2008年11月21日
小山田信茂 弓矢の御談合七人衆
武田二十四将のひとり、小山田信茂。
裏切り者の名をつけられ、後世においてもよく思われていない小山田信茂だが、果たして本当に裏切りをしたのだろうか。
小山田信茂は1539年(天文8年)小山田出羽守信有の次男として生まれている。(ちなみに小山田家は越中守。出羽守、弥三郎と信有が三代続く)
母は武田信虎の妹で、武田信玄の従兄弟になる存在なのだ。
もともと小山田氏は武田家の家臣ではない。
武田家と肩を並べるような有力な国人だったのだ。

甲斐国内を統一した武田信虎は妹を小山田越中守信有の嫡男小山田出羽守信有に嫁し、これをきっかけに小山田氏を武田氏の従属的な関係としていく。
武田家と結んだとはいえ、依然として小山田氏は郡内で独自の支配権を有しており、あくまでも関係は同盟に近いものだったようです。
しかし、1541年(天文10年)武田信虎が武田晴信(信玄)によって追放され、武田家当主に武田晴信(信玄)がつくと、信玄は領土拡大戦を進展してゆくことに力を入れ始め、それとともに小山田信有(出羽守)は武田家の重臣として、信玄の部将的役割を担う軍事行動が多くなるのだ。
信玄と共に多くの戦場に出かけ、多くの軍功をあげていき、信玄から感状等をもらっている。
気がつけば同盟のはずが、なぜか家臣的になっているのだ。
結果論だが、武田家の戦略が上手かったのだろう。
同属的な同盟が領土拡大するうちに、武田家の勢力が強くなり、逆らうことが出来なくなった小山田氏は逆らうよりも武田家の親族衆として生きていったほうが得策と判断したのだ。
それでも武田家は小山田家に対しては特別な待遇をしていたようで、バランスはとれていた。
そんな中、1552年(天文21年)小山田信有(出羽守)が没し、嫡男小山田弥三郎信有(三代続けての同名)が家督を継ぐ。
だが、信有は年少であり病弱な体質であったようで、時期的にも武田家は信玄のもと、合戦に明け暮れる毎日だったので、やがて、信有は合戦を忌避するようになり信仰の道へと傾斜していく。そして、、1565年(永禄8年)家督を弟の信茂に譲って隠居するとほどなく世を去った。
小山田信茂は1555年(弘治元年)第2次川中島の合戦において初陣を果たす。
ときに1569年(永禄12年)小田原北条氏攻めでは、小田原城の支城である滝山城攻城戦の前哨戦で北条氏照軍を打ち破り、1572年(元亀3年)信玄の西上作戦においても、三方ヶ原の戦いで徳川軍の石川数正隊と戦い、武功を挙げるなど、信茂の奮戦振りは目覚ましいものがあった。
信茂は信玄に従って数々の戦場で功を立て、信玄から絶対的な信頼を得た。そして、若輩ながらも馬場信春・山県昌景・高坂 弾正・原美濃守らの重臣と肩を並べ、 「弓矢の御談合七人衆」の一人に加えられて軍議に列するようにもなる。
すべてが順調にいっていたのだが、1573年(天正元年)上洛を目指していた武田信玄が途中で病に倒れる。
武田氏の家督を継いだ武田勝頼だったが、信玄の「三年間喪を秘し、内政を固めるべし」との遺言を守らず外征を繰り返した。
そして1575年(天正3年)武田軍が長篠において織田・徳川連合軍を迎えるのだ。
諸将の反対を押して出陣した勝頼だったが、結果は大敗。
譜代の旧臣たちの多くを失う形となった。
1582年(天正10年)織田信長の信濃・甲斐への再度の侵攻が始まると、後がない武田家では残った家臣団で話し合いがもたれることになる。
このときの話し合いで真田昌幸は上野岩櫃城において時節を待つことを進言し、これに対し信茂は、武田勝頼に新府城から自分の居城である岩殿山城に逃れるように勧めた。
勝頼は、新参の真田昌幸より姻戚関係もある小山田信茂の方を信頼したのであろう。
しかし信茂は岩殿城へ向かう勝頼一行を、笹子峠から攻撃し、途中で裏切ったのだ。
武田勝頼や嫡男の武田信勝らを郡内に入れず、結果、活よりは天目山に逃げる形となり、自害に追い込んでいる。
なんらかの密略があったのか定かではないが、武田家はこれにより滅亡する。
その後小山田信茂は、嫡男をともない織田信長に拝謁しようとしたが、信長から「武田勝頼を裏切るとは、小山田こそは古今未曾有の不忠者」と咎められ、甲斐善光寺で処刑されてしまう。
小山田信茂 享年44歳。
同じ裏切りをした木曾義昌や穴山信君は処刑などされてはいないのだが、なぜか小山田信茂だけは処刑されている。
この裏には何か隠されたものを感じるのはボクだけであろうか。
信長としては信茂を生かして置けなった何かがそこにあったのではないか。
でなければ、嫡男のみならず、妻に母、娘までもが信長に処刑される理由が分からない。

