2008年07月09日

立花宗茂 戦は兵の多寡により決まるべからず

立花道雪高橋紹運二人の偉大な父を持つ立花宗茂
秀吉にして西国無双と言わしめた宗茂の武はこの日本だけにおいてとどまるものではなかった。


1592年(文禄元年)より始まった朝鮮出兵。
4月12日釜山に上陸し攻撃を開始した秀吉日本軍は快進撃をしていく。
日本軍は三路に分かれて急進し、首都漢城を占領、引き続き各方面軍による八道国割と呼ばれる制圧目標を決め、平安道 一番隊小西行長他、 咸鏡道 二番隊加藤清正他、 黄海道 三番隊黒田長政他、 江原道 四番隊毛利吉成他、 忠清道 五番隊福島正則他、 全羅道 六番隊小早川隆景他、 慶尚道 七番隊毛利輝元他、 京畿道 八番隊宇喜多秀家他として攻撃していく。

この6番隊小早川隆景の隊の与力として立花宗茂はいた。

連戦連敗の李氏朝鮮は明国に救援を依頼する。
これには李氏朝鮮軍が不利と見ると我先にと逃げていく軍に対して、民衆や奴婢と呼ばれていた身分の者たちが、秀吉軍を解放軍として迎えいれたこともあり、最早戦況は打開のしようがなかったこともあったのだろう。

明軍が援軍に訪れると次第に秀吉軍も戦況が思わしくなくなる。
占領した平壌を奪還され、漢城まで退却を余儀なくされた。
南下してくる明軍を阻止せんと、秀吉軍は漢城北20キロにある碧蹄館を防衛線と定め、戦法を小早川隆景が請け負った。
このとき宗茂は隆景に対し、先鋒の先鋒を志願するのだ。

ときに1593年(文禄2年)1月の寒風吹きすさぶ中、宗茂は兵たちに白米の粥を与え、大釜にて酒を温め皆に振舞った。
そして景気づけをし、勢い勇む明軍に立ち向かうのである。

立花宗茂は3000の兵を三段に構え、一点突破を指示する。
鋒矢で武装した明軍は馬上から襲い掛かってくる。立花勢の先陣はそこに押し出していく。
宗茂は両翼から迫る明軍には目もくれず、川を渡りきり敵の中央を斬り裂いて、日本の鉄砲が威力は発揮する。
乱軍の中、立花宗茂も槍、刀を振るい戦う、そのうちに明軍はズルズルと後退を始めるのだ。
立花勢の勢いに大軍の兵で望んだ明が怯んでいく、方や立花勢は3000である。
そのうちに後陣の小早川隆景が追いつき秀吉軍は勝利を収めるのだ。

隆景が宗茂に賛辞を送ると、宗茂は
「道雪以来、我らにあっては、少人数でたびたび勝利を得た。これは兵の和による故である。その和の基本は常日頃ごろ、心を許しあって懇ろに交わっているからで、この信頼のもと、ただ一言ことの義であっても、身を捨てるのである。これは大将たる者が心得ておくべきことである」と言った。

立花宗茂は人となり穏やか、かつ寛容、人徳ありて驕りなしであった。
ゆえに家臣たちにも慕われ、いざというときのために自らの命を差し出す者が多かったという。

戦は兵の多寡により決まるものにあらず、一つにまとまっているかどうかである。

そんな立花宗茂が是非、戦国無双3に登場することを願ってやまないのである。

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