2008年04月20日
真田昌幸 最後の策
真田信幸の助命嘆願により命を助けられた真田昌幸と幸村親子。
高野山は九度山に幽閉となる。
昌幸と幸村は家臣16名と妻子をともない九度山へ向かった。
まず、高野山蓮華定院に寄り、それから麓の九度山に落ち着いた。
時に昌幸54歳、幸村34歳のこと。
九度山での生活は罪人の閉居生活とはいえ自由なものであった。山狩りや、川狩りを楽しむことも出来た。
しかし、昌幸以下の大世帯が生活するのは資金的にはかなり苦しいものだったようである。
九度山に移った昌幸達に生活資金を生み出す力はない。
生活費は国許の仕送りに頼らざるを得ない、それと蓮華定院からの僅かばかりの年貢と、和歌山城主・浅野長晟から毎年50石を送られていたに過ぎない。
昌幸達はたびたび国許に金子を無心している。
このような状態だった為、とても挙兵に備えて武器弾薬を揃えること等、不可能であろう。
国許の上田からは小松殿や旧臣たちから鮭・白布・扇子など金品も多く届けられ書状も頻繁にやり取りされていた。
そんな苦しい状況の中、昌幸は下山の夢を見ていた。
1603年(慶長8年)昌幸は信綱寺の住職に手紙で「内府様は当夏中に関東へ下向されるそうですが、私のことを本多佐渡守が御披露くださるでしょう。下山したらお目にかかりましょう」等といった内容のこと言っている。
配流してわずか2年ばかりの話である。

昌幸の想いとは裏腹に歳月ばかりが過ぎていく。
配流期間が長くなると昌幸は次第に気力も体力も弱くなってきており、慶長15年くらいの手紙には昨年から病に伏せがちで今年も容態はよろしくないとか、娘婿の小山田家の小宰相なる女性に病のために食事もできないなど語っている。
昌幸は親として子に懇願することの抵抗もあったのだろう信之宛の手紙はない。
だがたった1通だけ昌幸が信之に宛てた手紙がある。
それは幸村の代筆で
そちらの様子を長らく承らないので、青木半左衛門を使者として下します。
おかわりないか承りたい。こちらは変わったこともないから御安心ください。しかし、この一両年は年をしたため、気根がくたびれました。
万事、こちらの様子お察しください。
追伸
珍しくもありませんが、派璃の盆一つ、同じく灯盞二つ進上いたします。書状のついでです。
次に左衛門佐が慮外ながら言伝申し入れます。
先書に申し上げましたように、ここもと長々の御山居、よろず、御不自由、御推量ください。
我等手前などはなおさら大くたびれ者になりました。御想像以上です。
幸村ならではこその気兼ねない兄への文面なのだろう。
こうして昌幸は九度山にて困窮する生活の中、迫りくる老病のなかで赦免という一縷の望みだけを頼りに生きていた。
そこには豊臣秀吉をして「表裏比興の者」といわしめた姿はなかった。
1611年(慶長16年)6月4日、真田昌幸は九度山にて死去する。享年65歳であった。
昌幸は死に臨んで幸村に「あと3年命が延びぬのが残念だ。3年のうちに必ず事が起きる。其のときは真っ先に馳せ参じ、必ず徳川を滅ぼしてみせようものを」と語っていた。
そして真田昌幸の予言とおり昌幸の死後、3年後、江戸と大坂は手切れとなるのだ。
真田幸村最後の華が咲く大坂の陣が吹き荒れる。
幸村は臨終の再、父 昌幸が語った最後の策を提案するのである。
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高野山は九度山に幽閉となる。
昌幸と幸村は家臣16名と妻子をともない九度山へ向かった。
まず、高野山蓮華定院に寄り、それから麓の九度山に落ち着いた。
時に昌幸54歳、幸村34歳のこと。
九度山での生活は罪人の閉居生活とはいえ自由なものであった。山狩りや、川狩りを楽しむことも出来た。
しかし、昌幸以下の大世帯が生活するのは資金的にはかなり苦しいものだったようである。
九度山に移った昌幸達に生活資金を生み出す力はない。
生活費は国許の仕送りに頼らざるを得ない、それと蓮華定院からの僅かばかりの年貢と、和歌山城主・浅野長晟から毎年50石を送られていたに過ぎない。
昌幸達はたびたび国許に金子を無心している。
このような状態だった為、とても挙兵に備えて武器弾薬を揃えること等、不可能であろう。
国許の上田からは小松殿や旧臣たちから鮭・白布・扇子など金品も多く届けられ書状も頻繁にやり取りされていた。
そんな苦しい状況の中、昌幸は下山の夢を見ていた。
1603年(慶長8年)昌幸は信綱寺の住職に手紙で「内府様は当夏中に関東へ下向されるそうですが、私のことを本多佐渡守が御披露くださるでしょう。下山したらお目にかかりましょう」等といった内容のこと言っている。
配流してわずか2年ばかりの話である。

昌幸の想いとは裏腹に歳月ばかりが過ぎていく。
配流期間が長くなると昌幸は次第に気力も体力も弱くなってきており、慶長15年くらいの手紙には昨年から病に伏せがちで今年も容態はよろしくないとか、娘婿の小山田家の小宰相なる女性に病のために食事もできないなど語っている。
昌幸は親として子に懇願することの抵抗もあったのだろう信之宛の手紙はない。
だがたった1通だけ昌幸が信之に宛てた手紙がある。
それは幸村の代筆で
そちらの様子を長らく承らないので、青木半左衛門を使者として下します。
おかわりないか承りたい。こちらは変わったこともないから御安心ください。しかし、この一両年は年をしたため、気根がくたびれました。
万事、こちらの様子お察しください。
追伸
珍しくもありませんが、派璃の盆一つ、同じく灯盞二つ進上いたします。書状のついでです。
次に左衛門佐が慮外ながら言伝申し入れます。
先書に申し上げましたように、ここもと長々の御山居、よろず、御不自由、御推量ください。
我等手前などはなおさら大くたびれ者になりました。御想像以上です。
幸村ならではこその気兼ねない兄への文面なのだろう。
こうして昌幸は九度山にて困窮する生活の中、迫りくる老病のなかで赦免という一縷の望みだけを頼りに生きていた。
そこには豊臣秀吉をして「表裏比興の者」といわしめた姿はなかった。
1611年(慶長16年)6月4日、真田昌幸は九度山にて死去する。享年65歳であった。
昌幸は死に臨んで幸村に「あと3年命が延びぬのが残念だ。3年のうちに必ず事が起きる。其のときは真っ先に馳せ参じ、必ず徳川を滅ぼしてみせようものを」と語っていた。
そして真田昌幸の予言とおり昌幸の死後、3年後、江戸と大坂は手切れとなるのだ。
真田幸村最後の華が咲く大坂の陣が吹き荒れる。
幸村は臨終の再、父 昌幸が語った最後の策を提案するのである。
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