2008年09月06日

土屋昌次 奥近習の筆頭

武田二十四将の一人 土屋昌次

金丸虎義の次男として生まれる。
虎義は武田晴信の守役だった。
昌次は「奥近習六人衆」の一人として信玄の傍近くに仕えており、奥近習とされる者に、土屋右衛門尉三枝守友曽根昌世武藤喜兵衛(真田昌幸) 、甘利昌忠長坂昌国の名が見える。

武田義信事件による家臣団の動揺を抑えるために信玄が諸将に提出させた下之郷起請文においても、跡部勝資浅利信種吉田信生等と共に奏者となり取りまとめている。

第4次川中島の戦いでは、一時上杉勢の攻勢により信玄本陣まで危機に晒されたが、信玄の側を離れず守り、こまめにたち働いたことが認められ、土屋と改姓するように命じられ、侍大将になった。

昌次が奏者となり発給した、武田氏が上野箕輪城を攻略した後の仕置きに関する竜朱印状が現存すること、相備えとなった寄騎が信濃先方衆が多いことなどから、東信・西上野を主に担当した様である。
三増峠の戦いで箕輪城代浅利信種が戦死すると、浅利同心衆も相備えとして付けられると同時に甲斐名門の土屋家を継いだ。
1572年(元亀3年)三方ヶ原の合戦では家康の家臣鳥井四郎右衛門と一騎討ちの勝負になったが、鳥井は豪の者として知られているだけに、一刀の下に昌次の甲を打ち割った。幸い明珍の星甲であったので、甲は割れたが頭はかすり傷ひとつなく、組み打ちとなり、結局昌次が鳥井の首を討ち取った。この合戦は敵味方入り乱れての激戦となり、双方手助けの叶わぬなか、豪の者鳥井氏を昌次一人の手で仕止めたとあって、武名は一段と上がった。
これより昌次の旗印は黒地に白の鳥居となり、100騎を預けられた。信玄が病死した時には殉死を願い出るが、説得されて留まった。

1575年(天正3年)長篠の戦いでは、敵の三重柵の二重まで突破、滝川勢を撃破するが、馬止めの柵に阻まれ、柵上に登ったところを鉄砲隊の射撃を受けて華々しく散った。

剛将として知られる反面、竜朱印奏者でもあり行政官としての一面も有する。そのことから、馬場信春、春日虎綱、内藤昌秀らと比較して、より武田家の軍政の中心に近かった武将である。

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北アルプスを仰ぎ、歴史と文化が育まれた古都を鳥瞰。ああ絶景かな

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