2008年05月18日
真田幸村の家康仕官?
真田幸村の徳川家康仕官はあり得たのだろうか?
大坂の陣において徳川家康はどの様に真田幸村を調略しようとしたのだろうか。

先も未知数だった幸村の実力で書いたように家康は真田信尹を通じて本多正純などを使い幸村調略に動いている。
してその内容は・・・・『太平夜談抄』のよれば、大坂に背き徳川に着けばそれ相応に取り立てる。
曖昧な誘いである。
これに対し幸村は
「有難い申し出はあるが、先の関ヶ原にて内府とは敵味方に分かれて、その後浪々の身になっているところを秀頼様に拾われました。内府のご威光は天下に輝いてはいますが、一度大坂に御味方を決めた身です。今更大坂を捨てて味方になれば人に後ろ指を指されるのは間違いありません。ですから家康公の命に従うわけにはいきません。」
丁重に幸村は筋を通し断った。
これを聞いた家康は益々幸村を調略したくなってくる。
真田信尹に「信州一国を与うべし」という破格の条件を出してきた。
これにも幸村は頑として揺らぎません。
「武士たる者、心変わりするは義にあらず。もし秀頼公が和睦をされるのであれば、家康公の命にも従い、所領を賜ることもできましょう。しかし、このように対陣している最中、たとえ天下を1つ2つ頂いても、その命に従うわけにはいきません」
幸村の再三の拒絶に家康は甚だ感じ入り、惜しんだという。
正直家康の誘いに乗った他の武将は、露見し殺害されたり、その後の人生は惨めなものであった。
『慶長見聞書』によると
真田丸の攻防戦後、真田信尹が幸村に対して「十万石を下さるべく」伝えているという。
幸村は「若し和睦のうえに家康公が召しだされるのであれば、千石でもくだされればご奉仕致しましょう」と応えた。
そして大坂冬の陣が和睦の元、一時休戦となると家康はまた真田信尹と通じ「信濃一国下さるべく候、お味方に参り候へ」と誘うのだ。
しかし幸村はこれに腹を立てる。
和睦がなれば豊家への忠義も尽したことになる。だから千石の知行でもかまわないといったのだが、これに対し家康が出した知行は信濃一国。
現実離れしたこの誘いに憤慨し、裏で糸をひく本多正純に失望したのではないだろうか。
そもそも幸村の言う和睦とは、豊臣家が家を保ち存続することを意味しており、一時凌ぎの和睦を言うのではない。
また、その和睦の際、約定を違え総堀を埋めてしまった本多正純のやり方にも憤りを感じていたようである。
こうして幸村の家康仕官はなくなった。
もともと死に場所を探して大坂に入城した幸村だ、家康のこうした行動も計算しての発言だったのであろう。
真田幸村は打倒家康の念を更に強くして大坂夏の陣を迎えることになる。
真田の義を見せよ!!
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大坂の陣において徳川家康はどの様に真田幸村を調略しようとしたのだろうか。

先も未知数だった幸村の実力で書いたように家康は真田信尹を通じて本多正純などを使い幸村調略に動いている。
してその内容は・・・・『太平夜談抄』のよれば、大坂に背き徳川に着けばそれ相応に取り立てる。
曖昧な誘いである。
これに対し幸村は
「有難い申し出はあるが、先の関ヶ原にて内府とは敵味方に分かれて、その後浪々の身になっているところを秀頼様に拾われました。内府のご威光は天下に輝いてはいますが、一度大坂に御味方を決めた身です。今更大坂を捨てて味方になれば人に後ろ指を指されるのは間違いありません。ですから家康公の命に従うわけにはいきません。」
丁重に幸村は筋を通し断った。
これを聞いた家康は益々幸村を調略したくなってくる。
真田信尹に「信州一国を与うべし」という破格の条件を出してきた。
これにも幸村は頑として揺らぎません。
「武士たる者、心変わりするは義にあらず。もし秀頼公が和睦をされるのであれば、家康公の命にも従い、所領を賜ることもできましょう。しかし、このように対陣している最中、たとえ天下を1つ2つ頂いても、その命に従うわけにはいきません」
幸村の再三の拒絶に家康は甚だ感じ入り、惜しんだという。
正直家康の誘いに乗った他の武将は、露見し殺害されたり、その後の人生は惨めなものであった。
『慶長見聞書』によると
真田丸の攻防戦後、真田信尹が幸村に対して「十万石を下さるべく」伝えているという。
幸村は「若し和睦のうえに家康公が召しだされるのであれば、千石でもくだされればご奉仕致しましょう」と応えた。
そして大坂冬の陣が和睦の元、一時休戦となると家康はまた真田信尹と通じ「信濃一国下さるべく候、お味方に参り候へ」と誘うのだ。
しかし幸村はこれに腹を立てる。
和睦がなれば豊家への忠義も尽したことになる。だから千石の知行でもかまわないといったのだが、これに対し家康が出した知行は信濃一国。
現実離れしたこの誘いに憤慨し、裏で糸をひく本多正純に失望したのではないだろうか。
そもそも幸村の言う和睦とは、豊臣家が家を保ち存続することを意味しており、一時凌ぎの和睦を言うのではない。
また、その和睦の際、約定を違え総堀を埋めてしまった本多正純のやり方にも憤りを感じていたようである。
こうして幸村の家康仕官はなくなった。
もともと死に場所を探して大坂に入城した幸村だ、家康のこうした行動も計算しての発言だったのであろう。
真田幸村は打倒家康の念を更に強くして大坂夏の陣を迎えることになる。
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