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裏切り者の名をつけられ、後世においてもよく思われていない小山田信茂だが、果たして本当に裏切りをしたのだろうか。
小山田信茂は1539年(天文8年)小山田出羽守信有の次男として生まれている。(ちなみに小山田家は越中守。出羽守、弥三郎と信有が三代続く)
母は武田信虎の妹で、武田信玄の従兄弟になる存在なのだ。
もともと小山田氏は武田家の家臣ではない。
武田家と肩を並べるような有力な国人だったのだ。

甲斐国内を統一した武田信虎は妹を小山田越中守信有の嫡男小山田出羽守信有に嫁し、これをきっかけに小山田氏を武田氏の従属的な関係としていく。
武田家と結んだとはいえ、依然として小山田氏は郡内で独自の支配権を有しており、あくまでも関係は同盟に近いものだったようです。
しかし、1541年(天文10年)武田信虎が武田晴信(信玄)によって追放され、武田家当主に武田晴信(信玄)がつくと、信玄は領土拡大戦を進展してゆくことに力を入れ始め、それとともに小山田信有(出羽守)は武田家の重臣として、信玄の部将的役割を担う軍事行動が多くなるのだ。
信玄と共に多くの戦場に出かけ、多くの軍功をあげていき、信玄から感状等をもらっている。
気がつけば同盟のはずが、なぜか家臣的になっているのだ。
結果論だが、武田家の戦略が上手かったのだろう。
同属的な同盟が領土拡大するうちに、武田家の勢力が強くなり、逆らうことが出来なくなった小山田氏は逆らうよりも武田家の親族衆として生きていったほうが得策と判断したのだ。
それでも武田家は小山田家に対しては特別な待遇をしていたようで、バランスはとれていた。
そんな中、1552年(天文21年)小山田信有(出羽守)が没し、嫡男小山田弥三郎信有(三代続けての同名)が家督を継ぐ。
だが、信有は年少であり病弱な体質であったようで、時期的にも武田家は信玄のもと、合戦に明け暮れる毎日だったので、やがて、信有は合戦を忌避するようになり信仰の道へと傾斜していく。そして、、1565年(永禄8年)家督を弟の信茂に譲って隠居するとほどなく世を去った。
小山田信茂は1555年(弘治元年)第2次川中島の合戦において初陣を果たす。
ときに1569年(永禄12年)小田原北条氏攻めでは、小田原城の支城である滝山城攻城戦の前哨戦で北条氏照軍を打ち破り、1572年(元亀3年)信玄の西上作戦においても、三方ヶ原の戦いで徳川軍の石川数正隊と戦い、武功を挙げるなど、信茂の奮戦振りは目覚ましいものがあった。
信茂は信玄に従って数々の戦場で功を立て、信玄から絶対的な信頼を得た。そして、若輩ながらも馬場信春・山県昌景・高坂 弾正・原美濃守らの重臣と肩を並べ、 「弓矢の御談合七人衆」の一人に加えられて軍議に列するようにもなる。
すべてが順調にいっていたのだが、1573年(天正元年)上洛を目指していた武田信玄が途中で病に倒れる。
武田氏の家督を継いだ武田勝頼だったが、信玄の「三年間喪を秘し、内政を固めるべし」との遺言を守らず外征を繰り返した。
そして1575年(天正3年)武田軍が長篠において織田・徳川連合軍を迎えるのだ。
諸将の反対を押して出陣した勝頼だったが、結果は大敗。
譜代の旧臣たちの多くを失う形となった。
1582年(天正10年)織田信長の信濃・甲斐への再度の侵攻が始まると、後がない武田家では残った家臣団で話し合いがもたれることになる。
このときの話し合いで真田昌幸は上野岩櫃城において時節を待つことを進言し、これに対し信茂は、武田勝頼に新府城から自分の居城である岩殿山城に逃れるように勧めた。
勝頼は、新参の真田昌幸より姻戚関係もある小山田信茂の方を信頼したのであろう。
しかし信茂は岩殿城へ向かう勝頼一行を、笹子峠から攻撃し、途中で裏切ったのだ。
武田勝頼や嫡男の武田信勝らを郡内に入れず、結果、活よりは天目山に逃げる形となり、自害に追い込んでいる。
なんらかの密略があったのか定かではないが、武田家はこれにより滅亡する。
その後小山田信茂は、嫡男をともない織田信長に拝謁しようとしたが、信長から「武田勝頼を裏切るとは、小山田こそは古今未曾有の不忠者」と咎められ、甲斐善光寺で処刑されてしまう。
小山田信茂 享年44歳。
同じ裏切りをした木曾義昌や穴山信君は処刑などされてはいないのだが、なぜか小山田信茂だけは処刑されている。
この裏には何か隠されたものを感じるのはボクだけであろうか。
信長としては信茂を生かして置けなった何かがそこにあったのではないか。
でなければ、嫡男のみならず、妻に母、娘までもが信長に処刑される理由が分からない。
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