2008年07月28日
蒲生氏郷 憧れの馬印
蒲生氏郷は、諸大名との雑談中に、「豊臣秀吉の後継者は誰になるか」、との話題になったとき、各大名が豊臣秀次や徳川家康の名が挙がるなか、氏郷は前田利家の名を挙げ、「利家でなくば、自分だ」と、言ったという。

そんな蒲生氏郷が憧れた馬印があった。
それは佐々成政の三階菅笠の馬印だった。
佐々成政は織田信長騎下の勇将として活躍したのだが、柴田勝家、佐久間盛政、前田利家などと共に戦線に立つことが多かった。
であるから、信長の死後の羽柴秀吉の台頭には面白くなかった。
柴田勝家が秀吉と対陣するとそれらの武将はこぞって勝家に与するが、前田利家だけは秀吉の親友ということもあり、秀吉の説得により秀吉に寝返るのだ。
しかし無骨一辺の佐々成政や佐久間盛政などは今さら秀吉などの下に付くことができないという意地より勝家と行動をともにする。
結果、賤ヶ岳の戦いにより柴田勝家は敗北し、滅亡する。
佐々成政は北陸において上杉家の押さえとして賤ヶ岳の戦いには参戦はしてはいなかったが、この事態を受け秀吉に人質をだし、自身は剃髪して秀吉の軍門に下った。
成政を許した秀吉は肥後に一国を与える。
だが、秀吉の指示した治世を行わずに、国人一揆を招き、しかも鎮圧に失敗してしまう。
この責により1588年(天正16年)佐々成政は切腹となりこの世を去るのだ。
蒲生氏郷はどちらかといえば、柴田勝家や前田利家などと懇意にしていたようで行動をともにもしていた。
若い氏郷は勝家や成政の武に憧れの目を持ってみていたのだろう。
そんな氏郷は成政の馬印にも憧れを持っていた。
成政の死後2年。
憧れの馬印が用捨てになり放置してあるのはもったいないとした氏郷は秀吉に「佐々成政の三階菅笠の馬印を用いたい」と願い出る。
当時の氏郷の馬印は熊の毛皮を棒に巻いただけの簡素なものだったので、それを憧れの三階菅笠の馬印に変えたかった。
この時代家紋や馬印を勝手に変えることは許されておらず、過去に秀吉が無断で馬印を使用し信長に叱責されたことがあるくらいだ。
氏郷のこの願いに秀吉は成政の三階笠は、天下に知られた馬印ゆえ、許すわけにはいかぬ」と、一旦は退けたが、氏郷は、なおも「我が武勇は、成政に劣ると言われるのですか」と、食い下がった。
そこで秀吉は「名に聞こえる佐々の馬印、欲しくば此度の小田原にて武功を立てよ」と言うのだ。
「武功をたてよ」と、言われては、先陣にて自ら槍を振るわずにはおれない氏郷である。
兵卒を集め、 「金の三階菅笠の馬印を許されよ。そのために今度の軍は人の目を驚かすか、さもなくば討ち死にあるのみである」と宣言する。
『関八州古戦録』には、大坂を発ち居城の松坂城に寄った蒲生氏郷は絵師に影像を描かせた。そしてまだ手に入れていない三階菅笠の馬印を作らせた。
出陣の前日、町野繁乃の妻を呼び絵師に描かせた影像を近江日野にある菩提所に納めるように頼むのだ。
繁乃の妻は「お若いのに影像などお作りになるのは縁起でもない」と泣きながら訴えられた。
氏郷はこれに対し
「戦場に赴く武士は、再び生きて帰ろうとは思っておらぬ。しかも此度の軍は東の果てまでも下っての戦いなれば、生死は定めがたい。もし命を落とせば、息子の秀行が成長した暁には父が平素、どんな姿形をしていたかがわかって良い形見になるであろう」と笑って答えたという。
こうして小田原に向かった氏郷は見事武功を立て、憧れの三階菅笠の馬印を得ることが出来たのである。

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そんな蒲生氏郷が憧れた馬印があった。
それは佐々成政の三階菅笠の馬印だった。
佐々成政は織田信長騎下の勇将として活躍したのだが、柴田勝家、佐久間盛政、前田利家などと共に戦線に立つことが多かった。
であるから、信長の死後の羽柴秀吉の台頭には面白くなかった。
柴田勝家が秀吉と対陣するとそれらの武将はこぞって勝家に与するが、前田利家だけは秀吉の親友ということもあり、秀吉の説得により秀吉に寝返るのだ。
しかし無骨一辺の佐々成政や佐久間盛政などは今さら秀吉などの下に付くことができないという意地より勝家と行動をともにする。
結果、賤ヶ岳の戦いにより柴田勝家は敗北し、滅亡する。
佐々成政は北陸において上杉家の押さえとして賤ヶ岳の戦いには参戦はしてはいなかったが、この事態を受け秀吉に人質をだし、自身は剃髪して秀吉の軍門に下った。
成政を許した秀吉は肥後に一国を与える。
だが、秀吉の指示した治世を行わずに、国人一揆を招き、しかも鎮圧に失敗してしまう。
この責により1588年(天正16年)佐々成政は切腹となりこの世を去るのだ。
蒲生氏郷はどちらかといえば、柴田勝家や前田利家などと懇意にしていたようで行動をともにもしていた。
若い氏郷は勝家や成政の武に憧れの目を持ってみていたのだろう。
そんな氏郷は成政の馬印にも憧れを持っていた。
成政の死後2年。
憧れの馬印が用捨てになり放置してあるのはもったいないとした氏郷は秀吉に「佐々成政の三階菅笠の馬印を用いたい」と願い出る。
当時の氏郷の馬印は熊の毛皮を棒に巻いただけの簡素なものだったので、それを憧れの三階菅笠の馬印に変えたかった。
この時代家紋や馬印を勝手に変えることは許されておらず、過去に秀吉が無断で馬印を使用し信長に叱責されたことがあるくらいだ。
氏郷のこの願いに秀吉は成政の三階笠は、天下に知られた馬印ゆえ、許すわけにはいかぬ」と、一旦は退けたが、氏郷は、なおも「我が武勇は、成政に劣ると言われるのですか」と、食い下がった。
そこで秀吉は「名に聞こえる佐々の馬印、欲しくば此度の小田原にて武功を立てよ」と言うのだ。
「武功をたてよ」と、言われては、先陣にて自ら槍を振るわずにはおれない氏郷である。
兵卒を集め、 「金の三階菅笠の馬印を許されよ。そのために今度の軍は人の目を驚かすか、さもなくば討ち死にあるのみである」と宣言する。
『関八州古戦録』には、大坂を発ち居城の松坂城に寄った蒲生氏郷は絵師に影像を描かせた。そしてまだ手に入れていない三階菅笠の馬印を作らせた。
出陣の前日、町野繁乃の妻を呼び絵師に描かせた影像を近江日野にある菩提所に納めるように頼むのだ。
繁乃の妻は「お若いのに影像などお作りになるのは縁起でもない」と泣きながら訴えられた。
氏郷はこれに対し
「戦場に赴く武士は、再び生きて帰ろうとは思っておらぬ。しかも此度の軍は東の果てまでも下っての戦いなれば、生死は定めがたい。もし命を落とせば、息子の秀行が成長した暁には父が平素、どんな姿形をしていたかがわかって良い形見になるであろう」と笑って答えたという。
こうして小田原に向かった氏郷は見事武功を立て、憧れの三階菅笠の馬印を得ることが出来たのである。
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