2008年05月19日
真田幸村と牢人諸将
[真田幸村] ブログ村キーワード
大坂に集まった数多の牢人。
そのなかでも長宗我部盛親、毛利勝永、そして真田幸村は三人衆として評されており、ここに明石全登、後藤又兵衛をいれて五人衆とも評していた。

この五人。長宗我部盛親はもともとが土佐22万石の大名だし、毛利勝永も豊前に4万石の大名だった。
二人共に関ヶ原の戦いの折は西軍として参戦しており、過去の実績もあった。
後藤又兵衛に関しても、その武勇は知られており黒田家に後藤又兵衛ありと恐れられた存在だった。
明石全登も、関ヶ原の戦いのときには宇喜多家の重臣として、兵7000を指揮し、獅子奮迅の戦いをしており、その武勇は知られるところであった。
ところが・・・真田幸村は。
ないのである。これといった武勇や実績、ましてや大名でもない。
幸村にあるのは、徳川家康を2度までも敗退せしめた真田昌幸の息であり、太閤秀吉から可愛がられ、豊臣の姓を賜った人物であるということだけであった。
実際に幸村の風貌は小柄であったというし、物事無口で温厚な人だったようなので目立たない存在だったのかもしれない。
大坂の陣において大坂諸将が望むのは輝かしい実績のある武将の的確な指示だったのだろう。
必然的に戦が始まるまでは、後藤又兵衛や、明石全登などに羨望は集まっていた。
特に又兵衛に関しては豊臣秀頼たちにかなり強い影響をもっていたようだ。
しかし又兵衛は戦術には長けていても、戦略には長けていなかったようである。
戦術とは、個々の具体的な戦闘における戦闘力の使用法。普通、長期・広範の展望をもつ戦略の下位に属する。
かたや戦略とは、長期的・全体的展望に立った闘争の準備・計画・運用の方法。戦略の具体的遂行である戦術とは区別される。
と戦術と戦略は違うのである。
実戦経験がなかった幸村だが、大坂の諸将の中では一番戦略に長けていた。それは父・昌幸から教えられたものであり、秀吉の側で学ぶチャンスが幸村をそうさせたのだろう。
冬の陣を前にした軍議において幸村が提唱していく戦略は、後藤又兵衛、明石全登を納得させ、歴戦の勇士たちから一目置かれる存在となった。
ただ悔やまれるべくは、歴戦の勇士でない、同じように実践経験の少ない大坂譜代の家臣たちには理解できなかったことだ。
結局軍議は幸村の意見を推す牢人衆と、小幡景憲の推す籠城策とで別れ、普代衆が小幡景憲の策を推したため軍議は決するのである。
このとき牢人衆の誰もが敗北を悟ったといいます。
このことが牢人衆たちの死華咲かせの戦いになっていくことになる。
要するに連携が取れていないのだ。己の身のために戦ってしまっている。
又兵衛も、全登も譜代衆たちも皆が結束していないのだ。
真田幸村は大坂城の南に真田丸を築き、一手に敵を引き受ける道を選ぶ。
そこには幸村の他の部隊と離れることで雑音から遠ざかり、戦に没頭したかったのかもしれない。
真田丸に集まるは幸村とともに戦うことを誓った男たちだった。
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そのなかでも長宗我部盛親、毛利勝永、そして真田幸村は三人衆として評されており、ここに明石全登、後藤又兵衛をいれて五人衆とも評していた。

この五人。長宗我部盛親はもともとが土佐22万石の大名だし、毛利勝永も豊前に4万石の大名だった。
二人共に関ヶ原の戦いの折は西軍として参戦しており、過去の実績もあった。
後藤又兵衛に関しても、その武勇は知られており黒田家に後藤又兵衛ありと恐れられた存在だった。
明石全登も、関ヶ原の戦いのときには宇喜多家の重臣として、兵7000を指揮し、獅子奮迅の戦いをしており、その武勇は知られるところであった。
ところが・・・真田幸村は。
ないのである。これといった武勇や実績、ましてや大名でもない。
幸村にあるのは、徳川家康を2度までも敗退せしめた真田昌幸の息であり、太閤秀吉から可愛がられ、豊臣の姓を賜った人物であるということだけであった。
実際に幸村の風貌は小柄であったというし、物事無口で温厚な人だったようなので目立たない存在だったのかもしれない。
大坂の陣において大坂諸将が望むのは輝かしい実績のある武将の的確な指示だったのだろう。
必然的に戦が始まるまでは、後藤又兵衛や、明石全登などに羨望は集まっていた。
特に又兵衛に関しては豊臣秀頼たちにかなり強い影響をもっていたようだ。
しかし又兵衛は戦術には長けていても、戦略には長けていなかったようである。
戦術とは、個々の具体的な戦闘における戦闘力の使用法。普通、長期・広範の展望をもつ戦略の下位に属する。
かたや戦略とは、長期的・全体的展望に立った闘争の準備・計画・運用の方法。戦略の具体的遂行である戦術とは区別される。
と戦術と戦略は違うのである。
実戦経験がなかった幸村だが、大坂の諸将の中では一番戦略に長けていた。それは父・昌幸から教えられたものであり、秀吉の側で学ぶチャンスが幸村をそうさせたのだろう。
冬の陣を前にした軍議において幸村が提唱していく戦略は、後藤又兵衛、明石全登を納得させ、歴戦の勇士たちから一目置かれる存在となった。
ただ悔やまれるべくは、歴戦の勇士でない、同じように実践経験の少ない大坂譜代の家臣たちには理解できなかったことだ。
結局軍議は幸村の意見を推す牢人衆と、小幡景憲の推す籠城策とで別れ、普代衆が小幡景憲の策を推したため軍議は決するのである。
このとき牢人衆の誰もが敗北を悟ったといいます。
このことが牢人衆たちの死華咲かせの戦いになっていくことになる。
要するに連携が取れていないのだ。己の身のために戦ってしまっている。
又兵衛も、全登も譜代衆たちも皆が結束していないのだ。
真田幸村は大坂城の南に真田丸を築き、一手に敵を引き受ける道を選ぶ。
そこには幸村の他の部隊と離れることで雑音から遠ざかり、戦に没頭したかったのかもしれない。
真田丸に集まるは幸村とともに戦うことを誓った男たちだった。
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