2008年07月17日

直江兼続 貫き通した上杉家への義

関ヶ原の敗戦後、直江兼続は敵対した徳川家康に対し、上杉家存続の為に奔走する。

その一つの方法として徳川家の信頼の厚い本多正信と縁を持つことだった。
兼続は長女於松の婿として本多正信の次男 本多政重を迎えた。
そして、兼続はこの本多政重を直江家の跡継ぎにした。
このとき兼続には10歳になる嫡男 景明がいたにもかかわらずだ。

普通の状態ではありえないことである。
上杉家の存続のため自身の血脈は度外視し、徳川が簡単に手出しが出来ない状態を作ろうとしたのだ。

しかしこの於松は結婚から1年後に病死してしまう。
兼続にはもう一人於梅という次女がいたが、於梅も於松と同じ頃に病で亡くなっており、兼続は実弟の大国実頼の娘を養女にして、本多政重の後妻にし、本多家との縁を大事にした。

1604年(慶長9年)嫡男 景明が本多正信の執り成しで膳所城主 戸田氏鉄の娘と結婚をする。
それにより数年後、本多政重は直江家を去り、加賀の前田家に仕えることになる。
これは直江景明が祝言をあげ、その後成人したことにより自分がいては直江家にとって邪魔だろうと判断したのかもしれない。

しかし不運は続いた。
元々体が丈夫ではなかった景明だったのだが、1614年(慶長19年)結核を患い体調が悪かった。
そのころ大坂冬の陣が勃発し、上杉家にも動員がかかる。
兼続は病に伏せる景明を無理無理に出陣をさせる。
徳川の手前「嫡男は病気で出陣できない」とは言えなかったのだ。

このときの無理がたたり、翌1615年(慶長20年)嫡男 景明は死んでしまう。
これにより跡取りが完全にいなくなってしまった直江家。

兼続は妻 お船以外に側室をもたなかったので、他に子どもも無く、上杉景勝は兼続に養子を迎えて直江家を継がせることを進めるのだが、兼続は養子を迎えることをせず、直江家断絶の道を選んだ。

兼続は藩の執政として誰よりも自藩の財政が苦しいことを知っていた。
直江家が断絶することにより、俸禄を主君 景勝に返上することにより少しでも楽になればということであった。

私利私欲をすて主君に忠誠をつくす、まさに直江兼続らしい生き方であり、上杉家への義を貫き通したのである。

直江の義とくと見よ!
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