2008年08月22日

甘利虎泰 友と共に死す!

武田二十四将で、武田信虎時代の武田四天王の一人 甘利虎泰


幼少期の資料は見当たらなかった。
板垣信方飯富虎昌原虎胤らとともに武田信虎時代から仕えていたが、1541年(天文10年)武田信玄が父である武田信虎追放を計画すると、その主導的役割を果たす。
武田家の宿老で、「甲斐国志」に拠れば最高職位「両職」を務めた譜代家臣とされているが、信虎期の来歴や行政責任者としての実務を示す史料は少ないようで、史料上の初見は「高白斎記」に1542年(天文11年)甲府へ屋敷を新築した際や、翌1543年(天文12年)諏訪郡上原城代の板垣信方武田信玄の上意を伝える使者を務めた際や、西郡鷹尾寺へ禁制を与えた際の文書が見られるのみである。

かの山本勘助甘利虎泰の見事な采配ぶりを賞賛している。
『軍鑑』や『武田三代軍略』などの軍記物には、1538年(天文7年)諏訪氏、小笠原氏が甲斐に攻め込んだ韮崎の戦いで二番合戦で手柄を上げ、武田信玄が家督を継いだ直後に諏訪氏、小笠原氏、村上氏が侵攻してきた1542年(天文11年)瀬沢の戦いでも奮戦してはいるのだが、これらの合戦は実在自体が怪しいもので、史実的には疑われている。

1547年(天文16年)志賀城攻めに参加。
関東管領上杉憲政が後詰の援軍を派遣したため、甘利は板垣信方とともに別動隊を編成して伏撃し、小田井原の戦いで大勝してこれを打ち破っている。
そして翌1548年(天文17年)武田信玄村上義清と戦った上田原の戦いにおいて、板垣信方を討ち取って意気上がる村上勢は武田軍本陣に殺到する。
本来ならば軍勢を引くべき所だったかも知れないが、この頃の晴信は陣を退こうとしなかった。
おそらくは意地だったのか、板垣を失ったショックだったのか信玄は呆然としていたのかもしれない。

そんな信玄を守るため甘利は奮戦し、ついには村上軍に討ち取られてしまう。
最終的には村上軍が退いていくのだが、武田軍は村上軍の倍以上の戦死者を出し、板垣信方甘利虎泰の重臣が戦死、信玄自身も負傷する大敗を喫するのである。


武田の瀬田に旗を立てよ!
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