2008年05月16日
未知数だった真田幸村の実力
[真田幸村] ブログ村キーワード
大坂の陣のおり、豊臣秀頼の呼びかけに応じて参集した浪人衆の中には大名級の武将が多くいた。

長宗我部盛親、毛利勝永、増田盛次、平塚左馬助、大谷吉胤、石川康勝、そして真田幸村などである。
彼は元々大名であり、個人的な力を期待されただけでなく、過去の家臣たちの参集も期待されていた。
では幸村はどうであったのだろうか?
今更いうまでもないが、幸村の兄・信之は今も上田で徳川が他の大名として家を守っており、家臣の多くも上田にいる。
幸村は長宗我部盛親、毛利勝永等と違い浪人ではなく、罪人なのだ。
九度山に蟄居している身分である。しかも兄が家を存続しており自身の家臣はほとんどいない。
事実「真武内伝」によれば大坂に入城した際の幸村の手勢は130人とあり、それ程多くはない。
また武勇においても、後藤又兵衛のように輝かしい戦歴も残してはいないのだ。
真田大坂入城の報を聞いた徳川家康は、突然動きが止まり、手をかけていた戸がガタガタと震えだしたという。
「して、それは親か?子か?」と問いかけると
家臣が「親の昌幸は昨年病死しております。大坂に入ったのはこの左衛門助でございます」というと、震えは止まり落ち着いたという。
幸村ファンとしては悔しい話だが、これまさに真田父子の評価の違いであり、それまでの歴史の事実でもある。
兄の信之は幸村のことを、こう評している。
物事柔和忍辱にして騒がしからず、言葉少なに怒り腹立つ事なかりし
と述べている。
どちらかといえば物静かで目立たぬ存在だったのかも知れない。
そんな幸村の認識を一変させるのが大坂冬の陣である。
真田丸において押寄せる東軍を翻弄させ、あたかも大坂において上田城の攻防戦を髣髴とさせる戦いをやってのけたのだ。
家康は驚愕したに違いない。
真田幸村、侮りがたし!
家康はすぐに幸村調略に動く。
12月14日、本多正純は弟の本多政重に真田信尹とともに幸村を調略するようにという手紙が残っている。
和睦後ではなく、合戦中から家康は幸村調略に動いていた事実に、その危機意識が見受けられる。
しかし分からないのは幸村の行動である。
大坂方において合戦中に徳川方に会えば要らぬ疑いをもたれるのは分かっていただろうに、なぜ幸村は叔父を通してとはいえ徳川の使者と会ったのか?
おそらくそれは、使者の相手が本多正純だったからではないだろうか。
正純の父は本多正信である。
本多正信と幸村の父・昌幸は親交があった。
関ヶ原の折真田父子の助命嘆願を執り成してくれたのも正信であった。
正信は家康の懐刀である。そんな正信の息・正純だったからこそ、過去の恩のお礼も含め使者に会うことをで礼節をとったのではないだろうか。
真田幸村は大坂に入城するときにはもうすでに死を覚悟していたのだ。
だからこそ、使者に会うことを選び、礼をつくしたのだろうとおもう。
ともあれ大坂以前の幸村はやはり、多くの者の間では未知数の人だったようである。
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大坂の陣のおり、豊臣秀頼の呼びかけに応じて参集した浪人衆の中には大名級の武将が多くいた。

長宗我部盛親、毛利勝永、増田盛次、平塚左馬助、大谷吉胤、石川康勝、そして真田幸村などである。
彼は元々大名であり、個人的な力を期待されただけでなく、過去の家臣たちの参集も期待されていた。
では幸村はどうであったのだろうか?
今更いうまでもないが、幸村の兄・信之は今も上田で徳川が他の大名として家を守っており、家臣の多くも上田にいる。
幸村は長宗我部盛親、毛利勝永等と違い浪人ではなく、罪人なのだ。
九度山に蟄居している身分である。しかも兄が家を存続しており自身の家臣はほとんどいない。
事実「真武内伝」によれば大坂に入城した際の幸村の手勢は130人とあり、それ程多くはない。
また武勇においても、後藤又兵衛のように輝かしい戦歴も残してはいないのだ。
真田大坂入城の報を聞いた徳川家康は、突然動きが止まり、手をかけていた戸がガタガタと震えだしたという。
「して、それは親か?子か?」と問いかけると
家臣が「親の昌幸は昨年病死しております。大坂に入ったのはこの左衛門助でございます」というと、震えは止まり落ち着いたという。
幸村ファンとしては悔しい話だが、これまさに真田父子の評価の違いであり、それまでの歴史の事実でもある。
兄の信之は幸村のことを、こう評している。
物事柔和忍辱にして騒がしからず、言葉少なに怒り腹立つ事なかりし
と述べている。
どちらかといえば物静かで目立たぬ存在だったのかも知れない。
そんな幸村の認識を一変させるのが大坂冬の陣である。
真田丸において押寄せる東軍を翻弄させ、あたかも大坂において上田城の攻防戦を髣髴とさせる戦いをやってのけたのだ。
家康は驚愕したに違いない。
真田幸村、侮りがたし!
家康はすぐに幸村調略に動く。
12月14日、本多正純は弟の本多政重に真田信尹とともに幸村を調略するようにという手紙が残っている。
和睦後ではなく、合戦中から家康は幸村調略に動いていた事実に、その危機意識が見受けられる。
しかし分からないのは幸村の行動である。
大坂方において合戦中に徳川方に会えば要らぬ疑いをもたれるのは分かっていただろうに、なぜ幸村は叔父を通してとはいえ徳川の使者と会ったのか?
おそらくそれは、使者の相手が本多正純だったからではないだろうか。
正純の父は本多正信である。
本多正信と幸村の父・昌幸は親交があった。
関ヶ原の折真田父子の助命嘆願を執り成してくれたのも正信であった。
正信は家康の懐刀である。そんな正信の息・正純だったからこそ、過去の恩のお礼も含め使者に会うことをで礼節をとったのではないだろうか。
真田幸村は大坂に入城するときにはもうすでに死を覚悟していたのだ。
だからこそ、使者に会うことを選び、礼をつくしたのだろうとおもう。
ともあれ大坂以前の幸村はやはり、多くの者の間では未知数の人だったようである。
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