2009年04月30日

内藤元盛 毛利家への義

内藤元盛・・・といわれてもピンと来る人はまずはいないだろう。

内藤元盛は毛利氏一門宍戸元秀の次男として生まれている。
由緒ある家柄の人なのである。
元盛は嗣子のない伯父 内藤隆春の婿養子となり家督を継ぐことになり、内藤元盛を称することになったのだ。

元盛は大坂の陣の際に実は毛利輝元、執政毛利秀元の密命を受け名を「佐野道可」と変え、軍資金500両と兵糧1万石を持参し大坂城に入城している。
これは毛利家が、万が一豊臣方が勝利したときに備えた保険であり、関ヶ原の戦い時のときと同じように煮え切らない毛利家お得意の両天秤だ。

内藤元盛はこれの使者として、変名で大坂方として戦う事になった。
元盛としてみればとんでもない役を任されてしまったものである。
どう考えても勝つ見込みのない側へ付くのは誰でもが嫌なもので、毛利家も今更豊臣家が勝とでもおもったのだろうか。
それとも豊臣家に対する最後の恩返しだったのか。

元盛が選ばれたのは、養父にあたる内藤隆春が輝元の伯父であり、義理の従兄弟にあたる輝元の代理になり得る立場にあったこと、当時内藤家が元盛の実兄・宍戸元続の仲介で主家から借財をしていたことが挙げられる。

結果は世間の予想通り徳川の勝利で終り、佐野道可こと内藤元盛も、毛利氏一門であることが露見してしまうのだ。
幕府の厳命を受けた毛利氏の厳しい捜索により逃亡中に京都で捕縛される。

しかし元盛がすごいのはここからである。
元盛は、取調べの担当である柳生宗矩の激しい尋問に対し、あくまで豊臣氏に恩義を感じての個人的な行動で、主家とは関係ないと主張。
毛利家の安全を確保しようと努める。
元盛の2人の息子内藤元珍粟屋元豊も、父が勝手に取った行動と主張し、幕府もこれ以上毛利家の陰謀を追及することができなった。
結局1615年(慶長20年)内藤元盛は自刃し、事件は一応収束する。

しかし毛利家は悲惨なことする。
毛利輝元と秀就は、元盛に対し次のような誓詞を与えている。

一、今度元続を以て頼んだ事、分別して上坂され神妙の至り。生々世々忘れない。約束した事は必ず守る
一、嫡子の本家は勿論、その兄弟の分家まで将来とも見捨てず取り立てるから安心してほしい
一、大坂ではどんな事があってもお互い申し通じてはならない。城中の首尾、然しかるべきよう頼み入る

内藤元盛の2人の息子も自刃したことを知った柳生宗矩は嘆き、切腹を悼む旨の書状を宍戸元続・都野惣右衛門の両名に送ったといわれている。

内藤元盛の毛利家に対する義は報われることはなかった。

なんと事情を知る息子の元珍・元豊を幕府の追及を恐れるあまり密かに自刃させるのだ。

これに激怒した内藤元盛の妻は毛利輝元の振る舞いを非難するが、逆に元珍の子・元宣を幽閉して家名存続の約束を反故とした。
このため、内藤氏はいったん断絶する。
騒動が忘れられた頃に内藤元宣の子、内藤隆昌が再び禄を与えられ毛利家家臣として仕えることになる。


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