
ちょうどその頃、真田昌幸は武田勝頼とともに新府城におり、これから最大の危機を迎えようとしている武田家の軍議に参加するのだった。
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