2008年05月12日
長浜城 秀吉の天下取りへの布石
琵琶湖北岸の賤ヶ岳で戦国時代、織田信長の後継を巡って羽柴秀吉と柴田勝家が争った賤ヶ岳合戦を史料でたどる企画展が、長浜市公園町の長浜城歴史博物館で開かれている。
絵図や書状など計12点を展示し、秀吉が天下統一への足場を築いた歴史的な戦いの背景などを紹介している。
名将100人を描いた「本朝名将百図」(江戸後期)に収録された柴田勝家像は、全国的にも数少ない勝家の肖像画。
太閤絵巻の「加藤清正と山路将監と組討の処」は、2人が激しく組み合う場面を勇ましく表現している。
秀吉が東美濃の武将に、明智光秀を倒したことなどを知らせた書状なども並ぶ。
長浜城・・・もともとは今浜と言っていて土地である。
1573年(天正元年)浅井長政を滅ぼした織田信長は、第一の戦功のあった秀吉に北近江を与えた。
城は当然ながら浅井長政の居城だった小谷城である。
これによってようやく一国一城の身分になった秀吉は更なる武運と自領の発展を考え、要害の地の小谷城を出て、琵琶湖のほとり、今浜に新城を築城することにするのだ。
当時、琵琶湖岸の今浜は北陸と畿内を結ぶ水陸交通の要地、または様々な産業の普及、管理に適した場所だったのだ。
実際に小谷城跡に行ってもらうと分かるのだが、確かに城としては山頂にあり、要塞としては堅固なのだろう。
しかし、経済の発展や産業の普及を考えるとやはり・・・・と疑問の残るところがある。
秀吉は城を要塞としてだけではなく、経済、文化の中心として捉えていたのだろうと思う。
今浜に築城を開始した秀吉は、小谷城の城下町を強制的に今浜に移し、近郷から商人たちを招きいれ年貢面などで優遇などをした。
秀吉は人を集め、諸役を免除することで急速に街づくりをおこなっていったのである。
そして名前を長浜と変更し、この長浜城を拠点に秀吉は伸し上がっていくことになる。

しかし、1582年(天正10年)本能寺の変後、清洲会議で長浜の支配権を獲得した柴田勝家の甥の柴田勝豊が入城するも、まもなく賤ヶ岳の戦いが起こり、秀吉は長浜城を攻め、わずか数日間で攻略してしまう。
その後は山内一豊が入り6年間、在城し、内藤信成・信正が城主になるが1615年(元和元年)大坂夏の陣終了後、彦根に井伊直政が入り、長浜城は廃城となった。
徳川家としては秀吉の威光が残るものは排除したかったのだろう。
資材の大半は彦根城の築城に流用された。彦根城の天秤櫓は、長浜城から移したものと伝えられている。

現在の天守は1983年に犬山城や伏見城をモデルにし模擬復元されたもの。
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絵図や書状など計12点を展示し、秀吉が天下統一への足場を築いた歴史的な戦いの背景などを紹介している。
名将100人を描いた「本朝名将百図」(江戸後期)に収録された柴田勝家像は、全国的にも数少ない勝家の肖像画。
太閤絵巻の「加藤清正と山路将監と組討の処」は、2人が激しく組み合う場面を勇ましく表現している。
秀吉が東美濃の武将に、明智光秀を倒したことなどを知らせた書状なども並ぶ。
長浜城・・・もともとは今浜と言っていて土地である。
1573年(天正元年)浅井長政を滅ぼした織田信長は、第一の戦功のあった秀吉に北近江を与えた。
城は当然ながら浅井長政の居城だった小谷城である。
これによってようやく一国一城の身分になった秀吉は更なる武運と自領の発展を考え、要害の地の小谷城を出て、琵琶湖のほとり、今浜に新城を築城することにするのだ。
当時、琵琶湖岸の今浜は北陸と畿内を結ぶ水陸交通の要地、または様々な産業の普及、管理に適した場所だったのだ。
実際に小谷城跡に行ってもらうと分かるのだが、確かに城としては山頂にあり、要塞としては堅固なのだろう。
しかし、経済の発展や産業の普及を考えるとやはり・・・・と疑問の残るところがある。
秀吉は城を要塞としてだけではなく、経済、文化の中心として捉えていたのだろうと思う。
今浜に築城を開始した秀吉は、小谷城の城下町を強制的に今浜に移し、近郷から商人たちを招きいれ年貢面などで優遇などをした。
秀吉は人を集め、諸役を免除することで急速に街づくりをおこなっていったのである。
そして名前を長浜と変更し、この長浜城を拠点に秀吉は伸し上がっていくことになる。

しかし、1582年(天正10年)本能寺の変後、清洲会議で長浜の支配権を獲得した柴田勝家の甥の柴田勝豊が入城するも、まもなく賤ヶ岳の戦いが起こり、秀吉は長浜城を攻め、わずか数日間で攻略してしまう。
その後は山内一豊が入り6年間、在城し、内藤信成・信正が城主になるが1615年(元和元年)大坂夏の陣終了後、彦根に井伊直政が入り、長浜城は廃城となった。
徳川家としては秀吉の威光が残るものは排除したかったのだろう。
資材の大半は彦根城の築城に流用された。彦根城の天秤櫓は、長浜城から移したものと伝えられている。

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